1.第一は、神の偉大さについての驚きと感動です!
この詩篇8篇は表題にありますようにダビデ王の賛美です。それはまさに「私には身に余る恵みです」との告白と言えるでしょう。神様の偉大さ、その愛とあわれみに驚き感動し、主を賛美しているのです。1節です。
1節 主よ 私たちの主よ あなたの御名は全地にわたりなんと力に満ちていることでしょう。あなたのご威光は天でたたえられています。
1節前半「主よ 私たちの主よ あなたの御名は全地にわたりなんと力に満ちていることでしょう。」の部分は、最後の9節と全く同じ感嘆文です。やさしい文(簡単な文)ではなく、神様があまりにも素晴らしいので「驚いている」方の「感嘆文」です。
もちろん、驚きとともに神様への賛美の思いもそこに含まれています。驚きで始まり、驚きで終わっているサンドイッチのような構造。その間に驚きの中身があるわけです。
さて、この「なんと~でしょう」という部分、原語のヘブル語で感嘆詞が使われています。どのようなヘブル語でしょう?三択クイズです。1.ほぉ! 2.へぇ! 3.まぁ! 正解は3番で「マー(מָה)」ということばです。日本語でも「まぁ!すごい!」と驚きを表現しますから、覚えやすいですね。
そして「力に満ちている(アディール)」は、偉大である!すばらしい!力強い!などの意味があります。神様の御力はあまりにも素晴らしく、力に満ちているので、ダビデは驚き仰ぎ見て、その御名を賛美しているのです。「全地にわたり」とダビデが言うように、世界中至るところで神の偉大さを感じられるのです。
なお、その威光は地上だけで終わりません。なぜなら、地球だけでなく、地球から見た「天」、すなわち全宇宙まで造られたのですから。3-4節でもダビデはこう語ります。
3節 あなたの指のわざである あなたの天 あなたが整えられた月や星を見るに 人とは何ものなのでしょう。と。
ダビデは、夜の星空を見上げ圧倒されたのでしょう。主が造られた広大な天、すなわち宇宙。しかもそれは「あなたの指のわざである」と表現します。指先だけで、あの広大すぎる宇宙のすべてをいとも簡単に造ることのできる神様に対して、強い畏敬の念を覚えているのです(実際には指さえ必要ないのですが)。そして、それは本当に美しく整えられていました。私も星空は大好きで、吸い込まれるような美しさに圧倒されます。
いつでも穏やかに輝く月。数えきれないほどの無数の星のきらめき。それらを一瞬で造られた神の偉大さは、はかり知れません。かつて神様がアブラハムを外に連れ出し、「星を数えてみなさい」と言われ、偉大な神様を信じた場面を、ダビデも当然知っていたでしょう。ダビデ自身も、それを追体験したのかも知れません。神の偉大さ、これこそが第一の驚きです。
では、ここにある第二の驚きと感動とは何でしょうか。
2.第二は、小さな者に心を留めてくださることへの驚きと感動です!
それは、この偉大な神様が、こんなにも小さな私たちに心を留め、良いもので満たしてくださっていることです。2節にこうあります。「幼子たち 乳飲み子たちの口を通して あなたは御力を打ち立てられました。」と。
これは、弱くて力のない者たちを通して、神様がみわざをなさり、栄光を現してくださるということです。まるで赤ちゃんのように無力な者でさえ、主は豊かに用いて、力あるみわざをなさるのです!!改めて4節を味わいましょう。
4節 人とは何ものなのでしょう。あなたが心に留められるとは。人の子とはいったい何ものなのでしょう。あなたが顧みてくださるとは。
「人とは何ものなのでしょう」と、驚きに満ちて告白します。神の偉大さを前にして、自分の小ささを意識させられたのです。同時に、ある思いがわき上がりました。これほど偉大なお方が、吹けば飛ぶような自分に心を留め、こんなにも良くしてくださるとは、なんと畏れ多くありがたいことか!と。3節にあったように、広大な宇宙を見る時、自分たち人間は一粒の麦よりもはるかに小さく、塵にも等しい存在であると意識させられたのです。
ダビデの職業は羊飼いでした。教養もなく社会的身分も低かったのです。さらには、彼は父エッサイの8人の息子のうち、一番下の末っ子でした。そのため、預言者サムエルが次の王を選ぶ際、このダビデだけが家で留守番させられたのでした。軽んじられ過ぎて、自分だけ祝宴に連れて行かれなかった。悲しいですね。ですから、ダビデは自分が誰よりも小さな存在で、王になるなどあり得ないことだとわきまえていたはずです。
ところが、あの広大な宇宙を造られた全能の神様が、吹けば飛ぶような小さな自分に心を留めてくださったのです。自分を王として召し、自分を用いてイスラエルを本当に豊かな国にされたのです。それは「ただ主の恵み」、「ただ主のあわれみ」に他なりませんでした。ダビデは、ことばで言い尽くせないほどの驚きと深い感動に包まれたのです。海よりも深い神のご愛に、ただただ恐縮し、胸が熱くなったことでしょう。5-6節にもこうあります。
5節 あなたは 人を御使いより わずかに欠けがあるものとし これに栄光と誉れの冠を かぶらせてくださいました。
6節 あなたの御手のわざを人に治めさせ 万物を彼の足の下に置かれました。
「御使い」と訳されたことばは、「エロヒム」という神を表すことのできることばです。訳によっては「神よりいくらか劣る存在」と訳されています。それは、あまりにも光栄です。「神のかたち」に造られ、神と親しく語り合える存在とされているということです。この世界のどの動物にもまさる栄誉を受けているのです。「栄光と誉の冠」とは、何よりも「神のかたち」に造られたことであり、だからこそ、主はご自分の御手のわざを人に治めさせてくださるのです。それだけでなく、豊かに治められるように、理想の王、まことの王を、主は遣わしてくださいました。それがイエス・キリストです。キリストによって、信じる私たちは罪きよめられ、終わりの時には、万物を治めるに相応しい者とされるのです。
3.私たちの応答
二つの驚きと感動をご一緒に味わいました。私たちもまた、全宇宙との比較で言えば、塵よりもなお小さな存在でしょう。私たちは、神様の心に留まらなくても仕方がないような存在です。顧みられるほど大そうな存在ではないのです。それほど小さく取るに足りない者たちではないでしょうか。いや、それどころか、一年を振り返る時に、自分たちの多くの失敗、様々な過ちも思い出されます。汚れ切った心の持ち主であることを突きつけられます。
それなのに、主は、このような汚れた私たちに心を留めてくださいました。髪の毛の一本一本、細胞の隅々まで知り抜くほどに、私たちに関心を持っていてくださるのです。そして、私たちの名前を呼び、「わたしはあなたを愛している」と言われるのです。その愛のゆえに、キリストの十字架によって私たちを救い、「わたしの愛する子」と呼び、豊かに恵んでくださるのです。
それどころか、神様はあなたに語りかけておられます。
「愛するあなたを通して、あなたによって、この世界にわたしの栄光を現したいのだ」と。
なんと嬉しくて、なんと光栄なことでしょうか。主はあなたとそうしたいのです。
一年の最後に振り返りましょう。辛いこと、悲しいこともあったでしょう。思い出すことさえ苦しいこともあるかも知れません。
しかし、あなたの大切な過去たちを悪魔のしもべにしてはいけません。
幼子や乳飲み子を通してさえ、御力を打ち立てる主の偉大さを覚えましょう。指先だけで広大で美しく整えられた天を造られた主のすばらしさを見上げましょう。この方には、すべてを良きものに変える圧倒的な力があるので!神様の恵みの側に過去をも買い戻していただきましょう!
あの苦しいことがあったから、本当に祈らされ、今は主を賛美している!
あの痛みがあったから、隣人に寄り添う者とされている!
あの失敗があったから、教えられ成長し、主のみわざを見るものとされた!
これにより私たちはますます主を知り、主への信頼を深めさせていただけるのです。この感動、この驚きが私たちを強くし、私たちを豊かにします。このお方を驚き仰ぎ見て、ほめたたえましょう。それが私たちの喜び、私たちの力なのですから。