2025年
1日 マタイ10章
16節で弟子を遣わす際に、イエスは言われている。狼の中に羊を送り出すようなものであるから、蛇のように賢く、鳩のように素直であるようにと。続く17節でも、人々に用心するようにと語られている。クリスチャンは愚かではなく、むしろ賢くあるよう召されている。特にこの世の悪意ある者たちは、聖書やキリスト教に反対し、様々な方法で迫害をしてくることがある。その際に、みことばや善意に対しては素直に受け入れつつも、悪意に負けないような知識、知恵をフル稼働することは大切である。神はそれを与えてくださる。また、実際に権力者の前に立たされ、厳しい状況に置かれても、御霊が話すべきことばを与えてくださる。世にあって多くの戦いがあるが、主の上からの知恵をしっかりいただき、御霊が与えることばの力で勝利していく者でありたい!
2日 マタイ10章
24節 弟子は師以上のものではなく、しもべも主人以上の者ではありません。25節 弟子は師のように、しもべは主人のようになれば十分です。「師」「主人」も主イエスのことであると考えれば分かりやすい。イエスの弟子は、この方以上になれることはあり得ない。この文脈では、迫害や困難も意識しているが、それらの苦しみについても主イエス以上のものを受けるわけではないと言えるだろう。背負うべき十字架の重さも、使命も、様々な苦しみも、イエス様以上に受けることはない。だが、この方を目指して、この方に少しでも近づいていくことが大切な目標となる。それは私たちにとって本当に嬉しいことであり、神の栄光を豊かに現す者とされるということだ。もちろん、それは修行や努力の賜物ではなく、御霊の助けをいただいて、みことばに生き抜くことによる。いつでも主イエスから目を離さずに歩んでいこう!!
3日 マタイ10章
28節 からだを殺しても、たましいを殺せない者たちを恐れてはいけません。むしろ、たましいもからだもゲヘナで滅ぼすことができる方を恐れなさい。 迫害に対する主の教えが続く。人にできることは、せいぜい肉体を殺すこと。その「たましい」までを滅ぼす力は人にはない。一番に恐れるべきは主である神。一番力があり、強きお方を恐れる時、私たちは必要以上に人を恐れなくて良い。29節では、最も安いスズメでさえも神にしっかりと覚えられ、生かされていることが語られている。そして、スズメよりも価値を置いてくださる私たち人間に、強い関心を持って髪の毛の数まで知っていて下さる主(30)。「だから、恐れてはいけません」と語られる(31)。すべてを知り、すべてに正しく対処できる主を恐れ、この方について従っていけば大丈夫。何も恐れなくてよい!
4日 マタイ10章
人々の前でイエスを認める人のことは、主イエスも父なる神の御前でその人を認めてくださると言う。反対に、人々の前で「イエスを知らない」と言うような者は、主イエスも父の御前で「その人を知らない」と言われる(32-33)。イエスを私の救い主、主であると信じない者は、当然このような扱いを受ける。自業自得であり、当然の帰結でろう。だが、信じて救われている者も、その救いの恵みに甘えすぎてはならない。キリストを常に隠し、少しも言い現わそうとしないならば、自分の信仰とは何なのか、神の前に自分は誠実なのかと問われる必要がある。神を恐れる者は、自分の信仰を隠したりしない。なぜなら、神が最も力ある方であると知っているからだ。人ではなく、神を恐れる者として、いつもイエスの御名を人々の前で認め、言い現わす者でありたい!
5日 マタイ10章
34節で、イエスはご自身が来たのは「地上に平和をもたらすためだ」と思ってはならないと言われる。むしろ、剣をもたらすために来たとさえ言われた。イエスのもたらす平和は、我々の考える安易な平和とは異なる。悪を野放しにする平和ではないし、夫婦の間で会話をしないことで作る平和でもなく、友人に愛をもって真理を語ることを避ける平和でもない。ご機嫌取りによる平和ではないのだ。真理を語り、罪を明らかにし、そうした人々が悔い改めて神に立ち返ることによってのみ与えられる平和だ。そこには頻繁に抵抗、反対が起こる。誰もが罪を認めたくなく、神の真理を拒みたいことがあるからだ。だから、キリスト以上に隣人を愛してしまう人は、弟子としてふさわしくないとさえ語られる(37)。自分に主が与えられた十字架の使命を負い、古い自分をしっかりと十字架に磔にし、ただ神のみこころに生きていこう。
6日 マタイ10章
主イエスは、40節で「あなたがたを受け入れる人は、わたしを受け入れるのです。」と言われている。主イエスの弟子を受け入れ、彼らに良くしてする人がいるのならば、それは主イエスを受け入れて良いことをしたことになる。さらに42節によれば、「わたしの弟子だからということで、この小さい者たちの一人に一杯の冷たい水でも飲ませる人は、決して報いを失うことがありません」とも言われている。そして、40節ではもう一つのことが語られている。イエスを受け入れる者は、イエスを遣わした父なる神を受け入れることであると。まとめると、イエスの弟子の一人、しかもその中でも小さい者の一人に、たった水一杯でも飲ませるような人は、神に対して良いことをした者とカウントされる。だから、その人は神からの報いを受けることになる。そう思うと、私たちはもう少し、主の弟子一人一人に良きことをしていこう!という動機になるのではないだろうか?
7日 マタイ11章
ここでは、主イエスこそが約束の救い主キリストであることを明らかにしようとしています。2節では、牢獄にいたバプテスマのヨハネが、「おいでになるはずの方はあなたですか」と、イエスに確認しようとし、自分の弟子を遣わしている。これに対するイエスの答えは興味深い。「そうだ」と言わず、自分たちがその目で見たこと、聞いたことをヨハネに伝えるようにと言われたのだ(4-5)。時に、実際になされたみわざは、ことば以上に説得力がある。そして、主はこう言われた。「わたしにつまずかない者は幸いです」と。なぜ、イエスにつまずくことが起こるのだろうか?それは、自分の持っている救い主のイメージとのズレがあるからだ。ひとつの大きな原因は、イエス・キリストに関する無知や偏見である。人間は神ではないので、少なからずこの課題を持つ。そこで大切なことは、知ったつもりにならないことだ。絶えず、主を求め、主を知り続ける人生なのだ。謙虚にこのことを受けとめよう!私たちはまだまだ、知るべきを知っていないのだ。
8日 マタイ11章
ヨハネの声にも、主イエスのことばにも耳を傾けない人々がいた。パリサイ派の人々や彼らに流されている群衆だ。そこでイエスは、7節以下で厳しいおことばを投げかける。「あなたがたは何を見に荒野に出て行ったのですか。風に揺れる葦ですか。そうでなければ、何を見に行ったのですか。柔らかな衣をまとった人ですか。」と。風に揺れる葦とは、信念も持たず自分たちの都合でフラフラ流される人々。柔らかな衣を着た人とは、王宮で贅沢な暮らしをしている貴族たち。バプテスマのヨハネはその真逆だった。あえて質素な身なりをし、ただひたすらにみことばの預言を伝え、キリストを指し示す人だった。主イエスは、10節で、このヨハネのこそ最も偉大な預言者として遣わされた人であり、それを受け入れる姿勢を持つなら、この人こそ来るべきエリヤなのだと教えられた(14)。そして、「耳のある者は聞きなさい」と命じられた(15)。私たちは何を聞き、何を見ているだろうか?本当に聞くべきこと、見るべきものを大切にしていこう!!
9日 マタイ11章
主イエスは、16節でこの時代は何にたとえられるだろうかと語り、広場で他の子どもたちに呼びかける子どもたちのようだと言われた。17-18節で、その子どもたちの呼びかけの内容がある。「笛を吹いてあげたのに、君たちは踊らなかった。弔いの歌を歌ってあげたのに胸をたたいて悲しまなかった」と。「笛吹けど踊らず」との諺はこれに由来する。せっかく様々なお膳立てをしてあげても、それに応じて来ず、まるで反応が薄い様子を表すことばである。実際、ヨハネが来て禁欲的に慎ましく歩んだなら「この人は悪霊につかれている」と言って非難し、主イエスが食事の交わりを大事にしていると、今度は「大食い、大酒飲み、取税人・罪人の仲間だ!」と非難した。何をしても素直に受け入れないのだ。私たちも、他人や状況のせいにせず、自身の素直さの欠如と向き合う必要があるのではないか。与えられているみことば、教会、環境など、そこにある恵みをしっかりと受け取っていこう!!
10日 マタイ11章
20節で、主は、ご自分の力あるみわざの数々を知っても悔い改めなかった町々を責めている(20)。愛の叱責だ。21節「ああ、コラジン。ああ、ベツサイだ。」とあるが、これは深い嘆き悲しみを表している。そして、同じみわざがツロやシドンの町で行われたなら、彼らは心から悔い改めたであろうと説明される。また、カペナウムの町に向かっても嘆き叫ばれ、この町は、さばきの日にはよみに落とされるとまで言われる(23)。すでに滅んだ罪深い町ソドムよりも「悪い」とさえ言われるのだ。なぜならば、主イエスのみわざを知りながら、なお、悔い改めないでいるからである。もちろん、神のみわざを知らないからと言って、罪が免除されるわけではない。罪はあるので、それに対するさばきがある。だが、主イエスと出会いながら、なお拒むのはもっと深刻である。だが、イエスは一人でも多くの者に救われて欲しいゆえに、このように嘆く。この愛を私たちは痛いほどに覚える必要がある。
11日 マタイ11章
イエスは25節で、このように語っておられる。「天地の主であられる父よ、あなたをほめたたえます。あなたはこれらのことを、知恵ある者や賢い者には隠して、幼子たちに現してくださいました。」と。父なる神は、真理をこの世の知恵ある者、賢い者には隠して、主イエスを素直に信じる幼子のような者にのみ現わされた。これは、神のみこころにかなったことであった(26)。これは人間には不思議なことである。偏差値が高くとも、優秀な成績を残していようとも、それらの人の知恵ではいつまでも分からない。しかし、たとえ学校に行ったことがない人であっても、主イエスを求め、この方を信じて受け入れるなら、その人にはこの世界のすばらしい真理が明らかにされるのだ。それゆえ、神を恐れることが知識の初めなのである!神を知ろう。この方に世界を教えていただこう!それが真に賢い人だ!!
12日 マタイ11章
27節にあるように、主イエスは、すべてを父なる神から任されている。そのイエスは、この次のように私たちを招いてくださっている。 28節 すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。 私たちは負わなくて良い重荷を負い、負うべき大切な重荷を負わないでいる。ここがずれてしまっているため、疲れを覚えるし、生きる意義を見失う。そして、自分の方法で休もうとするので、休みにかえって心が落ち込み、仕事や学びに復帰しにくくなる。29節で、主イエスは「心が柔和でへりくだっている」と言われる。自分でこれを言えるのはイエスだけだろう。この方に学び、この方が負わせてくださる正しい良い重荷を担う時、私たちはたましいに安らぎを得ることができ、良い働きにまい進することもできる。主イエスは休む意味を誰よりもご存知で、最高の休み方と最高の働き方を知っておられるのだ!
13日 マタイ12章
安息日に弟子たちは空腹のために、麦の穂を摘んで食べた(1)。パリサイ人はそれを見つけ非難した(2)。しかし、主は旧約のダビデの記事(3-4)を挙げ、お腹が減って、動けなくなるような緊急時には罪に問われないことを示された。また、宮にいる祭司たちの話を示し(5)、律法上も問題ないことを話された。イエスは「安息日律法」は、人のためにあることを誰よりもご存じであったからだ。安息日のために人が造られたのではない。人のいのちの方がずっと大切である。さらには、6節にあるように、今ここには宮よりも偉大な神ご自身なる主イエスがおられた。神を礼拝する場である「宮」よりも、礼拝されるべきキリストの方が偉大であることは明白だ。そのイエスが、神に喜ばれるものは、いけにえではなく真実な愛であると、ホセア6章6節を引用して諭された。安息日の主である神のみこころを行うことこそ、安息日にふさわしいことである。
14日 マタイ12章
9節以降も、安息日の議論が続いている。片手が不自由な人が、安息日に癒すのは律法にかなっているかという質問をイエスにした(10)。ただし、その動機は「イエスを訴えるため」であった。ここでむしろ、この質問者に問いたいぐらいだ。「人を訴えようと罠にはめることは、安息日に相応しい事なのですか」と。主イエスは11節以降で、質問を返すことで、神のみこころをお示しになった。それは、羊が安息日に穴に落ちたら、それを助けないのですかという問いだ。もちろん、答えは「助ける」ということ。そして、人間は神の目に羊よりもはるかに価値あるものであるから、その人間を助けることは律法にかなっているのだ。それでイエスは、この人の手を癒された(13)。人を訴えて足を引っ張ろうとすることと、人を助けて生かそうとすること。どちらが安息日に相応しいのか、あまりにも明白ではないだろうか。
15日 マタイ12章
主イエスは、癒しを願って訪れる人々をみな癒された(15)。そして、そのことを人々に知らせないようにと戒められた(16)。この姿勢はパリサイ人らとは真逆であった。彼らは自分の前でラッパを吹いて、力を誇示しようとした。しかし、イエスは、17節以降のイザヤ書の預言にあるように、自らを低くし自己を主張しない。19節で「彼は言い争わず、叫ばず、通りでその声を聞く者もない。」とある。主イエスは、必要とあらば愛の動機によって、自分を無力とすることを自ら選んだのだ。十字架につけられた時にも、イエスは何の反論も弁解もせず、ただ黙ってその苦しみに耐えられた。不要な争いを避け、助けを求める人々を一人でも多く救うこと。何よりも父なる神のみこころに従うことに関心があったからではないか。私たちはどうだろうか?反論したいことがあっても、その人の救いのために沈黙できるだろうか。議論で説得することが正しいとは限らない。沈黙の中にも愛があり、神のみこころがある。
16日 マタイ12章
22節で、悪霊につかれている故に目が見えず、耳が聞こえない人がイエスのもとに導かれた。イエスはこの人を癒され、群衆は驚いてこの人が「ダビデの子」なのではないかと言った(23)。しかし、これを聞きつけたパリサイ人らはイエスを批判した。あの人は、悪霊の親玉ベルゼブブによって、悪霊たちを追い出しているのだといった内容である(24)。そこで、主イエスは、彼らの思いを知って、彼らの矛盾を指摘された。サタンがサタンを追い出すようでは、仲間割れであって、その国は立ち行かないだろうと(25-27)。そして、実際には神の御霊が、悪霊を追い出しているのであり、それこそが神の国があなたがたのところに来ている証拠であることを示された(28)。主イエスは、むしろ悪霊たちの親玉であるサタンさえも縛り上げ、その力を抑えることができるゆえに、悪霊追い出しができたのである(29)。キリストの圧倒的な力によって、勝利は確定しているのだ。まだ完成はしていない神の国だが、すでに来ており始まっており、完成へと確実にたどり着くのだ!
17日 マタイ12章
33節にて、「木の良し悪しはその実によって分かります」とある。実が良ければ良い木なのであり、実が悪いのであれば悪い木とされる。34節でも「心に満ちていることを口が話すのです」とあり、その内側に罪とその汚れがあるために、そのことばや行いも悪くなると教えている。それゆえ、自分のことばとその心を分離することはできない。だから、口にするあらゆることばについて、さばきの日に申し開きをしなければならないし(36)、逆にその自分のことばによって義と判断される(37)。だから、私たちは表面だけを変えようとするのではなく、内側から主に取り扱っていただく必要がある。
18日 マタイ12章
38節。律法学者やパリサイ人は、「しるしを見せていただきたい」とイエスに言った。それが本気で信じたいからであればまだ良かっただろう。しかし、14節によればイエスを殺そうとしていたと分かる。イエスは答えた。しるしを求めるのは、悪い、姦淫の時代(神に背いている時代)であると(39)。ただ、イエスはこの求めに対して、預言者ヨナのしるしは例外だと言われた。それは、ヨナが三日三晩大魚の腹の中にいたように、主イエスが三日三晩地の中にいることになるからだと説明された(40)。これは、主イエスの十字架の死からの復活のことであった。神は復活という非常に力強いしるしを人類に与えられた。それでも信じない人々は、かつてヨナの説教を通して見えない神を信じたニネベの人々によって、その不信仰を断罪されても仕方ないのだ(41)。あるいはシェバの女王が素直に信じて、ソロモンの知恵を尋ね求めた姿もあった。主イエスは彼らより優れた方だ。見ないで信じる素直な信仰をもって歩もう!
19日 マタイ12章
43-45節にかけては、悪霊が一人の人から追い出されるだけでは不十分であることが語られている。追い出された汚れた霊は、休める行き場を探してさまよう(43)。だが、見つからないので、出て来た自分の家(元の人)に戻ろうと考える(44)。その際に、その人の内側が、誰の支配も受けていない空っぽの状態である場合、より悪い霊たちを連れてきて、再びそこに住み始めてしまうというのだ(45)。すると、最初の時よりも悪い状態になってしまう。主イエスが伝えたいことは、汚れた霊を追い出した後に、聖なる霊によってその空き家を治めていただく必要があるということだ。二度と悪い霊が近寄れない状態にしておくために、神ご自身に治めていただくのである。良くない何かに依存している際、それをやめるだけだなら、再びそこに戻ってしまうのが人の弱さだ。だから、キリストに拠り頼むことで守られることを知ろう!
20日 マタイ12章
46節からは、主イエスとその家族についての話である。イエスの兄弟たちは、母マリアとともに、イエスに話しかけようとしていた。マルコの福音書を読むと、イエスを自宅に連れ戻そうとしていたようである。特に、イエスの事を「気が狂っている」と言う人々がいたためである。それである人が気をきかせて、イエスに話しかけたのだ。だが、イエスの反応は毅然としたものであった。「わたしの母とは誰でしょうか。わたしの兄弟たちとはだれでしょうか」とイエスは言われた(48)。確かに、イエスの兄弟は、血のつながった家族関係があった。しかし、イエスの思いや考えを理解できていなかったので、連れて帰ろうとしたのである。それは、本当の意味でイエスの兄弟であろうか? 私たちは主イエスと心が通じ合う、霊的な交わりを持っているだろうか。
21日 マタイ13章
主イエスは、「種蒔き」のたとえ話をなさった(3)。種が4つの異なる地に蒔かれた。それぞれ「道端」、「岩地」、「茨の間」、そして「良い地」であった。同じ種が蒔かれたとしても、蒔かれた地の違いによって成長は大きく違うという話だ。道端の場合、土の中に入り込む間もなく、鳥に食べられてしまう(4)。岩地の場合は、早くに芽を出すが、土が深くないために、しっかりと根を張ることができず、枯れてしまった(6)。茨の間に落ちた種は、途中まで成長するが茨が成長を妨げてしまった(7)。良い地に蒔かれた種だけが、100倍、60倍、30倍の実を結んだ。種はみことばのことで、土地は私たちだ。同じみことばの種が蒔かれているのに、土地次第でこんなにも大きな違いが現れるのだ。私たちが、いかに神のみことばから教えられやすい器となっているか、恵まれやすい者となっているかが問われている。みことばには力がある。あなたの心を良い地として種を受け入れよう!
22日 マタイ13章
10節。種蒔きのたとえ話を聞いて弟子たちは質問をした。「なぜ、彼らにたとえでお話になるのですか」と。11節でイエスは答えられた。「あなたがたには天の御国の奥義を知ることが許されていますが、あの人たちには許されていません。」と。信じていない者は、奥義を知ることが許されていないのだ。たとえ話は、持っている者にさらに与え、持たない者には扉を閉ざす便利な道具だ(12)。主イエスは求める者、信じる者になるよう教えているのだ。何を持っているのだろうか?主イエスを持っている。神の国を持っていると言えるだろう。その人は、神の子として、父から多くを受け継ぐことができるのだ。子どもだから、その父のお心を知ることができるのだ。だが、求めない者は、真理がわからず、持っていると奢っている物さえ、やがて失ってしまう。だから、神の真理を求めよう!たとえ話によってシャットアウトされる側に立たず、かえって奥深い真理へと導かれる者となろう!
23日 マタイ13章
14-15節ではイザヤ6章の預言からの引用である。それは、聞いても悟らない、見ても知るようにならない心の鈍い民について語られている。私たちは神によって、目も耳も与えていただいた者である。精巧な機械よりはるかに優れた目の機能、耳の機能である。それらは何のために用いるべきであろうか?罪を犯すため、悪いことのためにあるのではない。神のみわざを見て、神のみ声を聞くためにある。そうやって、神を知るために与えられている。
ゆえに、16節で語られているのは、見るべきものを見ている人は幸いだということ。聞くべきことを聞いている者は幸いだということだ。そして、旧約時代の預言者や義人たちは、見たい、聞きたいと願って求めてさえ、それを見ること聞くことができなかった。「それ」とはキリストである。だが、今、弟子たちはキリストをその目で見て、その耳で聞いている。なんと幸いなことか。だからこそ、この方から目を離すなどあってはならないのだ。
24日 マタイ13章
24節から、再びイエスの天の御国についてのたとえ話が語られる。それは麦と毒麦のたとえ話である。人が寝ている間に、敵が来て麦の中に毒麦を蒔いたのだ。麦が芽を出したと思った時、同時に毒麦も芽を出すことになった(26)。その際、毒麦を抜くべきかと主人に尋ねたが、主人はこう答えた。『いや。毒麦を抜き集めるうちに麦も一緒に抜き取るかもしれない。』と。だから、収穫の時までそのままにしておくようにと教えられた。
本当の信者とそうでない者とを見極めることは、容易ではなく、非常に大きな危険をはらんでいる。安易に人をさばき、あの人は不信者だと決めつけてはいけない。その心の中すべてを知る方は、主である神だけだからだ。早まったさばきをせず、主のさばきにゆだねることも学ぼう。
25日 マタイ13章
31節では、主は天の御国について、「からし種」のたとえを通して教えておられる。どんな種よりも小さいけれども、生長するとどの野菜よりも大きくなって木となり、鳥が巣を作るまでになると言われる(32)。また、33節では、天の御国はパン種(イースト)に似ているとも言われる。わずかにパン種を小麦粉の中に入れて混ぜると、全体を大きく膨らませる効果がある。神の国の働きは、最初は本当に小さなところから始まるし、それで良いのだ。やがて主がそれを非常に大きく、豊かなものにしてくださるからだ。大切なことは、それを信じて、あきらめずに続けることである。むしろ、だからこそ神の力が現わされるのだ。34節にあるように、イエスはこうして、多くのことをたとえ話によって群衆に話された。信じる者のみ、主イエスに求める者のみが、その奥にある真理にたどり着けるからである。
26日 マタイ13章
36節から43節のところは、毒麦のたとえの意味の解き明かしである。弟子たちが群集に語られたそのたとえの意味をイエスに尋ねたのだ。良い麦の種を蒔くのはイエスであった。畑はこの世界であり、良い種は御国の子ら、毒麦は悪い者の子らであると言われる。悪魔がこの毒麦を蒔いていると言われる(39)。最終的に毒麦というものは火で焼かれるように、これらの者たちは世の終わりには燃える炉に投げ込まれる(40-42)。一方、正しい良い麦の者たちは、43節にあるように父の御国で太陽のように輝くのだ。人は早まったさばきをすべきではないが、自分自身は良い麦であるかどうかを問われることは大事であろう。主イエスは、本来、誰も燃える炉に投げ込まれて欲しくないのだ。むしろ、御国で太陽のように輝いて欲しいと誰よりも切に願い、十字架にかかられたのだ!
27日 マタイ13章
44-50節にて、さらに天の御国についてのたとえ話がなされてる。天の御国は畑に隠された宝のようなものであると語られる(44)。喜びのあまり、持っているすべてを売って、その畑ごと買うという話である。そして、この宝が我々のことだと理解すべきであろう。そのために、見つけてくださった主イエスは、ご自身のすべてをも犠牲にされ、私たちを買い取ってくださったのです。45-46節にある良い真珠を探す商人もまた、主イエスのお姿であると理解するのが妥当であろう。ここでもやはり「持っていた物すべてを売り払い、それを買う」というのだ。このように解釈する理由は、前後の文脈を考慮してである。直前は麦と毒麦の話であり、神は良い麦を収穫し、悪いものは炉に投げ込むということであった。直後の47-50節もまた、網にかかった魚のすべてを、良いものと悪いものに分別し、悪い物は炉に投げ込むのだ。キリストによる尊い犠牲をよく理解し、捨てられる側に数えられないようにしたいのだ。泣いて歯ぎしりしても遅いのだから(50)、良いものの中に入れていただこう!!
28日 マタイ13章
53節以降は、主イエスがご自分の郷里で教えられた時のことが語られている。郷里の人々は最初こそ驚いたが(54)、この人は「大工の息子」ではないかとわかると、イエスにつまずき、敬うことができなかった(55-56)。偏見に満ちていると言える。それゆえ、イエスは言われた。「預言者が敬われないのは、自分の郷里、家族の間だけです」と(57)。郷里の人々はこれで不信仰に陥ったのは残念である(58)。いずれも人間的な基準や見方であるからだ。自分の子であろうと、兄弟であろうと、昔をよく知っていようと、その内容において評価されるべきである。神の召しで立てられ、神によって遣わされ、神のことばを語っているならば、それが誰であるかよりも、その内容に心を留め、従っていくべきであろう。そこには、自分をよく知るあの人より上に置きたいという人間の欲もあるのだろう。身近で、お世話をしてあげたことがある相手から教わるのは、プライドも傷つくのかも知れない。だが、それで大切な神のことばを聞けず、みわざを見れないのはもったいないことである。
29日 マタイ14章
領主ヘロデは、イエスのうわさを耳にし、バプテスマのヨハネが死から復活したのだと思い込んだ(1-2)。なぜなら、彼はヨハネの首をはねた張本人であったからである。かつて、彼は自分の兄の妻を奪ったことを、ヨハネから律法違反であると指摘され、彼に殺意を持っていたのだ(3-4)。それでも民衆を恐れててできなかった時に(5)その機会が訪れた。ヘロデの誕生祝いの際、妻へロディアの娘が踊りを披露した(6)。それで彼は喜んで、つい「望むものを何でも与えよう」と誓ってしまったのだ(7)。娘は母親から言われるままに、ヨハネの首を所望した。ヘロデは誓った手前その通りにし、残酷でおぞましい出来事が起こったのだ(8-11)。だが、2節にあるように、ヘロデはヨハネが復活し、自分に復讐しようとしているのではないかと恐れたのだ。聖なる方をそのようにしか見ることができないヘロデは不幸である。その不幸は自分の犯した罪の結果だった。人は罪を犯す自由さえ神に与えられているが、その結果を必ず刈り取ることになることを肝に銘じたい。
30日 マタイ14章
ヨハネが首をはねられたことを聞いた時、イエスは舟でそこを去り、自分だけで寂しいところに行かれた(13)。イエスにとって、バプテスマのヨハネは親類であり、洗礼を授けてもらった相手。親しい存在であったであろう。「自分だけで」寂しいところへ行っているので、弟子たちはそれ以上のことは分からなかったのだろう。ただ、イエスはこのような時は決まって父なる神に祈っておられた。イエスは複雑な感情を父なる神に祈り、その対話の中で慰めを得たのであろうし、父なる神は祈りに早速応えられたように思う。13節後半に、群衆がイエスを追って来たことが語られている。そして、イエスは彼らを見ると「深くあわれんで」、彼らのうちの病人たちを癒された。イエスの目には、明日をも知れぬあわれな民の嘆きと叫びが見えた。それこそが主の使命であった。イエスが立ち上がれたのは、ご自身の使命に向き合わされたからかも知れない。私たちも悲しみで倒れそうな時、自分の前に滅び向かう人々の嘆きと悲しみがあることを覚えたい。
31日 マタイ14章
15節からは、群衆の食事の問題が出て来る。いわゆる「五千人の給食」である。弟子たちは群集を解散させ、各自で食事を調達させるように考えた。当然と言えば当然の判断であった。成人男性だけでも五千人もの群集を食べさせる余力は彼らにはなかった。しかし、16節で主イエスは意外過ぎる指示を弟子たちに出す。「彼らが行く必要はありません。あなたがたがあの人たちに食べる物をあげなさい」と言われたのだ。弟子たちは唖然としただろう。そこで彼らは、5つのパンと2匹の魚しか手もとにない現実をイエスに伝えた。イエスもそれを聞けば諦めるだろうと考えたのだろうか。だが、イエスはそれを持って来させた。そして、これらを手に取って父なる神をほめたたえ、パンを裂いて弟子たちに与え、弟子たちはただそれを配った。パンも魚も無くなるどころか、余るほどであった(20)。どんな状況でも主イエスの声に従うことが大切だと教えられる。すぐに無理だ、不可能だと考える私たちだが、まずは主のもとに持って行こう。主が何をなさるのか、期待してみわざを見よう!!
引用元聖書
<聖書 新改訳2017>
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