*** 3/22(日)主日礼拝 説教概略 ***
皆さんは、「これがあれば自分は大丈夫だ」と思っているものがあるでしょうか。ある人にとっては学歴かも知れません。ある人にとっては仕事の実績かも知れません。あるいは健康や良い人間関係、あるいは貯えかも知れません。
それらがあると安心し、失いそうになると不安になる・・・それが、私たちが「拠りどころにしているもの」、そして「誇りとしているもの」かも知れません。しかし、神様は言われているのです。「それらを誇ってはならない」と。
では、何を誇ればよいのでしょうか。私たちが真に誇るべきものとは何でしょうか。今日の中心のみことばです。24節にあります。「誇る者は、ただ、これを誇れ。悟りを得て、わたしを知っていることを」。主を知ること。それこそが、私たちを永遠に生かす幸いの源、揺るがない喜びの源なのです。この方を知る者となり、この方ご自身を誇る者となりましょう。
1.自分たちの本当の姿を知ること
今日のみことばの少し前9章前半では「神を知らない」ことが、どれほど深刻な問題であるかが語られていました。神を知らないために偽りの中で傷つけ合い、悪へと進んでしまったのです。そこで17-21節では、神を知らないことが、どれほど悲惨な現実をもたらしているのかを民に気づかせようと示すのです。
17節に「泣き女」を呼んで来るようにとあります。古代イスラエルでは、葬儀の際に、嘆きを涙して表現する「泣き女」と言うプロの女性たちがいました。しかも、巧みな泣き女を呼べと言うのです。泣き女の中でも高レベルの者です。
なぜ神様は、そのような人たちを呼べと言われたのでしょうか。それは・・・
本当は泣かなければならない状況なのに、民が泣いていないからでした。
滅びが迫っているのに、気づいていないのです。罪がもたらす現実の重さを分かっていないのです。それで主は言われるのです。「目を覚まし、真実を知りなさい」と。
私たちも同じではないでしょうか。「大丈夫」「これぐらいなら平気」と思い込み、聖書や祈りの時間、また教会のことを後回しにしてしまうことがあるのではないでしょうか。しかし、聖書は私たちの心を映し出す真実な鏡です。そこには、神から離れたままでは決して幸せには生きられない、私たちの本当の姿が映されます。
さて、20-21節では、盲目で現状を認識できていない者たちの目を開かせようと、「神のことばに聞け」と命じられています。
20節 女たちよ、主のことばを聞け。あなたがたの耳に、主の言われることばを受けとめさせよ。あなたがたの娘に嘆きの歌を、隣の女に哀歌を教えよ。
21節 死が、私たちの窓によじ登り、私たちの高殿に入り、道端で幼子を、広場で若い男を絶ち滅ぼすからだ。
神様は繰り返し愛に根ざした警告をされました。さばきを宣言したのも、滅びから守るためです。幸せになって欲しいのです。悲惨な現実を受け止めさせたいために、主は真実を語られるのです。「大丈夫、大丈夫」と高をくくっていてはいけないという事です。
22節にもこうあります。
22節 「語れ。主のことばはこうだ。『人間の死体は、畑の肥やしのように、刈り入れ人のうしろの、集める者もない束のように落ちる。
神のさばきにより、人々は無残に死に、その遺体は顧みられず、丁重に葬られることもない。そんな最期を迎える歩みで本当に良いのかと問われているのです。罪の欲のままに歩む時、むなしく悲惨な日々、滅びへと向かうのです。だから主は、あなたの本当の姿を知りなさいと言われます。霊的な鏡である聖書は、私たちにその真実な姿を見せてくれるのです。
2.人が誇るもののむなしさを知る
聖書から真実を知る時、私たちが「拠り所」にしているものが、実はむなしく消え去るものだと気づかされます。23節では、私たち人間が誇りにしやすい三つのものを誇ってはならないと教えています。
23節 ──主はこう言われる── 知恵ある者は自分の知恵を誇るな。 力ある者は自分の力を誇るな。富ある者は自分の富を誇るな。
知恵、力、富の三つを誇るなと教えられています。
知恵を誇るとは、自身の学歴や専門知識を誇るということでしょう。力を誇るとは、様々な能力や実績、権力に拠り頼むことでしょう。富を誇るとは、お金や資産による安定を誇ることでしょう。そして、これらを誇るゆえに、他の人を見下すという課題も含まれます。
ただ、この世では、これらは誰もが誇るものでしょう。ところが聖書は、これらを「誇るな」と言うのです。興味深いですよね。なぜ、みことばはそう示すのでしょうか。
それは、これらはどれも、いとも簡単に失われるものだからです。健康も仕事も評価も財力も永遠ではありません。思いもよらないことで、失われてしまうのです。それにも関わらず、私たちはこれらを頼みとし、これらを誇ります。
しかも、それによって本当に大切なものを失うのです。富や名声を得ようと死ぬ気で働き、人を蹴落とした結果、健康を失い、友を失い、家族を失うのです。そして後悔し、後になってから獲得した富や名声、権力で取り戻そうとします。
しかし、こぼれたミルクは元には戻らないのです。
また、これらは簡単に言うと「自分を誇りたい」ということです。それは、自分を高くし、神様を引き下げる行為ではないでしょうか。さらに、25-26節では、外側だけを整え、心は神様から離れている形式的な信仰の問題も指摘されています。私たちは、このことばに耳を傾けたい。ホセア書6章6節。わたしが喜びとするのは真実の愛。いけにえではない。全焼のささげ物よりむしろ、神を知ることである。 神が喜ばれるものは、目に見える高級品ではありません。あなたの心です。主である神をあなたが親しく知るようになることなのです。
3.本当に誇るべきもの(24節)
ですから、主は24節でこう言われます。
24節 誇る者は、ただ、これを誇れ。悟りを得て、わたしを知っていることを。わたしは主であり、地に恵みと公正と正義を行う者であるからだ。まことに、わたしはこれらのことを喜ぶ。 ──主のことば。』」
何を誇るのがよいと語られているのでしょう。「悟りを得て、わたしを知っていること」だと言われるのです。では、「主を知る」とはどういうことでしょうか。これは単に「神がいると知っている」ことではありません。「聖書の教えを知っている」ことでもありません。そうではなく、人格的な交わりの中で神を知ることなのです。
たとえば、ある人について「名前は知っています」と言うのと、「その人と食事をし、語り合い、信頼している」と言うのでは全く意味が違いますよね。イエス様とご飯を味わい、イエス様と語らい、イエス様をいつも信頼している人こそ、神を知る人です。
そして、改めてこの節の冒頭に目を留めましょう。
「誇る者は、ただ、これを誇れ」とありました。この意味は、「もし誇るのであれば、ただ一つ、これだけを誇れ」という意味なのです。「色々誇るものがあるけど、一番目にとりあえず神様にしておきましょう!」という意図ではない。主だけを誇るべきだということです。なぜなら、私たちが何かが出来たとしても、多くを所有していたとしても、それらすべては神様が与えてくださった恵みだからです。すべてはこの方から受けたものだからです。かつてイスラエルのダビデ王は、多くの財産を所有し、神の宮建設のために多くの財を献げました。その民もダビデにならって献げ、建設費用は豊かに与えられました。その国力、財力は圧倒的でした。けれども、ダビデは神を知る者でした。こんなに多くの富と力を持っているものの、これらはすべて神様から来たものであると知っているのです。
第一歴代誌29章11-14節を開きましょう。
11節 主よ、偉大さ、力、輝き、栄光、威厳は、あなたのものです。天にあるものも地にあるものもすべて。主よ、王国もあなたのものです。あなたは、すべてのものの上に、かしらとしてあがめられるべき方です。
12節 富と誉れは御前から出ます。あなたはすべてのものを支配しておられます。あなたの御手には勢いと力があり、あなたの御手によって、すべてのものが偉大にされ、力づけられるのです。
13節 私たちの神よ。今、私たちはあなたに感謝し、あなたの栄えに満ちた御名をほめたたえます。
14節 このように自ら進んで献げる力を持っているとしても、私は何者なのでしょう、私の民は何者なのでしょう。すべてはあなたから出たのであり、私たちは御手から出たものをあなたに献げたにすぎません。
ダビデは大いに領土を拡大し、軍隊も強くなり、民からも大人気でした。しかし、自分の手にあるすべてのものは、神様がくださったものだと確信し、感謝と賛美に溢れています。だから、自分はいただきものを、少しばかりお返ししたに過ぎない。御手から出たものを献げたに過ぎないと言えたのです。
実は、神を知っていることを誇ること・・・それは、私たちを愛し、あらゆる良きものをくださる神ご自身を誇るということになるのです。主は本当に誇りたい良いお方です。
主は今日も私たちに親しく語っておられます。
私たちは罪深い者なのに、吹けば飛ぶような小さな者なのに、神を人格的に親しく知ることができる者とされました。それもまた、主の十字架という恵みゆえです。イエス様が私たちのために、ご自分を与え尽くしてくださったのです。
それこそ、私たちが最も誇るべき宝ではないでしょうか。イエス様こそ、私たちの自慢です。最高の誇りです。この方の友であるとはなんと光栄で、幸いでしょうか。
ならば、イエス様を知っていることを隠さないようにしたいのです。イエス様を批判する人は、この方を知らないから、そうするのですよね。この方の愛も、この方の尊い犠牲も、この方の優しさも、この方の力も知らないゆえです。
この方を知らない方々に、この方を知る者とされた私たちだけが、お伝え出来るのです。胸を張ってこの方を誇ろうではありませんか。
