*** 4/2(水)祈祷会 ***
神様が喜ばれるささげものとは何でしょうか。主の声に聞き従うことが、神様が喜ばれるささげものです。「誰が」でしょうか?私たち既に救われた者だけでなく、すべての造られた者です。パウロはみことばに従い、造られたすべての者に福音を伝えることに献身しました。ユダヤ人だけでなく、あらゆる民族です。聞いたことのない方に福音を伝え、その方がイエス様を信じて、主のものとされることを神様は最も喜ばれます。
14節 私の兄弟たちよ。あなたがた自身、善意にあふれ、あらゆる知識に満たされ、互いに訓戒し合うことができると、この私も確信しています。
ここでパウロは、ローマのクリスチャンたちを尊び、良い評価をしていますね。あなたがたは「善意にあふれ、あらゆる知識に満たされ、お互いに訓戒し合うことができる」と、敬意をもって彼らを励ましているのです。ただし、その上で、足りていない部分について、彼は大胆に書いてきたのだと説明していきます。15-16節。
15節 ただ、あなたがたにもう一度思い起こしてもらうために、私は所々かなり大胆に書きました。私は、神が与えてくださった恵みのゆえに、
16節 異邦人のためにキリスト・イエスに仕える者となったからです。私は神の福音をもって、祭司の務めを果たしています。それは異邦人が、聖霊によって聖なるものとされた、神に喜ばれるささげ物となるためです。
その大胆に書いた内容とは、おもに異邦人を受け入れるということでした。確かに大胆で、直接的な内容でしたよね。ですので、私たちにとっても耳が痛い、心に刺さるような内容だったのではないでしょうか。私たちにとっても、自分と大きく異なる人々を受け入れるのは、容易なことではありません。しかし、パウロが生粋のユダヤ人でありながら、なぜそれができたのか。それはここにある通り、ただ神様からの恵みのゆえでした。彼はかつて自分の正義のゆえに、純粋な信仰者を迫害し、また殺害さえしてしまったのです。それでもなお、イエス様の十字架の犠牲と神の恵みとあわれみによって赦され、使徒とされたのです。だからこそ、少しでもお返ししようと、福音を伝え、神様のみこころにとことん忠実に異邦人にも宣教しているのです。
ここで彼は「祭司の務め」を果たしているとも語ります。祭司の務めの一つは、祭壇で神様へのささげ物をすることです。彼は何をささげているのでしょうか。彼は異邦人の救いを神様にささげているのです。今まで神様を無視して異文化に生きて来た異邦人が、神様のものとなるように!これは、どんな「いけにえ」の動物よりも、またどんなに多額の献金よりも神様に喜ばれることでしょう!失われていた人が神様に立ち返るのですから!
ルカ15章に登場する3つのたとえ話。「1匹の迷子の羊」「1枚の失われた銀貨」「放蕩していた息子」。いずれも、失われた者が戻って来た喜びです!それは、人の救いを神様が誰よりも喜ばれることを表していました。パウロはイエス様のそうした教えに従ったのです。どんな高価なささげ物よりも、ひとりの方を神様にもとにお連れすること。これを主は本当に喜ばれます。ペテロの手紙第一の2章9節にこうあります。
しかし、あなたがたは選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神のものとされた民です。それは、あなたがたを闇の中から、ご自分の驚くべき光の中に召してくださった方の栄誉を、あなたがたが告げ知らせるためです。
私たちすべてのクリスチャンは、今やパウロ同様に「祭司」とされています。それどころか、王でもあり、聖なる国民でもある。神の民です。まさに、神の国とこの世を仲介する者、神の国の親善大使です。神の国の素晴らしさを人々の紹介し、人々を神の国の王イエス様に導くのです。私たちもパウロ同様に、この奉仕に邁進したいのです。それこそが私たちの誇りです。
17節 ですから、神への奉仕について、私はキリスト・イエスにあって誇りを持っています。
パウロの誇りはユダヤ人という選ばれた民であることではなくなりました。かつてはそうだったでしょう。しかし、今は、ののしられようと馬鹿にされようと、異邦人に福音を伝える使徒であることを誇りに思っているのです。そして、続く18-19節前半では、パウロの宣教のあり方と、どのような人々に伝えたのかが語られています。
18節 私は、異邦人を従順にするため、キリストが私を用いて成し遂げてくださったこと以外に、何かをあえて話そうとは思いません。キリストは、ことばと行いにより、
19節 また、しるしと不思議を行う力と、神の御霊の力によって、それらを成し遂げてくださいました。
(1)パウロの宣教は、すべてキリストのみわざであると彼は言っているのです。だから、キリストによらないことはここで話す必要がありません。パウロが語ったことばも、行いも、彼を通してなされた様々な癒しや奇跡も、どれもキリストがなさったことです。神の御霊の力によってなされたことなのです。自分が福音のためにしたすべてのことは、神様のみわざであると証ししているのです。これが福音宣教のあり方ですよね。
もし、ある人がとても多くの方に福音を伝えられているならば、それは、キリストの力です。また、その人を通してとても多くの方が救われているのならば、それは、御霊の力です。宣教に用いられている人は、能力やスキル、知識があるからではなく、ただキリストと御霊に拠り頼みまくっている人なのです。
(2)どのような人々に伝えたのか 19節の後半では、どのような地域、どのような人々伝えたのかが語られています。こうして、私はエルサレムから始めて、イルリコに至るまでを巡り、キリストの福音をくまなく伝えました。
「イルリコ」というのは、マケドニア地方の北部。ピリピやテサロニケからさらに北西に行ったところで、現在のユーゴスラビア付近のようです。エルサレムから見ると、かなり距離があります。パウロは、交通機関が発達していない時代に、非常に広範囲に宣教をしてまわりました。特に、20節によれば、まだ誰によっても福音が伝えられていない地域に、キリストのことばとみわざを伝えて巡り歩いたことが分かります。
20節 このように、ほかの人が据えた土台の上に建てないように、キリストの名がまだ語られていない場所に福音を宣べ伝えることを、私は切に求めているのです。
20節の最初には、「ほかの人が据えた土台の上に建てないように」と理由の一つも述べられています。「ほかの人が据えた土台」というのは、既に伝道されイエス様を信じる信仰の土台ができた人でしょう。既に救われた人を自分の弟子として引っ張り、「弟子の数が増えた」と言って満足するような宣教はしないと語っているのです。
しばしば、教会がより大きくなることに囚われて、信徒の取り合いをするようなこと(羊泥棒)があると聞きます。既に他の教会に集っている人に声をかけて、引っ張って来ることです。それは、このみことばからも、肯定されるべきではないことですよね。 福音自由教会12カ条には「真の教会」という理解があります。これは、まことのキリストの教会は全世界で一つ、歴史を通じて一つという理解です。ですので、ある教会から他の教会へクリスチャンが移動しても、真の教会のメンンバーは少しも増えません。それは宣教ではなく、教会の中の人の移動に過ぎません。他の教会のクリスチャンをたくさん連れてきて、「主よ、あなたへのささげものです」と言っても意味がありません。
パウロはそうではなく、まだキリストの名が語られていない地に福音を伝えることを切に求めたのです。21節にてイザヤ書を引用して、その根拠を示しています。パウロは何をするにしても、主のみことばに根ざして行動しているのですよね。福音を聞いていながら、なお拒む人の心を変えることは容易ではありません。そこは神様にゆだねるべきところです。しかし、一度も福音を聞いたことのない人に、御霊によって知らせていくことは、私たちに与えられた大切な使命です。
この恵みの知らせを、まだ知らない方々にともに伝えて参りましょう。それは、私たちの力ではなく、キリストのみわざ、御霊の力でなされます。
引用元聖書
<聖書 新改訳2017>
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