東村山福音自由教会 ✞ Sunrise Chapel: 2021年度メッセージ
主が人の子らを、意味もなく、苦しめ悩ませることはない。(哀歌3:33)

最新情報

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2022/01/24

民数記6章22-27節「神の祝福を受けて生きる」

*** 1/23(日)主日礼拝 説教概略 ***

民数記622-27節「神の祝福を受けて生きる」

 牧師になり、どれぐらいたってからでしょうか。ある時から、礼拝最後の祝祷において、今日のみことばを祈るように致しました。何か大きな出来事があったというわけではありません。ただ、礼拝に集われる皆さんを、とにかくできうる限り祝福を祈って送り出したいとの願いからでした。

2022/01/19

子育て『ねばならない』からの解放

*** 1/18(火)ママ’sカフェ 講義概略 ***

『ねばならない』からの解放

 共通テストが行われた日、東京大学前で3人の学生がナイフで切りつけられる事件が起こりました。切りつけたのも受験生です。その動機については、医者を目指して東大合格のために頑張ってきたけれども、成績が思うように伸びず自信を無くして、人を殺してその罪を背負って切腹しようと考えていたとのこと。自暴自棄ということでしょうか。

 こうした出来事を通して、考えさせられます。

2022/01/18

マタイ16章15~19節 「キリストの教会」

 *** 1/16(日)主日礼拝 説教概略 ***

マタイ161519節 「キリストの教会」

 皆さん、毎日お疲れ様です。ここ最近、体調を崩す方が多くいらっしゃいます。また、新型コロナウイルス感染も急増しておりまして、皆さんも色々な部分でその影響を受けておられることと思います。うちの二男も学校のスキー教室の実行委員会で、準備を頑張ってきましたが、結局中止ということになりました。「今までの苦労は何だったのか」と少し肩を落としておりました。

 きっと、皆さんの歩みの中でも、多かれ少なかれそのような事があるのではないでしょうか。ただ、そういう中でも感謝なことに、私たちはこのような不条理を、交わりの中で分かち合うことができますともに歩む中での恵みがあります。一人で重荷を背負い込むには、厳しすぎる今の時代です。人の助けを借りることは悪いことではなく、むしろ人が活躍する機会、交わりの機会ともなり良いものでさえあるでしょう。

2022/01/12

Ⅰコリント1章18-31節「キリストを誇れる幸せ」

*** 1/12(水)祈祷会 説教概略 ***

 Ⅰコリ118-31節 「キリストを誇れる幸せ」 

私たちはなぜ、今、ここに(主の教会に)いることが出来るのでしょうか?

それは、神様に選んでいただき、声をかけていただいたからです。

では、神様が私たちを選んでくださったのはなぜなのでしょうか?
私たちが有能だからでしょうか。多くの良いことを成したからでしょうか。力があるからでしょうか。いいえ、私たちはむしろ、神様の前には何の手柄もなく、罪深い者として恥じ入るばかりです。

2021/12/29

ローマ8:31-39「神様からのプレゼント」

 *** 女性クリスマス会 説教概略 *** 
 ※12/14(火)に持たれた女性クリスマス会メッセージの概略です。

ローマ8:31-39「神様からのプレゼント」

 子どもたちはしばしば「試し行動」といった行動を取ります。特に不安な時、親の愛を試すために、わざと親を怒らせたり、反抗したりして困らせます。子どもたちが、そのような試し行動をして、親がどんな時にも自分の味方でいてくれるのか試すのは、本能的なものなのかも知れません。なぜなら、私たち大人でも、裏切られることのない、見捨てられることのない本物の愛を求めているからです。ところが、その愛を見つけられず、また私たち頑張って絞り出しても、他者にその愛を与えられないので傷つき悩んでいます。

2021/12/27

詩篇103篇1-12節「主は良いお方」

 *** 12/26(日)年末感謝礼拝 説教概略 ***

詩篇103篇1-12節「主は良いお方」

 クリスマス・・・たくさんの集いがありました。様々な制限がある中でしたが、知恵をもって工夫をし、多くの祈りの支援を感じながら、協力して主にある働きができました。本当に感謝です。

 特に普段来られていない方々をお招きする集会、これまでに6つほどありました。CS(子どもクリスマス)JYLC(中高生クリスマス)、女性クリスマス、クリスマス特別礼拝、青年クリスマス、また教会開放日クリスマス。今日の午後も入れると7つですね。

 そこには尊い準備があり、様々な労苦があったことと思います。お疲れ様でした。

このような忙しいクリスマス、一人ぼっちで頑張るならばクルシミマス。でも兄弟姉妹で協力して労するならば、神のみわざにビックリス(シ)マス。そして主にあって大いにヨロコビマス! 一年の締めくくりのジョークにしてはお粗末でした。

2021/12/15

ヨハネ1章29-34節「恵みの働きに召された私たち」

*** 12/15(水)祈祷会 説教概略 ***
ヨハネ129-34節「恵みの働きに召された私たち」

 教会における交わりは、ただ楽しく終わるものではありません。心に残り、その後も「生きる糧」となる交わりであると実感しています。日曜日のJYクリスマス会が終わった後も、多くの人が教会に残り、片づけをしながらですが、夕方6時ぐらいまで交わりが尽きませんでした。

 また、昨日の女性クリスマス会も、神様の恵みを実感できる温かい交わりとなり、お昼も食べずに3時過ぎまでお交わりしている方々もいました。

2021/12/13

ルカの福音書1章18-23節、57-66節「沈黙から賛美へ」

*** 12/12(日)主日礼拝 説教概略 ***

ルカ118-23節、57-66節「沈黙から賛美へ」

 クリスマスは教会で多くの集いがあり、その準備もあれこれあって、じっくり静まりたい時でありながら、どうにも慌ただしくなってしまいがちです。それはもちろん、教会のことだけではありません。社会全体において、年の瀬が迫る中で、大掃除やら年賀状やら年始の準備やら、様々な締め日が近づいていたりと・・・忙しくなるからでもあります。

 ただ、そのような時にこそ、私たちは主の前に静かな心で御声をしっかりと聞き分け、恵みを味わう者でありたいのです。マルティン・ルターは「私には一日のうちにすべきことがあまりに多くあるので、朝2時間、祈らないとやっていけない」と言ったそうです。

考えさせられますね。 

2021/12/08

ルカの福音書1章35~45節 「信仰の友と味わうクリスマス」

*** 12/8(水)祈祷会 説教概略 ***

ルカの福音書1:35~45 「信仰の友と味わうクリスマス」


 ここ10年ぐらいの国際情勢を見る時に、国や民族における分断や対立という課題があるかと思います。さらにコロナウイルスの蔓延によって、孤立・孤独という課題が増し加わりました。しかし、そのような社会にあって、キリストの教会こそは神の愛によって一人一人が結び合わされる場でありたいと思うのです。私たちはこの世界において交わりの良きモデルでありたいと願います。みことばを通して「信仰の友と味わうクリスマス」というテーマで語られて参りましょう。

2021/12/06

エレミヤ書23章1-6節「義なる王イエス」

*** 12/5(日)主日礼拝 説教概略 ***

エレミヤ書23章1-6節「義なる王イエス」

 この世界を見る時に公正なこと、正しいことがなされていない現実にしばしばガッカリするのではないでしょうか。「しばしば」ではないかも知れません。

 不正、不平等、差別、格差など。あるいはズルをした者が得をし、正しいものがバカを見る不条理もあります。そういう世界を見て、批判してしまう私たちでありますが、実に私たち自身もまた、正しさとは遠い歩みをしている現実があるのではないでしょうか。

2021/12/01

ピリピ3章12-15節「霊性の問題:クリスチャンの霊的成長」

*** 12/1(水)祈祷会 説教概略 ***

ピリピ3章12-15節「霊性の問題:クリスチャンの霊的成長」


 アドベントを迎えています。アドベントは「待ち望み」の時です。救い主イエス様のご降誕を心から喜び、また世の終わりに再臨されるキリストを待望するという意味もあります。

 しかし、「待ち望む」ということは主とお会いすることを心から楽しみにしているということです。でも、楽しみになるためには、神様と普段から親密な交わりをし、主のすばらしさをよく知っているからこそできることです。知らない相手を心待ちにできるはずがないのです。 そして、主である方を深く豊かに知って行くことこそ、私たちキリスト者の霊的成長そのものになります(霊性の中心にあること)。 
 

2021/11/29

アモス書4章12-13節「神に会う備えをせよ」

*** 11/28(日)アドベント第一主日 礼拝説教概略 ***

アモス書4章12-13節「神に会う備えをせよ」

 先日、人生で初めて「遺書」を書きました。正式なものではなく、どちらかと言うと家族への手紙です。ワクチンの接種の時に、万が一のことがあってはと・・・書きました。過去にアナフィラキシーもありましたし、何が起こるかわからないので書いた次第です。

 ある本の中で、神様は私たちのことをこんな風に見ているんじゃないか?とありました。それは「人は、まるで死なない者であるかのように生きている。そして、まるで生きていなかったかのようにして死んでいく」と。

2021/11/24

アモス5章18-27節「あなたの心を求めておられる主」

*** 11/24(水)祈祷会 説教概略 ***

アモス5章18-27節「あなたの心を求めておられる主」

 先週は主を「求めて生きよ」というテーマでした。罪を犯さないように、罪から離れようという消極的な歩みではなく、主を求めて生きていくことで、その結果、むしろ罪を犯したくなくなるし、主との交わりの中で守られていくことを教えられました。

今週は、主もあなた自身を求めているということで「あなたの心を求めておられる主」というテーマで教えられます。 

2021/11/19

アモス5章1-17節「主を求めて生きよ」

*** 11/17(水)祈祷会 説教概略 ***

アモス51-17節「主を求めて生きよ」

 この5章でも同様に、「イスラエルの家よ、このことばを聞け」と始まります。
そして、預言者アモスによる哀歌(もしくは挽歌)が歌われます。哀歌は嘆きの歌、深い悲しみの歌です。挽歌と訳すこともできるかと思いますが、それは特に死者を悼み悲しむ歌と言えるでしょう。イスラエルの将来の深刻な姿を嘆き悲しむ歌です。

 しかし、その歌を伝えることで、民が一人でも悔い改め、主に立ち返ることを神様もアモスも願っていたに違いありません。

 この歌は下記のようにDの「頌栄」を中心とした同心円構造(キアスムス構造)を持っています。とても印象的に記憶に残るように文学的技法をこらした歌となっているのです。

2021/11/16

ルカの福音書24章36-43節「疑わず、平安のうちに」

*** 11/14(日)主日礼拝 説教概略 ***

ルカの福音書24章36-43節「疑わず、平安のうちに」


 しばしば私たちは、自分の思い込みの奴隷となっています。私はたまに、メガネをどこに置いたのか、見つけられないことがあります。基本的にメガネの置き場というのは自分である程度決めているので、変なところに置くはずがない・・・と思い込んでいます

 ところが、時に無意識のうちに普段置かないようなところにメガネを置いてしまうことがあるのです。特に最近は老眼が進んでいるので、メガネを外した方が近くがよく見えるので、つい外してしまう。それで分からなくなり、普段置く場所ばかりを探すので見つかるのに時間がかかります。

 一例にすぎませんが、こうした思い込みのせいで、事実、真実になかなか近づけないことがあるものです。

2021/11/10

アモス4章1-13節 「聞かれるべき神のことば」

*** 11/10(水)祈祷会 説教概略 ***

 みことばは語られ続ける必要があります。しかし、語られ続けるだけでは足りず、みことばは聞かれる必要があるのです。どんなに語られていても、目の前にあっても、聞き入れなければ、みことばが人の心で湧き出る泉となることがありません。  

2021/11/08

民数記3-4,8章「主のものとされている喜び」

*** 11/7(日)主日礼拝 説教概略 ***

民数記3-4,8章「主のものとされている喜び」


 子どもの頃に「花いちもんめ」という遊びをしました。2チームに分かれて「誰々さんが欲しい」と相手の誰かを指名して取り合っていくゲームです。自分の名前を呼ばれると嬉しいのですが、反対に自分の名前が呼ばれないとさみしい気持ちになりました。

 人は誰かから求められ、必要とされ、そこに属することで安心する存在です。実に、造り主なる神様は、私たちの本当の居場所となってくださる方です。「あなたが欲しい、あなたでなければ」と親しく招いてくださっているのです。

 聖書はその神様からのラブレター、招待状であると言えます。

2021/11/03

アモス3章9-15節 「わたしでは足りないのか?」

*** 11/3(水)祈祷会 説教概略 ***

アモス3章9-15節 「わたしでは足りないのか?」


 私たちの心は何によって満たされるのでしょうか。多くの物を所有することなのでしょうか。贅沢をすれば満たされるでしょうか。物で満たそうとすると、際限なく欲があふれ、かえって満足から遠ざかることでしょう。

 主は、わたしがあなたとともにいるではないか。すべてを与えることのできるわたしはでは足りないのか?私たちに問いかけます。そのような問いかけを意識しながら、みことばに聞いて参りましょう。

2021/11/01

ルカの福音書24章13-35節「心を燃やしてくださる方」

*** 10/31(日)主日礼拝 説教概略 ***

ルカの福音書2413-35節「心を燃やしてくださる方」


 皆さんは、最近、胸が熱くなること、感動を覚えることはありますか?胸が熱くされるような感動が日々の生活に豊かに与えられている。それはなんと幸せな事でしょうか。感動の数は「幸せのバロメータ」とも言われますが、神様とともに歩む日々は大小様々な感動で彩られる毎日です。 
 
 とは言え、かく言う私自身、忙しさの中で一つ一つを主の御前に恵みとして数え、味わうことが十分できていないことがあります。また、キリストと出会う前の私を振り返ると、冷めてしらけた人間だったなと思うのです。何事にも一歩引いて見ている私でした。よく言えば冷静、悪く言えば冷めていて無関心です。

2021/10/27

アモス3章1-8節 「語られたみことば、そこに生きる喜び」

*** 10/27(水)祈祷会 ***
アモス31-8節 「語られたみことば、そこに生きる喜び」

1-2節の宣告 
 有名な申命記64節でも、「聞け、イスラエルよ」と主は命じられました。
とにかく何はなくても「主のことばを聞く」こと。そこから私たちの信仰は始まります
私たちがとやかく何かを言うことによってではなく、主が語られることばを聞く。そこからすべてが始まるのです。

 ここではまさに、主の語られる預言のことばの重要性を再確認させてくれます。

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