民数記6章22-27節「神の祝福を受けて生きる」
牧師になり、どれぐらいたってからでしょうか。ある時から、礼拝最後の祝祷において、今日のみことばを祈るように致しました。何か大きな出来事があったというわけではありません。ただ、礼拝に集われる皆さんを、とにかくできうる限り祝福を祈って送り出したいとの願いからでした。
牧師になり、どれぐらいたってからでしょうか。ある時から、礼拝最後の祝祷において、今日のみことばを祈るように致しました。何か大きな出来事があったというわけではありません。ただ、礼拝に集われる皆さんを、とにかくできうる限り祝福を祈って送り出したいとの願いからでした。
皆さん、毎日お疲れ様です。ここ最近、体調を崩す方が多くいらっしゃいます。また、新型コロナウイルス感染も急増しておりまして、皆さんも色々な部分でその影響を受けておられることと思います。うちの二男も学校のスキー教室の実行委員会で、準備を頑張ってきましたが、結局中止ということになりました。「今までの苦労は何だったのか」と少し肩を落としておりました。
きっと、皆さんの歩みの中でも、多かれ少なかれそのような事があるのではないでしょうか。ただ、そういう中でも感謝なことに、私たちはこのような不条理を、交わりの中で分かち合うことができます。ともに歩む中での恵みがあります。一人で重荷を背負い込むには、厳しすぎる今の時代です。人の助けを借りることは悪いことではなく、むしろ人が活躍する機会、交わりの機会ともなり良いものでさえあるでしょう。
*** 1/12(水)祈祷会 説教概略 ***
私たちはなぜ、今、ここに(主の教会に)いることが出来るのでしょうか?
それは、神様に選んでいただき、声をかけていただいたからです。
子どもたちはしばしば「試し行動」といった行動を取ります。特に不安な時、親の愛を試すために、わざと親を怒らせたり、反抗したりして困らせます。子どもたちが、そのような試し行動をして、親がどんな時にも自分の味方でいてくれるのか試すのは、本能的なものなのかも知れません。なぜなら、私たち大人でも、裏切られることのない、見捨てられることのない本物の愛を求めているからです。ところが、その愛を見つけられず、また私たち頑張って絞り出しても、他者にその愛を与えられないので傷つき悩んでいます。
クリスマス・・・たくさんの集いがありました。様々な制限がある中でしたが、知恵をもって工夫をし、多くの祈りの支援を感じながら、協力して主にある働きができました。本当に感謝です。
特に普段来られていない方々をお招きする集会、これまでに6つほどありました。CS(子どもクリスマス)、JYLC(中高生クリスマス)、女性クリスマス、クリスマス特別礼拝、青年クリスマス、また教会開放日クリスマス。今日の午後も入れると7つですね。
そこには尊い準備があり、様々な労苦があったことと思います。お疲れ様でした。
教会における交わりは、ただ楽しく終わるものではありません。心に残り、その後も「生きる糧」となる交わりであると実感しています。日曜日のJYクリスマス会が終わった後も、多くの人が教会に残り、片づけをしながらですが、夕方6時ぐらいまで交わりが尽きませんでした。
また、昨日の女性クリスマス会も、神様の恵みを実感できる温かい交わりとなり、お昼も食べずに3時過ぎまでお交わりしている方々もいました。
クリスマスは教会で多くの集いがあり、その準備もあれこれあって、じっくり静まりたい時でありながら、どうにも慌ただしくなってしまいがちです。それはもちろん、教会のことだけではありません。社会全体において、年の瀬が迫る中で、大掃除やら年賀状やら年始の準備やら、様々な締め日が近づいていたりと・・・忙しくなるからでもあります。
ただ、そのような時にこそ、私たちは主の前に静かな心で御声をしっかりと聞き分け、恵みを味わう者でありたいのです。マルティン・ルターは「私には一日のうちにすべきことがあまりに多くあるので、朝2時間、祈らないとやっていけない」と言ったそうです。
考えさせられますね。
この世界を見る時に公正なこと、正しいことがなされていない現実にしばしばガッカリするのではないでしょうか。「しばしば」ではないかも知れません。
先日、人生で初めて「遺書」を書きました。正式なものではなく、どちらかと言うと家族への手紙です。ワクチンの接種の時に、万が一のことがあってはと・・・書きました。過去にアナフィラキシーもありましたし、何が起こるかわからないので書いた次第です。
ここではまさに、主の語られる預言のことばの重要性を再確認させてくれます。