東村山福音自由教会 ✞ Sunrise Chapel: エレミヤ書23章1-6節「義なる王イエス」
主が人の子らを、意味もなく、苦しめ悩ませることはない。(哀歌3:33)

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2021/12/06

エレミヤ書23章1-6節「義なる王イエス」

*** 12/5(日)主日礼拝 説教概略 ***

エレミヤ書23章1-6節「義なる王イエス」

 この世界を見る時に公正なこと、正しいことがなされていない現実にしばしばガッカリするのではないでしょうか。「しばしば」ではないかも知れません。

 不正、不平等、差別、格差など。あるいはズルをした者が得をし、正しいものがバカを見る不条理もあります。そういう世界を見て、批判してしまう私たちでありますが、実に私たち自身もまた、正しさとは遠い歩みをしている現実があるのではないでしょうか。

 批判されてでも正しいことを貫く勇気があるでしょうか。子どもの頃、いじめられている人がいても、その中に飛び込んで「やめなよ」と言う勇気がなかった自分を思い出します。ちょっとぐらい・・・と誤魔化したり隠したりすることもあるでしょう。自分の心を見る時、またこの世界を見る時に、本気で正しいことを貫ける者がほとんどおらず、いかに難しいことかと思わされるのです。

 だからこそ、こうした罪の世界を正してくれる、正しい方向に変えてくれる存在があるとしたら、私たちはそこに希望を見出すのではないでしょうか。実に、このクリスマスの主役である神の御子イエス・キリストこそ、唯一正しく治められる義なる王でいらっしゃいます。イエス様が家族を治めてくださるならどうなるだろう。イエス様が会社の社長なら、この国の総理なら、この教会を牧してくださるならどうでしょう?全く違う景色が見えてきます。この世界がこのような暗闇であるからこそ、世を照らすまことの光として来られた義の王キリストが光輝くのではないでしょうか。正義はどこにあるのか?と思われる世にあって、正しく平等に治めてくださる神の国の「義の王」が、私たちの救い主です。今日のテーマは「キリストの義によって救われる」ということです。エレミヤ書における救い主の預言のみことばに耳を傾けつつ、義なるキリストを心から待ち望みましょう。


1.愛なき悪しき行いへの主のさばき 
 
エレミヤ23章1-2節
「わざわいだ。わたしの牧場の群れを滅ぼし散らしている牧者たち──主のことば。」それゆえ、イスラエルの神、主は、私の民を牧する牧者たちについてこう言われる「あなたがたはわたしの群れを散らし、これを追い散らして顧みなかった。見よ、わたしはあなたがたの悪しき行いを罰する──主のことば──

 いつの時代でもそうですが、人は力を持つほどに多くの誘惑に直面するようになります。真実な志を抱いて国を変えようとする人でも、出世するごとに、地位と名声、富と権力の誘惑に負けていくことはよくある話です。「あの人は偉くなって変わってしまった」と言われます。
 
 当時の神の民も、世的な繁栄の中でその信仰を失っていきました。特にこのみことばでは、民を導く王やその助言者たちの罪が語られています。牧場の群れを滅ぼし散らした「悪い牧者(羊飼い)」だと言われるのです。群れを守らず、かえって羊を危険な目に合わせ散らせてしまった権力者たちです。

 2節で指摘されていることとして、群れを追い散らして「顧みなかった」とありますね。この「顧みる」という言葉は、「パーカード」というヘブル語です。ここでキーワードになっています。同じ「パーカード」ということばが2節の後半にもう1回登場しています。どれでしょう?「罰する」と訳されているのが「パーカード」です。そういう意味もある。ただ、この「パーカード」には「注意を払う、関心を持つ」という意味があります。

 その意味を押さえて、2節の主旨がわかるように意訳するならば、「あなたがたが私の大切な群れに関心を払わなかったので(パーカードしなかったので)、わたしはあなたがたの悪事に関心を向け罰しますよ(悪事にパーカードしますよ。)と神様がおっしゃっているように読めます。「パーカード」しなかったことが、ブーメランのように自分たちの身に返って来るのです。「愛の反対は無関心である」とのマザー・テレサのことばは、日本でも耳にすることが多いことばです。

 まさに隣人に関心を払わない愛のない姿を神様は深く悲しみ、その報いとしてあなたがたの罪に目を留めると言われるのです。特に、神を求める人々につまずきを与え、神から引き離すことは、神の強い怒りの対象となってしまいます。他の人の信仰を妨げてしまう様々な行動。それによって未熟な信仰者が離れて行くなら、優しいイエス様でさえ怒りを燃やされます。

ルカの福音書17:1-2でこうある通りです。
ルカ17章1-2節
「つまずきが起こるのは避けられませんが、つまずきをもたらす者はわざわいです。その者にとっては、これらの小さい者たちの一人をつまずかせるより、ひき臼を首に結び付けられて、海に投げ込まれるほうがましです

自分が不信仰になって苦しむなら自業自得で済むかも知れません。しかし、その不信仰や冷たい態度で、他の人を神様から引き離してしまうのならば、それを主は強く悲しまれます。

 

2.救いのご計画 

しかし、主はこのように散らされ、さ迷う弱り切った民に、救いの手を差し伸べられました。

エレミヤ23章3-4節
3節 しかしわたしは、わたしの群れの残りの者を、わたしが追い散らしたすべての地から集め、元の牧場に帰らせる。彼らは多くの子を生んで増える。4節 わたしは彼らの上に牧者たちを立てて、彼らを牧させる。彼らは二度と恐れることなく、おびえることなく、失われることもない──主のことば。

 バビロンに捕らわれていた民が、神様の救いのご計画によって、エルサレムに戻れるようになるのです。そして国の再建が行われていきます。その時神様は、4節にあるように「牧者たちを立てて、彼らを牧させる」のです。ゼルバベル、ハガイ、ゼカリヤ、ネヘミヤ、エズラなど、幾人もの信仰深いリーダーたちが民を導きました。そして、さらにその先の未来において、民はまた散らされますが、まことの良い羊飼い、まことの牧者である主イエス・キリストが来られるのです。5-6節のみことばは、「クリスマスの預言」と言っていいでしょう。

エレミヤ23章5節
見よ、その時代が来る。──主のことば──そのとき、わたしはダビデに一つの正しい若枝を起こす。彼は王となって治め、栄えて、この地に公正と義を行う

 「ダビデに一つの若枝を起こす」とあります。特にこの「若枝」という表現は、イザヤ書などでも登場し、ダビデ王の子孫として生まれる救い主イエス様を指して用いられています。また、ここで語られているように、イエス様は「まことの王」として治め、栄え、公正と義を行なってくださるのです。イエス様ご自身が栄えるのではなく、イエス様に導かれる者が栄えると言えます。そして、キリストは、人の目に見えるところだけで誠実なのではなく、父なる神の前に誠実な方です。見えないところにおいても正しく歩まれる方。私たちのために、常に正しく平等に、そして愛をもってみわざをしてくださる神様が治める神の国を、私たちは待ち望むのではないでしょうか。

そして、それは世の終わりに完成しますが、既に神の国は始まっているのです。この方を私たちの王としてお迎えするならば、私たちは救われ変えられていきます。6節。


エレミヤ23章6節
彼の時代にユダは救われ、イスラエルは安らかに住む。『主は私たちの義』。それが、彼の呼ばれる名である

義なるキリストが人を救い、安らかに住まわせてくださると語られています。『主は私たちの義』と呼び名を持つイエス・キリストが、その義によって私たちを救い、安らかな日々をくださるのです。もう少しかみ砕いてお話しましょう。義とは神の基準において正しいことで、キリストは私たち正しくない者を、神の前に義とするために来られたのです。

そして、神の前に義とされるとは、神様から無罪判決をいただけることです。裁判で「被告人は無罪!」と宣言されることを指します。神の裁判において「あなたを罪なき者と認める。よって、今後、聖なる神と親しく歩むことを永遠に許可する!」と宣告されたということです。

 これは、とてつもなくすごいことをされているのです。罪を犯した事実が消えたわけではないにも関わらず、神様から「無罪判決」をいただけたのは、神様が私たちの中にキリストの義を見ておられるからです。罪を犯したという私たちの過去が消えるわけではありませんよね。その事実は消えません。それにも関わらず、キリストの義を着ることによって、キリストの義が私たちを覆ってくれるので、それによって無罪の扱いをしてもらえるということなのです。しかも永遠に!ですから、私たちの行いによってなした義ではなく、キリストの義が私たちを救っているのです。ですから、私たちの側では自らの罪深さを謙虚に受け止めて「赦された罪人」とよく言いますが、罪があるにも関わらず、神様の目には既に「赦された義人」となっているのです。

 

3. 義とされた者だからこそ

 
 もう一つお伝えすべきこと。それは「義とされた立場」は、救いの始まりだということです。「無罪としますよ!という判決がされ、義人の立場をもらえたので、聖なる神との永遠の交わりが始まった」のです。

 そこから徐々に、その「義」にふさわしい者へと中身も変えられて行く信仰の旅路が始まります。信じた瞬間に義という立場をもらいましたが、立場をもらっただけで、中身はこれからなのです。運転免許を取りました。確かにこれから運転ができます。でも、運転の技術はレベル1です。そこから少しずつ上達していきますよね。

同様に、クリスチャンは時間をかけて熟成され続けていく者です。

 神様の前に「義」という立場をもらった神の子です。けれど、中身はまだまだ。それゆえ、みことばと祈りによって、教会での交わりや奉仕を通して、少しずつ人格が練り上げられ、品性が生まれ、義なる王キリストの姿へと近づけられていきます。

それを「聖化」と呼び、神様との親密な交わりの中で、造り変えられ、キリストの似姿へと徐々に成長していくのです。ある先生が、私たちはいつも工事中なのだとおっしゃいました。立派になった完成したのではなく、常に聖霊によって穴を掘られ、深いところまで取り扱われていく最中にある。だから、さも立派であるかのように振る舞うのはやめて、「ただいま工事中です。大変ご迷惑をおかけしています」と頭を下げて、歩むべきであると。そして、牧師こそ最も工事が進んで、穴が一番大きくて、最も頭を下げなければならない者であるとも思わされます。

 でも、この工事はイエス様によって救われた者に与えられる特権、大いなる恵みです。壊れているのに、歪んでいるのに、危険なのに、工事も修理もされないとしたら、一体どれほど人々を傷つけ悲しませてしまうことでしょうか。しかし、キリストの義によって神様の前に赦しを受け、神の子どもとしてどんどんキリストの背丈まで成長できる恵みをいただいています。クリスチャンは天国に行くまで、成長期です。昨日より今日、今日より明日と、例え体は衰えるとしても、ずっと成長期である恵みを感謝しましょう。



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