東村山福音自由教会 ✞ Sunrise Chapel: ピリピ3章12-15節「霊性の問題:クリスチャンの霊的成長」
主が人の子らを、意味もなく、苦しめ悩ませることはない。(哀歌3:33)

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現在、コロナの感染状況を考慮し、夜の祈祷会はお休みしています。先日の地震で被災された方々の上に神の慰めと支えがありますように。

2021/12/01

ピリピ3章12-15節「霊性の問題:クリスチャンの霊的成長」

*** 12/1(水)祈祷会 説教概略 ***

ピリピ3章12-15節「霊性の問題:クリスチャンの霊的成長」


 アドベントを迎えています。アドベントは「待ち望み」の時です。救い主イエス様のご降誕を心から喜び、また世の終わりに再臨されるキリストを待望するという意味もあります。

 しかし、「待ち望む」ということは主とお会いすることを心から楽しみにしているということです。でも、楽しみになるためには、神様と普段から親密な交わりをし、主のすばらしさをよく知っているからこそできることです。知らない相手を心待ちにできるはずがないのです。 そして、主である方を深く豊かに知って行くことこそ、私たちキリスト者の霊的成長そのものになります(霊性の中心にあること)。 
 

 ちょうど、先週の南地区の修養会で「福音派の霊性」というテーマで学ばせていただきました。私たちの信仰の本質に関わるとても大切なテーマです。しかし、とても大切でありながら、実は軽く説明されたからと言って実感を持ってわかるものでもないとでしょう。それぞれがみことばに生きて、神様とともに歩む中で、主から気づきを与えられていくものだからです。

 ですが、できるだけ、そのヒントとなることを学べればと思います。皆さんがいくらかでも共感できるような知恵を主に祈り求めながら、分かち合って参りたいと思います。

 

1.「気づき」の重要性

 戦後、日本の福音派の教会は高度成長をする日本社会の波に乗って、人数が増えて規模が大きくなるということを経験してきました。伝道集会をしても人が多く集まりました。また、そういう集会で多くの決心者が与えられもしました。そういう時代です。

 やっただけ結果が出る感覚の中で、達成感を持てたのだろうと思います。そういう勢いがある時は、ある意味信仰における飢え渇きに気づきにくい状況だったのだろうと思います。表面的には割とうまくいっているからです。

 ところが、バブルがはじけ、成長期が終わり不景気の波が押し寄せてくると、教会もそれと同じように右肩上がりではなくなりました。表面的にもうまくいってないとわかるような停滞期に入ったと言えるでしょう。さらに、追い打ちをかけるように、統一教会やオウム真理教の問題が世間をにぎわせ、宗教に対する恐怖心が一気に広がりました。

 オウムの地下鉄サリン事件は1995年の3月でした。私が洗礼を受けた翌年です。私自身は大学生でしたが、オウム真理教の事件以降、他の学生の反応がかなり冷ややかになったのを肌感覚で感じました。

 このようにして、結果が見えにくくなり行き詰まりを感じたことで、福音派の牧師、信徒の中に「自分たちの信仰は何だったのか、これで良いのか」との気づきに至るのです。自分の信仰のある種の「未熟さ」や「飢え渇き」に「気づき」が生まれてきたのです。この「気づき」が重要で、気づかないまま、あるいは気づかないフリをしてがむしゃらに歩むと、さらに見えないところで信仰が形骸化を始め、成果主義、律法主義に陥ります。

 修養会の講師の先生は、まさにこの「気づき」のことをかなりの時間をかけて話してくださいました。先生は聖書信仰を大事にする福音派の交わりの中で、みことばを一生懸命学び、理解し、実践しました。ところが、霊的な渇きは満たされることがなく、みことばを学んでいるはずなのに心が躍らず、生き方も変わっていかないという体験をします。

 何かが足りないと気づかれたわけです。福音派の牧師たちがカトリックの霊操書に感銘を受けるようになったのはこの頃でした。

 

2.私と霊性の始まり

 少し個人的な話になり恐縮ですが、私は幸いにもこうした霊性の課題に気づいた先生方から教えていただく機会が多くあり、神学生時代~新人牧師時代に、このテーマはホットなテーマでした。ちょうど牧師の「燃え尽き症候群」などの課題も取り上げられるようになっていました。ですから、説教の中でも絶えずこの点は強調し続けてきました。

 DoingではなくBeingが大切であること。

 何かをする前に、何もせず主の前に主とともにいることが、一番大切な最初の奉仕であること。主はそれを喜んでくださるということをともに学んで参りました。

 私が神学生の頃、まさにカトリックの司祭であるヘンリー・ナウウェンの著作が流行り、賛否両論ありました。「なぜカトリックなのか」と批判する人が必ずいました。しかし、カトリックだからとか、そういう人間的偏見は律法主義の始まりです。

 カトリックの信者の中にも福音的、霊的な人がいらっしゃいます。私は確かにカトリックのナウエンやブラザー・ロレンスの著書の中に、主の臨在を味わいながら生きる真理を見出し、それは聖書的であることを確信しました

 特に彼らにあって私たちにないもの。それは神を素直に、素朴に体験するということかも知れません。奉仕の中で神の愛を感じた。神の臨在に触れたという素朴な証しです。

もちろん、これらも不完全な書であり、偏りや課題もあることは事実です。でも、私たちプロテスタント福音派にはない、神様の臨在をシンプルに味わい体験する恵みが教えられているように思います。お互いに学び合うことで深められるのです。常に各自が不完全で、教えられ成長していく必要があるとの「気づき」が必要です。

それは今日のみことば12節で語られています。

3:12 私は、すでに得たのでもなく、すでに完全にされているのでもありません。ただ捕らえようとして追求しているのです。そして、それを得るようにと、キリスト・イエスが私を捕らえてくださったのです。 

 続く13節でも「兄弟たち。私は、自分がすでに捕らえたなどと考えてはいません。」とパウロは言います。

自分たちは既に得た、もうわかった。この高慢が私たちを主から引き離します。「わかったつもりのキリスト教を演じさせる」のです。悪魔はこの姿を見て笑い転げていることでしょう。実はこの「もうとらえた、もうわかった」という発想こそが、赤ちゃんクリスチャンの発想なのです。

自分の飢え渇き、未熟さをしっかりと受け止め、主を求め続ける姿勢こそが「霊的な大人のクリスチャンの姿」なのです。これは数年前の南地区の修養会で学んだことでもあります。


3.霊性は常に成長し続けるもの ~霊的成熟~

いのちは生きている限り、常に、そして生涯、成長していくものです。ですから「これで良い」「もう達成した」と立ち止まってしまっているなら、その状態は「完全におとなになっている」とは言えないということです。

「これで良い」と満足し立ち止まっているクリスチャンこそ、「幼いクリスチャン」です。成熟したクリスチャンの姿とは、常に成長が必要であると受け止めている姿なのです。ですから、成長し切ってもう成長しなくて良い姿が成熟したクリスチャンではなく、昨日より今日、今日より明日、成長しようとしているのが、成熟しているおとなのクリスチャンの姿なのです。

 ピリピ3:15にこうありますよね。

3:15 ですから、大人である人はみな、このように考えましょう。もしも、あなたがたが何か違う考え方をしているなら、そのことも神があなたがたに明らかにしてくださいます。

 霊的に成熟した大人のクリスチャンは、自分が達成した、到達したと考えず、常に主を知ることを求め続ける者である。飢え渇きをいつも持てていることこそ、ある意味、霊的に大人になっていく者が通るべき大切なプロセスなのだということです。

 

4.私の気づき:「働きの成果」と「神の愛」 ※会堂建設に向かう中で

 そして、私自身もそれを経験しました。牧師として歩み始め、なんとかして教会を成長させようとあらゆることを考え努力しました。旧会堂の限界を感じ、なんとか会堂を建設して新しいステップに向かいたいと願いました。

 しかし、教会も思うように成長できない、会堂建設も進まないという課題ともぶつかりました。

疲れを覚える自分。眠れない夜がありました(コーヒーを飲み過ぎたせいもあったと思われますが・・・)。

その時、まさに、みことばから主が語りかけられました。「気づき」が与えられ、目が開かれる経験をします。眠れない夜中にひたすら聖書を読んでいました。旧約聖書をむさぼるように読み、主よあなたの御心を教えてくださいと祈っていました。

ヤコブが神の人と格闘し、私を祝福してくださるまでは、あなたを帰らせませんと強く求めたように。私もその時は主にひたすらに求めていました。そして、だいぶ先まで読んでから、ふと、さっき目にしたみことばに戻りたいとの思いが沸き起こりました。心に引っかかっていたのです。それがミカ書6:8のみことばでした。

6:8 主はあなたに告げられた。人よ、何が良いことなのか、主があなたに何を求めておられるのかを。それは、ただ公正を行い、誠実を愛し、へりくだって、あなたの神とともに歩むことではないか。

 神が求めているもの。それは何か?シンプルなことでした。

 主が求めているのは、私自身でした。

 私が神様に心を向け、この方と歩むことでした。

 たとえ上手く行ってないように思える時でも、主の愛は変わらないのです。

 会堂ができようが、できまいが、教会が大きくなろうがそうでなかろうが。主の愛は変わりません。主が求めているのは私たちが差し出す良い成果、良い報告ではありません。

 神様はあなたという人を愛し、あなたとともにいることが嬉しいのです。その愛を理解しない、わからずやの私たちに、主は様々な試練や行き詰まりを通して気づかせようとされているのです。

 この主の愛を学ばせていただき、価値観が変わりました。牧師として結果を出さなければとどこかで思っていた自分に、改めてそうではないのだと主が言われたのです。

 そうなると、目に見える成果に関係なく、主の働きをさせてもらえることが嬉しくて仕方がないわけです。礼拝で奉仕できることが、楽しくて仕方がないのです。神様を賛美できることが幸せでしょうがない。神様の話を皆でできること自体が喜びなのです。

 皆さんが教会に来て、楽しく過ごしている姿。みことばに感動する姿。語り合う交わりの中でいやされる姿。それがあるだけで、なんと幸せなことかと思います。その中に主がおられるからです。

 

 私たちの信仰生活は、これで十分です。神に生きること。神に向かって生きること。神とともに生きること。霊性とは神とともに生きることそのものなのです。





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