東村山福音自由教会 ✞ Sunrise Chapel: ヨハネ1章29-34節「恵みの働きに召された私たち」
主が人の子らを、意味もなく、苦しめ悩ませることはない。(哀歌3:33)

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2021/12/15

ヨハネ1章29-34節「恵みの働きに召された私たち」

*** 12/15(水)祈祷会 説教概略 ***
ヨハネ129-34節「恵みの働きに召された私たち」

 教会における交わりは、ただ楽しく終わるものではありません。心に残り、その後も「生きる糧」となる交わりであると実感しています。日曜日のJYクリスマス会が終わった後も、多くの人が教会に残り、片づけをしながらですが、夕方6時ぐらいまで交わりが尽きませんでした。

 また、昨日の女性クリスマス会も、神様の恵みを実感できる温かい交わりとなり、お昼も食べずに3時過ぎまでお交わりしている方々もいました。


 夕方、女性クリスマスに参加されていないある方からLINEが入り、「女性クリスマス会のためにお祈りました」と教えてくださいました。お返事として、祈られているのを実感できる祝福された集いでしたと恵みを分かち合いました。そこにも主にある交わりがあるわけです。

 奉仕は大変です。忙しくもなるでしょう。疲れも出ますね。「霊は燃えていても肉は弱いのです」(マルコ13:38)ともあります。一生懸命奉仕すれば疲れるのは当然です。

 それでも、神の救いの恵みがその中心にあり、主の愛の交わりがあるならば、私たちは深い慰めと大きな励ましをいただき、それゆえに心も体もまた強められていくことも真実でしょう。逆に、疲れた割に、忙しかった割にたいした収穫もなかったなぁ・・・恵まれなかったなぁ・・・、そうなると心も疲れ切ってしまいますよね。

 ですから、神様のみこころを離れたむなしい働きではなく、主のみこころにそった「恵みの働き」を大事にしていければと思います。それは、いつでも「人の救いを願う働き」であり、「主の愛に根ざした宣教」です。祈られているのを感じ、そこで多くの神様の救いのみわざが起こっているのを体験する時、ここに居させていただき、その恵みを見させていただいて本当に感謝だなと心から強められて参ります。

 このような恵みの働きに召されている私たちであることを、みことばから教えられて参りましょう。

 

1. 証しができる喜び
 
 先週からのエリサベツとその夫ザカリヤの話をみことばから教えられて参りました。今日はその夫婦に与えられた子「バプテスマのヨハネ」の話になります。彼が成長し、イエス様の働きのために「道備え」をしている姿から教えられます。29-30節。

29 その翌日、ヨハネは自分の方にイエスが来られるのを見て言った。「見よ、世の罪を取り除く神の子羊。 30 『私の後に一人の人が来られます。その方は私にまさる方です。私より先におられたからです』と私が言ったのは、この方のことです。

 ヨハネはイエス様が向かって来るのを見て、この方が「世の罪を取り除く神の子羊」です!と紹介しました。旧約時代、罪の赦しのために動物の犠牲が神にささげられていました。そして、イエス様の十字架の死こそ罪の赦しの犠牲の完成した姿です。

 この方は「私にまさる方、私より先におられた方である」と彼は言いました。この紹介は興味深いものです。なぜなら、バプテスマのヨハネの方が半年ほど先に生まれているからです。先週読んだみことばにありましたが、イエス様がマリアのお腹に宿った時、エリサベツはすでに妊娠6か月でした。ですので、半年ほど早くヨハネが生まれ、それからイエス様が生まれたのです。

 ところが、ヨハネはこの方は「私より先におられた」と言います。不思議です。

 この視点は霊的な視点です。イエス様は人間としてはヨハネより半年遅れで生まれましたが、まことの神としては父なる神と聖霊とともに、最初からおられ、世界を造られたお方だからです。ですから、「私より先におられた方」なのです。

また、ヨハネは31節でこうも言います。「私自身もこの方を知りませんでした。」

 ヨハネは幼少からイエス様のことを知ってはいたでしょう。しかし、イエス様がどういうお方であるのかは、後に示されたのです。御霊が天から鳩のように降るのを見たら、それが聖霊のバプテスマを授ける神の御子であると啓示されて初めて知ったのです。

 誰もが最初はそうです。神様は私たちを最初から知ってくださっていますが、私たちは誰もが最初は知らないのです。けれど、この救い主を知った時、そこにある恵みを知った時、伝えずにはいられない喜びに導かれます。ヨハネはイエス様が父なる神様から祝福を受け、御霊が降るのを目撃し、この方がまことの神の御子だと示されたのです。32-34

32 そして、ヨハネはこのように証しした。「御霊が鳩のように天から降って、この方の上にとどまるのを私は見ました。33 私自身もこの方を知りませんでした。しかし、水でバプテスマを授けるようにと私を遣わした方が、私に言われました。『御霊が、ある人の上に降って、その上にとどまるのをあなたが見たら、その人こそ、聖霊によってバプテスマを授ける者である。』34 私はそれを見ました。それで、この方が神の子であると証しをしているのです。」  

 34節にあるように、私はこの方を目撃した。この方を知ったのです。だから、この方が神の子であると証言し、証しをしているのです。

私たちも最初は知らない者でしたが、今は知る者となりました。主の救いの恵みをこの目で見て、心で感じて、日々の歩みの中で体験しているのです。だから、私たちもまた、ヨハネのように、イエス様が生ける神の御子であることを証しできるのです。この証しをする恵みをも神様から賜っていることはなんと幸いなことでしょうか。

「証し」とは、言い換えれば「証言する」ということです。例えば、裁判で証言できるのは、それを目撃した人に限られます。確かにその目で見て、その場にいて、その事実を知っている、その人を知っている者である必要があります。

ですから、証し(証言)できる者とは、神の救いの目撃者、恵みの体験者であるということです。その恵みの場にいた、それを見た、それを記憶した。だから証言が可能です。私たちは神様の救いの恵みを知ったからこそ、証しができる。それはとても幸せなことではないでしょうか。神様から愛されていることを実感し、救いの喜びを享受しているのですから。主にある交わりの尊さ、楽しさ、豊かさを知った証拠ではないでしょうか?

ですから、まだ知らない方のためにイエス様の救いについて、お伝えすることができるというのは、自分が救われていることを再確認できる恵みであり、実感をもって振り返るすばらしいチャンスでもあるのです。

 

2.伝える者も恵みにあずかる 
 恵みというものは他の人に分かち合っても一切減りません。それどころか、恵みは分かち合うほどに増え広がり、自分に与えられていた恵みがさらに豊かに深まり、喜びも増し加わるのです。

 ですから、私たちは救いの恵みを自分の心の中に閉じ込めず、交わりの中で「分かち合う」のです。
第一コリント9章23節をお開きください。そこにこうあります。
私は福音のためにあらゆることをしています。私も福音の恵みをともに受ける者となるためです。 

 福音:救いの良い知らせを伝えるために、あらゆることをしているとパウロは言っています。そして、それによって自分も「福音の恵みをともに受ける者となるため」だと言うのです。多くの犠牲を払ってイエス様の福音を伝える時、それを受け取った人は当然その恵みを受け生まれ変わります。

 しかし、伝えられた者だけでなく、伝えた側、分かち合った側もまた、「その恵みをともに、一緒に受けるのだ」と言うのです! 実際、昨日も私は福音を皆さんに語る奉仕をさせていただき、その後の交わりでも分かち合いましたが、あるいはすべての行動はそのためにしているのですが、実に、伝えた私自身がとても励まされ慰められたのです。 福音を伝えることは、伝えられる人のためだけの恵みではなく、伝える本人にとって大きな恵みなのです!恵みを深く味わう方法は、恵みを自分の中に閉じ込めず、分かち合い恵みを広げていくことです。自分も隣人も一緒に恵まれるのが福音です。そのような交わりがある場、祈られている恵みの場はなんと力強いことでしょうか。昨日、いのちのことば社さんの出張販売が来られました。彼は集会には一切参加していません。玄関のところで販売して下さっただけです。それでも彼はとても励まされたと喜んで帰って行きました。この教会に起こっている神のみわざ、救いの恵みを彼も感じたのです。皆さんの表情、雰囲気、温かさ・・・「平日にこんなに皆さん集まれているのですね。いいですね~」と、交わりの雰囲気にとても感銘を受けたようです。未信者の方々も多く来られていて、皆さん喜んで帰って行かれました。
ヨハネはこの後、36節でイエス様を指して言いました「見よ、神の子羊」と。二人の弟子はそれに応じてイエス様について行きました。私たちも交わりの中で、絶えず主の救いを指し示し、この恵みを広める恵みを味わっていきましょう。 




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