*** 12/15(水)祈祷会 説教概略 ***
ヨハネ1章29-34節「恵みの働きに召された私たち」
夕方、女性クリスマスに参加されていないある方からLINEが入り、「女性クリスマス会のためにお祈りました」と教えてくださいました。お返事として、祈られているのを実感できる祝福された集いでしたと恵みを分かち合いました。そこにも主にある交わりがあるわけです。
1. 証しができる喜び
先週からのエリサベツとその夫ザカリヤの話をみことばから教えられて参りました。今日はその夫婦に与えられた子「バプテスマのヨハネ」の話になります。彼が成長し、イエス様の働きのために「道備え」をしている姿から教えられます。29-30節。
ヨハネはイエス様が向かって来るのを見て、この方が「世の罪を取り除く神の子羊」です!と紹介しました。旧約時代、罪の赦しのために動物の犠牲が神にささげられていました。そして、イエス様の十字架の死こそ罪の赦しの犠牲の完成した姿です。
この方は「私にまさる方、私より先におられた方である」と彼は言いました。この紹介は興味深いものです。なぜなら、バプテスマのヨハネの方が半年ほど先に生まれているからです。先週読んだみことばにありましたが、イエス様がマリアのお腹に宿った時、エリサベツはすでに妊娠6か月でした。ですので、半年ほど早くヨハネが生まれ、それからイエス様が生まれたのです。
ところが、ヨハネはこの方は「私より先におられた」と言います。不思議です。
この視点は霊的な視点です。イエス様は人間としてはヨハネより半年遅れで生まれましたが、まことの神としては父なる神と聖霊とともに、最初からおられ、世界を造られたお方だからです。ですから、「私より先におられた方」なのです。
ですから、証し(証言)できる者とは、神の救いの目撃者、恵みの体験者であるということです。その恵みの場にいた、それを見た、それを記憶した。だから証言が可能です。私たちは神様の救いの恵みを知ったからこそ、証しができる。それはとても幸せなことではないでしょうか。神様から愛されていることを実感し、救いの喜びを享受しているのですから。主にある交わりの尊さ、楽しさ、豊かさを知った証拠ではないでしょうか?
ですから、まだ知らない方のためにイエス様の救いについて、お伝えすることができるというのは、自分が救われていることを再確認できる恵みであり、実感をもって振り返るすばらしいチャンスでもあるのです。
2.伝える者も恵みにあずかる
恵みというものは他の人に分かち合っても一切減りません。それどころか、恵みは分かち合うほどに増え広がり、自分に与えられていた恵みがさらに豊かに深まり、喜びも増し加わるのです。
ですから、私たちは救いの恵みを自分の心の中に閉じ込めず、交わりの中で「分かち合う」のです。
第一コリント9章23節をお開きください。そこにこうあります。
「私は福音のためにあらゆることをしています。私も福音の恵みをともに受ける者となるためです。」
福音:救いの良い知らせを伝えるために、あらゆることをしているとパウロは言っています。そして、それによって自分も「福音の恵みをともに受ける者となるため」だと言うのです。多くの犠牲を払ってイエス様の福音を伝える時、それを受け取った人は当然その恵みを受け生まれ変わります。
しかし、伝えられた者だけでなく、伝えた側、分かち合った側もまた、「その恵みをともに、一緒に受けるのだ」と言うのです! 実際、昨日も私は福音を皆さんに語る奉仕をさせていただき、その後の交わりでも分かち合いましたが、あるいはすべての行動はそのためにしているのですが、実に、伝えた私自身がとても励まされ慰められたのです。 福音を伝えることは、伝えられる人のためだけの恵みではなく、伝える本人にとって大きな恵みなのです!恵みを深く味わう方法は、恵みを自分の中に閉じ込めず、分かち合い恵みを広げていくことです。自分も隣人も一緒に恵まれるのが福音です。そのような交わりがある場、祈られている恵みの場はなんと力強いことでしょうか。昨日、いのちのことば社さんの出張販売が来られました。彼は集会には一切参加していません。玄関のところで販売して下さっただけです。それでも彼はとても励まされたと喜んで帰って行きました。この教会に起こっている神のみわざ、救いの恵みを彼も感じたのです。皆さんの表情、雰囲気、温かさ・・・「平日にこんなに皆さん集まれているのですね。いいですね~」と、交わりの雰囲気にとても感銘を受けたようです。未信者の方々も多く来られていて、皆さん喜んで帰って行かれました。
ヨハネはこの後、36節でイエス様を指して言いました「見よ、神の子羊」と。二人の弟子はそれに応じてイエス様について行きました。私たちも交わりの中で、絶えず主の救いを指し示し、この恵みを広める恵みを味わっていきましょう。