ルカ1章18-23節、57-66節「沈黙から賛美へ」
クリスマスは教会で多くの集いがあり、その準備もあれこれあって、じっくり静まりたい時でありながら、どうにも慌ただしくなってしまいがちです。それはもちろん、教会のことだけではありません。社会全体において、年の瀬が迫る中で、大掃除やら年賀状やら年始の準備やら、様々な締め日が近づいていたりと・・・忙しくなるからでもあります。
ただ、そのような時にこそ、私たちは主の前に静かな心で御声をしっかりと聞き分け、恵みを味わう者でありたいのです。マルティン・ルターは「私には一日のうちにすべきことがあまりに多くあるので、朝2時間、祈らないとやっていけない」と言ったそうです。
考えさせられますね。
今日は「沈黙から賛美へ」というタイトルをつけました。それは、本日のみことばに登場するザカリヤという人物が「沈黙」を与えられ、それを通して主を知る機会とされたからです。彼はしばらくの間、全く言葉を発することができなくなりました。
しかし、その試練の期間を通して、彼はより大切な恵みを受けることができました。その恵みとは、「主の前に静まって御声を聞き、主のみわざを体験すること」です。みことばにおいても「聴くに早く、語る遅くあるように」と教えられています。やがて、彼の口にことばが戻ったとき、彼の口から出たことばは、神様への賛美でありました。
聴くよりも、自分の訴えを語りたがる私たちです。特に忙しいとき、慌てふためく自分の騒がしい心の声にかき消され、主のクリスマスの恵みが見えなくなってしまうのではないでしょうか? 自分の言い分を後にして、まず神の語りかけに静かに聞いて参りましょう。
ところが彼は、これが神様からのお告げであるにも関わらず、素直に受け入れることができませんでした。なぜなら、彼ら夫婦は不妊で子どもができずにずっと悩んで来て、もう諦めてからだいぶ年数が経っていたからです。年を取っていたのです。
そこに、今更妊娠すると言われても、しかもお腹に宿るその子が多くの人を神に立ち返らせる選ばれた器だと言われても、到底信じられなかったのです。
ですから、ザカリヤはつい否定的な言い分を述べてしまいます。18節。ザカリヤは御使いに言った。「私はそのようなことを、何によって知ることができるでしょうか。この私は年寄りですし、妻ももう年をとっています。」
「何によって知ることができるでしょうか」との問いは、はっきり言えば「私が信じられるために、何か目に見える証拠を見せてくれ!」ということです。逆に言うと、「何か奇跡でも見せてもらえないと、天使さんあんたの言い分は到底信じられませんよ!私らこんなに年取っているんですから。」そんな主旨でしょう。
ザカリヤは神に仕える祭司でしたが、信じがたい話を前に、つい自らの言い分ばかりを主張してしまったのです。天使は、ザカリヤのこのことばに応じて答えました。まず19節で、彼は自分が神の前に立つ天使ガブリエルで、あなたに神からの良い知らせを伝えに来たのだと答えます。つまり、彼は神からのメッセンジャーとして派遣されているのです。
そして20節でこう語ります。1:20 見なさい。これらのことが起こる日まで、あなたは口がきけなくなり、話せなくなります。その時が来れば実現する私のことばを、あなたが信じなかったからです。」
神から預かったことばを伝えているのに、あなたは聴き入れず、信じず、自分の言い分ばかりを述べた。それゆえ、この出来事が成就するまで口がきけなくなると。つまり、妊娠から出産までの約10カ月もの間、ザカリヤは一切口がきけなくなってしまうのです。
皆さんならば、10カ月間、一年近くもの間話せなくなってしまったら、どうしますか?仕事で困る、学校で困る、家庭で困る、教会の奉仕でも困る。多くのことが出来なくなってしまう。そして迷惑をかけてしまう。
神様はひどい罰を与えたと思われるでしょうか?確かに「あなたが信じなかったから」だと天使はいいます。でも、これはイジワルや罰ではないと思うのです。なぜなら、この期間は、ザカリヤが神というお方を、改めて深く知るために必要な大切な10カ月となったからです。この試練の10カ月を通して彼は神を知っていくのです。
私たちは今日、このザカリヤに与えられた「沈黙」から教えられたいのです。ことばを発することができなくなったということは、半ば強制的に語るよりも聞く者とならざるを得なかったということです。
私たちもあれこれ言い分を述べるのを少しやめ、引っ切り無しに動かしているその手足を止め、静かにただ主に心を向けませんか。主の声を静かに聞きませんか。私は昨日、説教原稿の大半を書き終えていましたが、そこで改めて主に祈らされました。私自身、静まってあなたの声を聞けていますか?と主に問いかけ祈りました。
するとヨブ記のみことばが示されて参りました。38章1-2節
私たちは本当に我が強く、どこまで行っても自分の言い訳、自己主張に終始してしまう者です。 話を聞くよりも、自分の思いをわかって欲しい。受け入れて欲しい。認めて欲しいとの欲求が強いのです。なぜ、そのような「承認欲求」が強いのでしょうか。
実に神の声を聞けていないゆえではないでしょうか。
承認欲求が強いから主の声が聴けないのではなく、主の声を聴けていないから満たされず、承認欲求が強くなるのです。
承認欲求を満たせるのは、私たち自身ではなく神様だけだからです。
このみことばにあるように、知識もなく言い分を述べて、摂理を暗くしているのは他でもない、黙る事を知らない私たち自身です。
静まり、主の声にじっくり聞いて、みこころに生きれば味わえるはずの恵みがあります。自分が何者かを主から語られ、謙虚にその愛を受け入れれば、満たされる求めがあります。しかし、主の愛の声を聞かないために、いつまでも心が騒ぎ満たされないままなのです。
もう一度申し上げますが、慌ただしい時だからこそ、少しの間でいい。その手を止め、スマホをいじるのをやめ、あれこれなすべき事を考えるのをやめ、静かに主の声に耳を傾ける時を持ちませんか。たとえ1日のうち5分、10分でもいい。神様だけに心を向ける時間。一切他のことを考えない時間。それを大切にしていきませんか。
そして、ついに彼が沈黙から解放される時が来ました。57-58節。
天使のことば通りに、ザカリヤの妻エリサベツは男の子を生みました。親族もご近所さんも来て一緒に喜び祝いました。しかし、父親のザカリヤはまだ声が出ません。男の子が生まれたのに・・・。
当時の慣例にならい8日目にこの子に割礼の儀式と名付けをするために、人々がまた集まりました。皆は、父親と同じザカリヤと名付けようと相談します。ザカリヤ二世なのか、三世なのかわかりませんが。ただ、当のエリサベツとザカリヤは首を縦に振りませんでした。
エリサベツは「いいえ、ヨハネと名付けなければ」と言います。皆は驚きますが、口がきけないザカリヤも板を持って来させ書きました。63-64節
ザカリヤが天使のことばに従ってその子に「ヨハネ」と名づけると伝えた時に、彼は口がきけるようになりました。そして何を語ったでしょうか。「神をほめたたえた」と語られています。
話したくても話せないという時間を過ごし、疑った自分を悔い改めてきたことでしょう。ザカリヤは自分に与えられたこの口は、自分の勝手な言い分を述べるためにあるのではなく、神に賛美をささげるためにあるのだと学んだのです。
不平不満ではなく、主への感謝語り、主のすばらしさをたたえるためにこそあるのだと。
人に口を与え、そこに声を授けたのは誰でしょうか。
神ご自身です。