ローマ8:31-39「神様からのプレゼント」
子どもたちはしばしば「試し行動」といった行動を取ります。特に不安な時、親の愛を試すために、わざと親を怒らせたり、反抗したりして困らせます。子どもたちが、そのような試し行動をして、親がどんな時にも自分の味方でいてくれるのか試すのは、本能的なものなのかも知れません。なぜなら、私たち大人でも、裏切られることのない、見捨てられることのない本物の愛を求めているからです。ところが、その愛を見つけられず、また私たち頑張って絞り出しても、他者にその愛を与えられないので傷つき悩んでいます。
ある牧師が自分の子育ての失敗談を本に残しました。妻子を愛しているつもりだった。彼らのために毎日神に祈っていた。それなのに家庭から笑顔が失われ、冷めたい空気が漂うようになりました。そこで彼は気づくのです。実は、それらの祈りは自分が愛しやすい立派な妻になるように、自分が愛しやすい成績優秀なできた子になるようにとの祈りだったのです。彼は妻や子が変わるようにばかり求め、自分が変えられ彼らを愛する者になろうとしていなかったのです。
神様からそれを気づかせていただき、ようやく彼は悔い改め、まず自分が本物の愛を学ぶことを始めました。聖書から神様の深い愛を教えられ、その愛で家族を愛する者となれるように祈り始めたのです。本物の愛、私たちも教えられましょう。
1.御子をさえ惜しむことなく死に渡された神
8:32 私たちすべてのために、ご自分の御子さえも惜しむことなく死に渡された神が、どうして、御子とともにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがあるでしょうか。
神様の人に対する愛があります。ご自分の愛するひとり子イエス様をさえ、惜しむことなく与えてくださったのです。これ以上ないほど大切な愛する我が子を私たちのためにくださったのがクリスマスです。
そこに想像を絶する神様の深いご愛があります。イエス・キリストは私たちの身代わりに罪の罰を十字架で受けるために、人となられたからです。
この愛のプレゼントを受け取る者は、神様を味方として受け入れたということになります。愛の贈り物を受け取ったのですから。
この神様がともにおられるのならば、一体誰が敵対できるでしょう。
41:10 恐れるな。わたしはあなたとともにいる。たじろぐな。わたしがあなたの神だから。わたしはあなたを強くし、あなたを助け、わたしの義の右の手で、あなたを守る。
しばしば私たちも口先では「あなたを愛しています、大切な人です」と言えます。しかし、いざとなると私たちの弱さゆえに、愛せなくなる、愛を示せなくなる者ではないでしょうか。
私の経験でも、子どもがかわいくて仕方がなく自分から触りたくなったものです。抱っこしたくなりました。けれど、自分がとても忙しくなり余裕がなくなると・・・
妻から頼まれても「えー!?」となってしまうのです。
それは結局、自分がしたい時にし、したくない時にしないというもの。
愛ではなく自分の気持ちを愛しているのです。
なんと都合よく使い分けてしまうことかと思ったものです。
しかし、神様は大きな犠牲を払って、実際の行動をもって私たちを愛してくださったのです。愛する御子を与えるほどの愛を、私たち人のために差し出してくださいました。
クリスマスは、このような神様の深い愛のことばが、実際に行われた時なのです。ですから、御子をくださった神様は32節にありますように、御子以外の必要なものはすべて与えてくださるのです。惜しむことなく私たちを祝福したいのです。
2.御子は何のために与えられたのか?
しかし、何のために御子は来られ、そしてあの十字架でいのちをささげられたのでしょうか?それは、御子を受け取った者が、罪赦され父なる神と交わりを回復して、平安と祝福を受けて幸せに歩めるようになるためです。
あなたが神の愛の中で安らかに、喜んで生きる人になるためだと言うのです。33-34節
8:33 だれが、神に選ばれた者たちを訴えるのですか。神が義と認めてくださるのです。
同志社大学の創始者である新島襄は、その生徒が授業をボイコットして大騒動になった時、自らの手を代わりに自分の杖で打ち付けました。ひどく内出血するほどにです。
本来なら学校の方針に従わない学生たちが処罰されるべきでした。
しかし、そうさせてしまった自分の指導の至らなさを詫びて、代わりに自分が罰を受けるべきだと新島襄はそのようにしたのです。
まさに生徒を誰も退学にしたくない、親のような愛の心で自分を身代わりに罰したのです。それを見た生徒たちは心から反省し悔い改めました。
キリストは片手どころか、両手両足に釘を打たれ十字架に磔になってくださいました。あなたの罪の赦しのために、いのち・すべてをあなたのためにささげ、父なる神との橋渡しをされたのです。
これによって33節にあるように、あなたは神の目に「義なる者」とされました。それは罪ある者なのに、無罪判決をいただき、「神と親しく交われる義人の立場をいただいた」ということです。
3.キリストという愛のプレゼント
このキリストの愛というプレゼントはむなしく消え去るこの世のものとは異なります。いつまでも残る、誰からも奪われることのないものです。だから安心なのです。
8:35 だれが、私たちをキリストの愛から引き離すのですか。苦難ですか、苦悩ですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。
35節のこの問いに対する答えは、39節の後半にあります。
「私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。」
もはや誰にもこれはできない。どんな試練も困難も、悪魔でさえもできない。
8:38 私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いたちも、支配者たちも、今あるものも、後に来るものも、力あるものも、8:39 高いところにあるものも、深いところにあるものも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。
ある方とお話していた時に、うまくいってる時の方が不安になるとおっしゃいました。
なぜですか?
と伺うと、うまくいってる時は今のこの状態がいつ失われるのかと不安になると。
人と深く関わり親しくなるごとに、それを失った時の恐怖を考えると不安になり、親しい関係になることが怖いとも。「見捨てられ不安」や喪失感に対する恐れと言ったらよいでしょうか。
しかし、ここに決して引き離されることのない愛があります。死でさえも、どんな強い力、権力も私たちを神の愛から引き離すことはできない。決して見捨てられることがないのです。
神様の愛を知るならば、試し行動も必要ありません。あなたが上手く行っている時も、そうでない時も、罪を犯してしまった時も、誰かに嫌われても、神様は決して見捨てることはありません。どんな時でもあなたとともにおられる神様なのです。