詩篇103篇1-12節「主は良いお方」
クリスマス・・・たくさんの集いがありました。様々な制限がある中でしたが、知恵をもって工夫をし、多くの祈りの支援を感じながら、協力して主にある働きができました。本当に感謝です。
特に普段来られていない方々をお招きする集会、これまでに6つほどありました。CS(子どもクリスマス)、JYLC(中高生クリスマス)、女性クリスマス、クリスマス特別礼拝、青年クリスマス、また教会開放日クリスマス。今日の午後も入れると7つですね。
そこには尊い準備があり、様々な労苦があったことと思います。お疲れ様でした。
冗談はさておき、クリスマスの余韻を味わいつつ、一方で今年最後の礼拝です。今日は、クリスマスの恵みはもちろんのこと、この一年の恵みを振り返り、感謝をささげたいと思います。
私が教会に集うようになった時、この世とは違うなぁと感じたこと。それは、とにかくクリスチャンが「感謝」ということばと仲良しだということです。当時の私はそんなに感謝する人間ではありませんでした。もちろん、感謝のことばは言っていました。しかし、多くは儀礼的なものでした。何かをもらったら感謝するようにと教えられてきたので、プログラムされたPCのように、半ば機械的に応答していたにすぎません。
しかし、クリスチャンが、何もされていなくても感謝、苦しい時にも感謝している姿を見て、驚かされたとともに、なんと魅力的な生き方だろうかと率直に思ったものです。
それはみことばが教えていることです。Ⅰテサロニケの5章のみことばでは、「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべてのことにおいて感謝しなさい」と語られています。このように歩める人は幸いだと思うのです。
とはいえ、現実を見る時には、感謝が難しいなぁと思える出来事もたくさんありますよね。生きていくということは、大変なことの連続です。ですから「すべてのことにおいて感謝する」ことは、「人間わざではない」ということです。しかし、ありがたいことに、神様はそれをよくご存じです。ですから、このⅠテサロニケのみことばには続きがあります。「これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。」と続くのです。自分の力でしなさいとはおっしゃらない。あくまで「キリストによって」なのです。クリスマスに降誕された救い主がともにおられるから、その救いの恵みが大きいゆえに、いつも喜び、絶えず祈り、すべてに感謝できるようにさせていただいたのです。
主なる神様が良くしてくださったことを、何一つ忘れるな!と自分の魂に呼びかけます。自分のうちにあるすべてに呼びかけ、賛美するように促しています。
ただ、これはほとんど不可能な呼びかけにさえ思われます。
なぜなら、主は良いお方で、良いものをあまりにもたくさんくださっているからです。
本気で数え始めたら不可能ではないでしょうか。
長女がまだ幼かった頃、食事の感謝のお祈りをさせてみたところ、テーブルに載っているものを全部感謝し始めたので驚いたものです。大人は一言「この食事を感謝します」で終わってしまいます。しかし、娘は「パパのご飯をありがとうございます。パパのハンバーグを、パパのお箸を、パパのお皿を・・・」と、それをママの分、自分の分と祈るわけですから大変です。本来は食器の一つ一つも、イスもテーブルも、与えられているのです。
家、仕事、家族、友人、着る物、履く物、日用品、趣味。礼拝が続けられること、この会堂があること、信仰の友がいることも感謝です。多くのものを主が与えてくださっています。
それをこの一年に限定したところで、数えられるはずもないのです。昨日の恵みさえ思い出せないほど忙しく生きている私たちです。そして、ないものばかりを見て嘆いてしまいがちです。子どもの成績表を見ても、下がったところばかりに注目してしまい、頑張ったところを評価できなかった事を反省しています。ここが私たちの罪人の弱さでしょう。
しかし、神様が造られた私たち人間に、失敗作などありません。あなたは神様が愛をこめて造られた、世界でたった一人の大傑作です。そのあなたに、愛する御子をまで惜しまず与えてくださった神様なのです。
それほどに愛しているあなたのためなのですから、主は一生、永遠に良いもので満たし続けてくださいます。この恵みをいつも覚えて感謝し、賛美して歩みたいのです。
3 主はあなたのすべての咎を赦し あなたのすべての病を癒やし
と語られています。
ここでは並行法という修辞法が使われています。「あなたのすべての咎を赦し」と「あなたのすべての病をいやし」とその後の「あなたのいのちを穴から贖われる」は、並行して語られています。それらはお互いの意味を補い合いながら、内容としては救いの全体像を語っていると言えます。
咎は罪の類語ですが、それは私たちに魂の死をもたらすものでしょう。病もまた、私たちを深刻なほど苦しめますし、死をもたらすものでしょう。穴はまさに「滅びの穴」を意味しています。ですから、私たちを滅ぼそうとするあらゆるものから、神様が救い出してくださるということです。
実際、今日まで私たちがこうして生かされていること。こうして礼拝がささげられること。それは、主が私たちをあらゆる滅びから救い、この祝福の場にいさせてくださっているという恵みなのではないでしょうか。
あなたがこの年の最後の礼拝にもいること。オンラインであれここに参加されていること。それが主の救いの恵みでなくて何なのでしょうか。さらに、この救いは終わりの時に完全にされるという明確なゴールが間違いなく備えられています。もはや失うことはないのです。
神様はこんなにも良いものをその愛する子に与えてくださるのです。それも一時的ではないのです。「あなたの一生を良いもので満ちたらせる」とある通りです。
そして、一年を振り返り、その恵みをしっかりと見つめ感謝できるということは、新しい一年に対して期待が持てることになります。過去に私をずっと主が守り良くしてくださった。その経験を自分のものとするからこそ、「主は良いお方である」と信頼できるようになります。主が良いお方だという信頼を積み重ねるからこそ、未来に対しても主は良いもので満ちたせるお方であると信頼し、期待することができるのです。
主はあわれみ深く情け深い。怒るのに遅く恵み豊かである。