東村山福音自由教会 ✞ Sunrise Chapel: 詩篇103篇1-12節「主は良いお方」
主が人の子らを、意味もなく、苦しめ悩ませることはない。(哀歌3:33)

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2021/12/27

詩篇103篇1-12節「主は良いお方」

 *** 12/26(日)年末感謝礼拝 説教概略 ***

詩篇103篇1-12節「主は良いお方」

 クリスマス・・・たくさんの集いがありました。様々な制限がある中でしたが、知恵をもって工夫をし、多くの祈りの支援を感じながら、協力して主にある働きができました。本当に感謝です。

 特に普段来られていない方々をお招きする集会、これまでに6つほどありました。CS(子どもクリスマス)JYLC(中高生クリスマス)、女性クリスマス、クリスマス特別礼拝、青年クリスマス、また教会開放日クリスマス。今日の午後も入れると7つですね。

 そこには尊い準備があり、様々な労苦があったことと思います。お疲れ様でした。

このような忙しいクリスマス、一人ぼっちで頑張るならばクルシミマス。でも兄弟姉妹で協力して労するならば、神のみわざにビックリス(シ)マス。そして主にあって大いにヨロコビマス! 一年の締めくくりのジョークにしてはお粗末でした。

 冗談はさておき、クリスマスの余韻を味わいつつ、一方で今年最後の礼拝です。今日は、クリスマスの恵みはもちろんのこと、この一年の恵みを振り返り、感謝をささげたいと思います。

 私が教会に集うようになった時、この世とは違うなぁと感じたこと。それは、とにかくクリスチャンが「感謝」ということばと仲良しだということです。当時の私はそんなに感謝する人間ではありませんでした。もちろん、感謝のことばは言っていました。しかし、多くは儀礼的なものでした。何かをもらったら感謝するようにと教えられてきたので、プログラムされたPCのように、半ば機械的に応答していたにすぎません。

 しかし、クリスチャンが、何もされていなくても感謝、苦しい時にも感謝している姿を見て、驚かされたとともに、なんと魅力的な生き方だろうかと率直に思ったものです。

 それはみことばが教えていることです。Ⅰテサロニケの5章のみことばでは、「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべてのことにおいて感謝しなさい」と語られています。このように歩める人は幸いだと思うのです。

とはいえ、現実を見る時には、感謝が難しいなぁと思える出来事もたくさんありますよね。生きていくということは、大変なことの連続です。ですから「すべてのことにおいて感謝する」ことは、「人間わざではない」ということです。しかし、ありがたいことに、神様はそれをよくご存じです。ですから、このⅠテサロニケのみことばには続きがあります。「これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。」と続くのです。自分の力でしなさいとはおっしゃらない。あくまで「キリストによって」なのです。クリスマスに降誕された救い主がともにおられるから、その救いの恵みが大きいゆえに、いつも喜び、絶えず祈り、すべてに感謝できるようにさせていただいたのです。

 

1. 良いお方である主
 
 このお方に目を注ぐ時に、私たちは恵みに目を留めて感謝できる者へと変えられていきます。人にはわからない「神の良いご計画」があるのです。

 今日開いているみことばも、「わがたましいよ、主をほめたたえよ」と神様への賛美で始まりますが、賛美できるのは、「主が良いお方であるから」です。1-2節です。

詩篇103篇1-2節
わがたましいよ 主をほめたたえよ。
 私のうちにあるすべてのものよ 聖なる御名をほめたたえよ。 
わがたましいよ 主をほめたたえよ。
 主が良くしてくださったことを何一つ忘れるな

主なる神様が良くしてくださったことを、何一つ忘れるな!と自分の魂に呼びかけます。自分のうちにあるすべてに呼びかけ、賛美するように促しています。

ただ、これはほとんど不可能な呼びかけにさえ思われます。

なぜなら、主は良いお方で、良いものをあまりにもたくさんくださっているからです

本気で数え始めたら不可能ではないでしょうか。

長女がまだ幼かった頃、食事の感謝のお祈りをさせてみたところ、テーブルに載っているものを全部感謝し始めたので驚いたものです。大人は一言「この食事を感謝します」で終わってしまいます。しかし、娘は「パパのご飯をありがとうございます。パパのハンバーグを、パパのお箸を、パパのお皿を・・・」と、それをママの分、自分の分と祈るわけですから大変です。本来は食器の一つ一つも、イスもテーブルも、与えられているのです。

家、仕事、家族、友人、着る物、履く物、日用品、趣味。礼拝が続けられること、この会堂があること、信仰の友がいることも感謝です。多くのものを主が与えてくださっています。

それをこの一年に限定したところで、数えられるはずもないのです。昨日の恵みさえ思い出せないほど忙しく生きている私たちです。そして、ないものばかりを見て嘆いてしまいがちです。子どもの成績表を見ても、下がったところばかりに注目してしまい、頑張ったところを評価できなかった事を反省しています。ここが私たちの罪人の弱さでしょう。

しかし、神様が造られた私たち人間に、失敗作などありません。あなたは神様が愛をこめて造られた、世界でたった一人の大傑作です。そのあなたに、愛する御子をまで惜しまず与えてくださった神様なのです。

それほどに愛しているあなたのためなのですから、主は一生、永遠に良いもので満たし続けてくださいます。この恵みをいつも覚えて感謝し、賛美して歩みたいのです。

 

2.滅びから救ってくださる主 
 
詩篇103篇3-4節

主はあなたのすべての咎を赦し あなたのすべての病を癒やし

4前半 あなたのいのちを穴から贖われる。

 と語られています。

 ここでは並行法という修辞法が使われています。「あなたのすべての咎を赦し」と「あなたのすべての病をいやし」とその後の「あなたのいのちを穴から贖われる」は、並行して語られています。それらはお互いの意味を補い合いながら、内容としては救いの全体像を語っていると言えます。

 咎は罪の類語ですが、それは私たちに魂の死をもたらすものでしょう。病もまた、私たちを深刻なほど苦しめますし、死をもたらすものでしょう。穴はまさに「滅びの穴」を意味しています。ですから、私たちを滅ぼそうとするあらゆるものから、神様が救い出してくださるということです。

 実際、今日まで私たちがこうして生かされていること。こうして礼拝がささげられること。それは、主が私たちをあらゆる滅びから救い、この祝福の場にいさせてくださっているという恵みなのではないでしょうか。

 あなたがこの年の最後の礼拝にもいること。オンラインであれここに参加されていること。それが主の救いの恵みでなくて何なのでしょうか。さらに、この救いは終わりの時に完全にされるという明確なゴールが間違いなく備えられています。もはや失うことはないのです。

 この一年、私たち自身を振り返る時、数えきれないほどの罪を犯してきたのではないかと思わされます。家族を傷つけ、悲しませる言動あったでしょうか。頭の中、心の中までご存知の神様の前に、私はそれほど罪を犯しませんでした!と言える人はいないでしょう。それこそ私たちの犯した罪もまた、数えきれないことでしょう。しかし、主はその罪を、ご自身の義によって無罪放免し「もう思い出さない」と言ってくださるのです。御子イエス様のいのちの犠牲をもって、イエス様の義によって私たちは覆われ、主がそのキリストの義を見てくださるので、私たちは罪によってさばかれ、報われることがないのです。10節にこうあります。 

詩篇103篇10節
 私たちの罪にしたがって私たちを扱うことをせず私たちの咎にしたがって私たちに報いをされることもない

 これだけを取ってみても、この一年、神様が私たちにあわれみをかけてくださったことが明白です。私たちの罪を無罪と考え、見捨てることなく、嫌うことなく愛し続けてくださった一年。なんと幸いでしょうか。
 罪を犯さないように、失敗しないようにと自分で頑張るのではなく、良いお方である神様を求めていきましょう!主が良いお方なので、罪や悪から遠ざけてくださるのです。12節です。

詩篇103篇12節
東が西から遠く離れているように主は私たちの背きの罪を私たちから遠く離される

 神様のもとにいる者は、罪とその罪悪感から遠く離れさせていただけるのです。

 

3.恵みとあわれみの主 
 

詩篇103篇4-5節
4節後半 主はあなたに恵みとあわれみの冠をかぶらせ
5節 あなたの一生を良いもので満ち足らせる。あなたの若さは鷲のように新しくなる

 4節の恵みとは「ヘセド」ということばで、永遠の愛とも訳せます。主は私たちに永遠に変わらない愛を約束され、大いに恵んでくださり、あわれんでくださいます。それは私たちにとって誇らしい冠です。冠は私たちの頭の上、一番目立つ、一番高いところに身に着けますよね? 私たちの誇りは自分自身ではなく、神様の愛や恵み、あわれみなのです。

 神様はこんなにも良いものをその愛する子に与えてくださるのです。それも一時的ではないのです。「あなたの一生を良いもので満ちたらせる」とある通りです。

そして、一年を振り返り、その恵みをしっかりと見つめ感謝できるということは、新しい一年に対して期待が持てることになります。過去に私をずっと主が守り良くしてくださった。その経験を自分のものとするからこそ、「主は良いお方である」と信頼できるようになります。主が良いお方だという信頼を積み重ねるからこそ、未来に対しても主は良いもので満ちたせるお方であると信頼し、期待することができるのです。

 8節にもこうありますね。
 主はあわれみ深く情け深い。怒るのに遅く恵み豊かである。

 本当に良いお方です。この方が私たちの味方である。この方を天のお父さんと親しく呼ぶことができる。この方と永遠に引き裂かれることなく歩むことができる。

 なんと幸いなことでしょう。この方とともにある恵み、その幸いに感謝!



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