東村山福音自由教会 ✞ Sunrise Chapel: Ⅰコリント1章18-31節「キリストを誇れる幸せ」
主が人の子らを、意味もなく、苦しめ悩ませることはない。(哀歌3:33)

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2022/01/12

Ⅰコリント1章18-31節「キリストを誇れる幸せ」

*** 1/12(水)祈祷会 説教概略 ***

 Ⅰコリ118-31節 「キリストを誇れる幸せ」 

私たちはなぜ、今、ここに(主の教会に)いることが出来るのでしょうか?

それは、神様に選んでいただき、声をかけていただいたからです。

では、神様が私たちを選んでくださったのはなぜなのでしょうか?
私たちが有能だからでしょうか。多くの良いことを成したからでしょうか。力があるからでしょうか。いいえ、私たちはむしろ、神様の前には何の手柄もなく、罪深い者として恥じ入るばかりです。

27-28節にこうあります。
27節 しかし神は、知恵ある者を恥じ入らせるために、この世の愚かな者を選び、強い者を恥じ入らせるために、この世の弱い者を選ばれました。
28節 有るものを無いものとするために、この世の取るに足りない者や見下されている者、すなわち無に等しい者を神は選ばれたのです。 

 人間が「私が自分を救ったのだ!」と、自分の力や自分の成果を誇ることがないようにするため、人の力ではこの救いを獲得することができないものとされました。
 むしろ、神様の栄光だけが豊かに現わされるために、弱い小さな私たちが選ばれたのです。取るに足りないような、無に等しい者を主は選ばれたのです。

 ただ、よく考えるとこの手紙の読者は、コリントの教会の兄姉たちです。

 彼らが能力があまりない人たちだったとは考えにくいのです。

 非常に栄えていた町ですから、どちらかと言うと、色々なことに長けていて、活発で、優秀な人が集まりやすい場所でしょう。そのような人に対して、パウロは「神の召しはそういうものだ」と語る必要があったのだと思います。神様は高慢をとても嫌われますから。

 今日は「キリストを誇れる幸せ」というテーマで教えられます。 

 

 18節のことば、ぜひ心に握りしめていただければと思います。

18節 十字架のことばは、滅びる者たちには愚かであっても、救われる私たちには神の力です。 

 十字架のことば、それは私たちにとっては「十字架の福音」と言って良いでしょう。「良い知らせ、喜びの知らせ」です。救いを受けた者にとっては、キリストの十字架はこれ以上ないほど大きな喜びの嬉しい知らせですよね。信じる者の罪がことごとく赦され、天のお父様との親しい交わりを回復できる。神の恵みを日々体験できる喜びの生涯への土台・保証が十字架ですよね。神の愛のしるしが十字架ですよね。

しかしながら、十字架のことばには頑丈なカギがかけられています。もし、自分の能力や自分の賢さに頼って探ろうとすると、固くカギがかかってしまったかのようになるのです。力づくでそのカギを壊そうとしても、かえって閉ざされてしまいます。

それは具体的にはこう言うことです。「この世は金だ、権力だ」と考える人にとって、神としての栄光をも捨てて十字架にかかられたイエス様は「愚か者」に見えるのです。

実際、キリストの十字架の死は、一般的に言って「敗北」のように見えたでしょう。みすぼらしい情けない死に見えたことでしょう。「ただ子どものように素直に信じるだけ」という信仰は、きっと愚かなバカげたものに思われたでしょう。

なぜなら、この世は、学歴こそ偉大なものだ、高収入こそ偉い人の証しだなどと考えるからです。どれだけたくさんの物を所有しているか。どれだけ多くのトロフィーを獲得したか。そういうことこそが優れていると考えるからです。

当時の人々もみなそう考えたのです。22節をご覧ください。

22節 ユダヤ人はしるしを要求し、ギリシヤ人は知恵を追求します。

目に見えるしるしを求めるユダヤ人。知恵を追求するギリシヤ人。

しかし、その点からするとキリストは真逆へと進まれました。持っていた物はどうなさったのでしょう? すべて手放されました。神としての権力も使わずに、無力な人間となられました。天使の軍勢を一瞬にして召集できるのに、それを一度も行使しませんでした。富も、名誉も、家も持たず・・・貧しい弱い者たちのところに行かれました

しまいには、聖なるお方なのに、まるで罪人のようにして十字架の死刑にまで自ら歩まれました。高くではなく、低く、低くなられました。 しかし、そうやって捨てられた石が、大切な礎の石、土台の石となられたのです。みすぼらしい、敗北に見えた十字架の死こそ、キリストを信じる者にとっては大勝利の証しであったのです。

人の賢さ、優秀さによっては解明できないようにされていることこそ、神の知恵によるのだというわけです。19節にこうあります。19節
19節 「わたしは知恵ある者の知恵を滅ぼし、悟りある者の悟りを消し去る。」と書いてあるからです。 

神様は高慢さ、自分の力を頼みとする事を嫌います。神様からの豊かな恩寵を忘れて、自分で何かを成したかのように勘違いすることをとても悲しまれます。ですから、人が自分の頭の良さや知識の深さなどで神様を知った!といようなことがないようになさったのです。賢さ、能力、お金、地位、そういう物に頼る人ほど神の国は遠のおいていくように神様はあらかじめ設計なさったのです。

21節 神の知恵により、この世は自分の知恵によって神を知ることがありませんでした。それゆえ神は、宣教のことばの愚かさを通して、信じる者を救うことにされたのです。 

 イエス様の周囲には、様々な弱さを抱えた者たち、立場の低い者たち、娼婦や取税人といった「罪人」と言われていた者たちが多く集まりました。そのような人たちの方が知識をひけらかす学者たちよりも、ずっと神の国に近いとイエス様は言われました。お金もない、権力もない、立場もない子どもたちの方が、ずっと神の国に近いと。

「恵み」とは、自分はまったく受ける資格のないどうしようもない人間だと思う者に、無条件に与えられるプレゼントです。自分の弱さ、至らなさを受け入れ神の恵みの力にすがる者こそ、その恵みによって強くも高くもしていただける一人一人なのです。

 

23節 しかし、私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えます。ユダヤ人にとってはつまずき、異邦人にとっては愚かなことですが、1:24 ユダヤ人であってもギリシヤ人であっても、召された者たちにとっては、神の力、神の知恵であるキリストです。

 私たちにとっては、キリストこそ神の力、神の知恵です。この世で、最高のものです。主イエス・キリストに比べれば、この世の富も名声もちりに等しいものです。キリストを知ったことこそ、最高の喜び、一番の誇りです。

だから、私たちはこの世の価値観と同じ土俵で伝えることはもうしません。お金さえあれば宣教がうまくいくと考えません。地位や名誉によってこそ福音を伝えられるのだとも思いません。高い能力を有し、何でも出来る人こそが最高の宣教師だとも思いません。

ただ私たちには十字架につけられたキリストだけがあれば十分です。

自分たちの自慢をする必要もありません。

錦織圭選手のコーチをされていたマイケル・チャン氏が熱心なクリスチャンであることは有名な話です。彼はイエス様を自分の救い主として心から信じるようになって、大きな変化を経験しました。

そして、テニスの4大大会と呼ばれる「全仏オープン」で17歳という最年少記録で優勝したのです。マイケル・チャン氏は、その時の表彰式でこう語ったそうです。

「主イエス・キリストに感謝します。イエス様なしでは、私は何者でもありません。」 

マイケル・チャン氏のような体の小さな選手が、テニスの4大大会で優勝することは、素人の私たちが考える以上に難しいそうです。そんな偉大な記録を打ち立てたら、自分を誇ってもおかしくありませんが、彼は「イエス様なしでは、私は何者でもありません」と言ったのです。17歳の若者が・・・です。

 このセリフは、人によっては愚かなセリフに見えるでしょう。もっと自分に自信を持て!神に頼るな!と。でも、彼はキリストこそが神の力、神の知恵であると知っていたのです。

30 しかし、あなたがたは神によってキリスト・イエスのうちにあります。キリストは、私たちにとって神からの知恵、すなわち、義と聖と贖いになられました。

31 「誇る者は主を誇れ」と書いてあるとおりになるためです。



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