東村山福音自由教会 ✞ Sunrise Chapel: エステル記3章7-15節「どの民族とも違っている神の民」
主が人の子らを、意味もなく、苦しめ悩ませることはない。(哀歌3:33)

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2025/07/09

エステル記3章7-15節「どの民族とも違っている神の民」

 *** 7/9(水)祈祷会 説教概略 ***

 イエス様は、あなたがたは「地の塩」ですと言われました。塩は決して塩気を失ってはなりません。塩味がしっかり効いて味に違いを現わし、腐敗防止の役目もあります。クリスチャンは、この世に属する他のどのような人々とも違っている必要があるのです。溶け込み過ぎて、何も変わらないならその存在意義は失われるでしょう。



 そして、その違いが尊敬を生むのです。使徒5:13に使徒の仲間に加わろうとしなかった人たちも、「彼らを尊敬していた」と語られています。他人の目を恐れてすぐに仲間に加わらない方々もいます。でも、その違いを見て尊敬しているのです。

 この塩気(違い)を失わずに歩みましょう。

 ペルシャの宰相の地位にいたハマンは、自分にひれ伏さないモルデカイに怒りを燃やしました。その怒りは、彼の同胞ユダヤ民族全体にまで殺意を持つほどでした。7節でくじを投げ、ユダヤ人虐殺の日取りを占い始めました。そして、8節で王に進言したのです。

8ハマンはクセルクセス王に言った。「王国のすべての州にいる諸民族の間に、散らされて離れ離れになっている一つの民族があります。彼らの法令はどの民族のものとも違っていて、王の法令を守っていません。彼らをそのままにさせておくことは、王のためになりません。 

 ハマンは「王のためだ」と偽ってこれを実行しようとします。善を装う悪意です。なお、ハマンには相当の力があったことが分かります。9節によれば、彼は銀一万タラントをユダヤ人撲滅計画のために提供すると言うのです。あとでユダヤ人から奪う計画でもあったでしょう。これは、現代の日本円に換算するなら数十億~数百臆円という金額のようです。王にとって大きな誘惑となり、簡単に釣られて承諾してしまいます。

 10-11節で、王は自分の指輪をハマンに渡し、お前の好きなようにするがよいと言いました。王は、抹殺される民族がどの民族かさえ尋ねず、ハマンの甘言に乗せられ任せてしまうのです。「この国は大丈夫か?」と心配になりますね。そして12節の最後に「それはクセルクセスの名で書かれ、王の指輪で印が押された」とあります。ハマンは王の指輪を借り、自由に印を押しています。もはや王の力を自分のものにしているのです。

この命令の内容は13節にあります。

13書簡は急使によって王のすべての州へ送られた。それには、第十二の月、すなわちアダルの月の十三日の一日のうちに、若い者も年寄りも、子どもも女も、すべてのユダヤ人を根絶やしにし、殺害し、滅ぼし、彼らの家財をかすめ奪えとあった。 

 こうして王が出した命令は変えることができないという不幸なルールがペルシャにはありました。王の命令は絶対なのです。それにもかかわらず、こんなに安易に大虐殺の命令が出されました。そして、この命令は国中を混乱に陥れてしまいました15節によると、酒を酌み交わす愚かな王と残虐なハマンの姿があります。しかし、その背後で「スサの都は混乱に陥っていた」と語られていますよね。少しも国のためになっていないのです。このような、国を愛さない王や宰相に治められている国と民はなんと不幸でしょうか「神の法令」ではなく、「人の罪深い法令」に生きるゆえの不幸です


 それにしても、この非常事態において、モルデカイの心境はいかなるものでしょうか。この3章では触れられていませんが、4章に入るとその悲しみの深さ、問題の深刻さがよく分かります。41節をちょっと覗いてみましょう。

4:1 モルデカイは、なされたすべてのことを知った。モルデカイは衣を引き裂き、粗布をまとい、灰をかぶり、大声で激しくわめき叫びながら都の真ん中に出て行った。 

 衣を引き裂く、粗布をまとう、灰をかぶる・・・いずれも悲しみ、嘆き、絶望を現わす表現です。さらには人目をはばかることなく、大声で激しく泣きわめいています。さらに、少し先に行き3節を見るとユダヤ人全体にも悲しみ、嘆きが広がっています。そして、モルデカイにとって最愛の娘、エステルにもこの知らせは当然届き、非常に痛み苦しみます(4)。モルデカイは、自分が罰せられる覚悟はあったでしょう。しかし、もしかすると、民族全体の滅びに自分が関わってしまったのではないかと思い、本当に気が動転し、あるいは自分を責めたのではないでしょうか。モルデカイは正しいことをしたはずでした。神のみこころを求めて、神様にのみひれ伏したのです。それゆえ「主よ、なぜですか」との思いにもなることもあり得たでしょう。もう少し上手に対応出来なかっただろうかとも思ったかも知れません。

 皆さんは、似たような経験があるでしょうか。主の前に正しいことをしたはず。それなのに、事態はかえって深刻に、より悪くなったように見える。あるのではないでしょうか。私自身も少なからず経験しています。みことばを愛のうちにまっすぐ伝えた。主に熱心に祈った。最善を願って行動したはず。でも、良い方向にいかない。かえって、「なぜ、そんなことに?」と思う事態さえ起こることもあります。

そんな時、私たちはどうしたら良いのでしょう。

とても興味深いことがあります。8節のハマンのことばです。滅ぼしたい相手を「ユダヤ人」と言わなかったハマン。彼はその代わりに、ユダヤ人の特徴をこう指摘しました。「彼らの法令はどの民族のものとも違っていて、王の法令を守っていません」と。

神の民の法は、他の民族まるで違うのです。どう違っていたのでしょう?彼らの法は人からではなく、神から出ていたという点ですこの民は、神のみ教え、神のルールだけに従う民です。しかも、8節には「散らされて離れ離れになって」もなお「一つの民族」であり続けている姿にも触れられています。この一致は神のみことばにある一致です。ハマンはこの民を恐れていたのです。神を信じるこの民の力を恐れて、滅ぼそうとしたのでしょう。神のみことばは生きていて、力があるのです。ですから、こうした危機的な状況の時にこそ、神の法、みことばに従う必要があるのです

そのようにする時、答えが見えて来ます。例えば、創世記5020に目を留めれば、人の悪しき謀略さえ、神は良い計画へと変えてくださると分かります。ハマンの残虐な悪しき謀略さえ、神は良きことの計らいとすることができるのです!モルデカイは深い悲しみに陥った。しかし、彼は信仰の人です。目の前の出来事がすべてではない。神のご計画にこそ目を向けるのです。事実、これらの出来事も神の御手によって大いなる益とされていきます。

私たちもそうでありたい。他のどの人々ともクリスチャンは違っているのはそこです。この世のどんな教えでもなく、神の教えに生きるのです。神は召した者のためには、すべてを働かせて益となさるのです。

 それゆえ、主キリストを信じる者に、絶望的な失敗等ありません
。失敗さえ「良きご計画」へと変えてくださる主がおられるからです!なんと幸いでしょう!なんと心強いのでしょう!苦しむモルデカイの未来には、神の大いなる喜びのみわざが既に備えられているのです!! 逆に、大きな失敗があるとするならば、それはキリストを見ないことです。ですから、私たちはどんな時でも主を求め続けましょう。

 目に見える景色は荒野、荒れ地に見えるでしょう。不毛な地です。しかし、新しいことがもう始まっている、「あなたがたは、それを知らないのか」と主は私たちに語り掛けるのです。そして、主は「必ず」荒野にさえ道を、荒地にさえ川を設けるのです。どんな時でも失望せず、主のみことばに信頼しましょう。私たちは、他のどの民族とも違った法令があるのです。神のみことばという最高の法令、最高のお約束です!!



引用元聖書
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