*** 7/2(水)祈祷会 説教概略 ***
私たちはクリスチャンです。実はクリスチャンとは自称ではなく、他の人々からそのように呼ばれて定着した名称です。使徒の時代に、キリストの弟子たちがいつでもイエス様を救い主(キリスト)と信じるだけでなく、「私の人生の主」として歩んだゆえです。ローマ皇帝を拝まず、ユダヤ人指導者たちにも屈せず、キリストだけを主として歩んだのです。もちろん、上の権威に敬意を払いながら、彼らのためにも祈りながらですが。
ただ、彼らはとことんキリストに生きました。それで人々は彼らを「クリスチャン」と呼ぼうじゃないか!と呼び始めたのです。それがクリスチャンという名の起源でした。エステル記の時代にも、主なる神様だけを礼拝する信仰者がいました。エステルの養父モルデカイです。
1節 これらの出来事の後、クセルクセス王はアガグ人ハメダタの子ハマンを重んじ、彼を昇進させて、その席を彼とともにいる首長たちのだれよりも上に置いた。
ここで、新しい人物が登場しています。アガグ人のハマンです。彼は凶悪な人間でありながら、王から重んじられ、誰よりも昇進しました。「宰相」と呼ばれる王の次の立場になったと思われます。彼の本質を見抜けない王の課題も浮き彫りになっています。
それにしても、このアガグ人ハマンは何者でしょう。「アガグ人」というのが重要なキーワードになります。1節の脚注にⅠサムエル記15章8節の記載があります。重要な関連性があります。それは、エステル記よりも500年以上前の出来事でした。イスラエルの最初の王サウルに、神様はアマレク人の王アガグを討伐し、聖絶せよと命令なさいました。それは、以前から告げられてきたアマレク人への神のさばきを、イスラエルの民を用いて神がなさるためでした。しかし、サウル王は神の命令に従わなかったのです。しかも、彼は自分の欲や考えを第一にし、従わず、アガグを生かしたままにしました。
それゆえに、Ⅰサムエル15章11節で、主は言われました。「わたしはサウルを王に任じたことを悔やむ」と。すべてをご存知の主は、アガグをさばかないことが将来のイスラエルを苦しめることになるとご存知でした。サウル王の不信仰ゆえに、エステルの時代に、アガグの子孫ハマンによってユダヤ人が危機的な状況になってしまったのです。人には見えないことが、神様には見えているのだと、改めて教えられます。
2節にこうあります。
2節 それで、王の門のところにいる王の家来たちはみな、ハマンに対して膝をかがめてひれ伏した。王が彼についてこのように命じたからである。しかし、モルデカイは膝もかがめず、ひれ伏そうともしなかった。
ハマンは、王の命令を取り付け、そのすべて家来に膝をかがめてひれ伏すことを求めました。額を地面につけるほどでしょう。彼が権力を愛し非常に横暴な人物であることが伺えます。しかし、モルデカイはひれ伏しませんでした。彼がプライドの高い人物だったからでしょうか。そうではないのです。彼の人格についてこの書から分かるのは、品性があり、誠実で忠実な人物だということです。2章の最後で見たように、彼は王の暗殺計画を知るといち早く王に知らせ、その命を守りました。王とペルシャに対して敬意を払っているのです。それでいて手柄を求めた描写もありません。主の前に正しいことをしたというだけだったのでしょう。横暴なハマンとは対照的です。
3-4節前半でも、このような描写があります。
3節 王の門のところにいる王の家来たちは、モルデカイに「あなたはなぜ、王の命令に背くのか」と言った。
4節 彼らは毎日そう言ったが、モルデカイは耳を貸そうとしなかった。
モルデカイは、圧力を受けてもなおひれ伏しませんでした。それは一体なぜなのでしょう。一つには「ひれ伏す」という行為が、偶像礼拝になりかねないと考えたからでしょう。実際、ハマンは絶対服従のようなものを求め、多く者がその権力に怯えて、ひれ伏していたと考えられます。モルデカイがひれ伏す相手は神様だけだったのです。ただ、理由はそれだけではなかったでしょう。先ほど触れたように、ハマンは、アマレク人の王アガグの子孫だと語られていました。神様は彼らの罪深い歩みに対して、例えば出エジ17:14でこう言われていました。「わたしはアマレクの記憶を天の下から完全に消し去る。」と。彼らの罪深さゆえの神のさばきの宣告です。せめてサウル王の時代に、これは全うされるべきでした。しかし、サウル王は主のご命令を無視しましたよね。ゆえに、彼らは今もなお罪深い歩みをし、神の民を滅ぼそうと立ちふさがっているのです。先祖が神に従わなかった。その不信仰の罪の結果が、今、目の前に続いており、神ではなく人間をあがめることを強いられているのです。
私たちの心の中にも追い払うべき罪の根があります。そして「これぐらいはいいだろう」と、神の御手が及ばない土地を残し、野放し続ける。すると、それが後に大きく成長し、私たちに大打撃を与えてしまうということがあるのです。私たちの心の領土全体を主のものにしていただく必要があるのではないでしょうか。
モルデカイは、アマレク人に対する神様のご命令を知っていたでしょう。サウル王の問題も知っていたことでしょう。それゆえに、彼の前にひれ伏すわけにいかなかったのではないでしょうか。
今ここで、モルデカイは信仰の戦いをしているのです。ですから、モルデカイの態度の理由は明確です。神のみこころに従うゆえでした。その後、4~5節にあるように、モルデカイの態度をハマンに告げる者があり、ハマンは憤りに満たされました。モルデカイは自分がユダヤ人であることを明かしていたので、やがて、ハマンの怒りの矛先はユダヤ人全体に及ぶことになっていくのです。
6節 しかし、ハマンはモルデカイ一人を手にかけるだけでは満足しなかった。モルデカイの民族のことが、ハマンに知らされていたのである。それでハマンは、クセルクセスの王国中のすべてのユダヤ人、すなわちモルデカイの民族を根絶やしにしようとした。
ハマンの底意地の悪さ、残虐性が感じられる一節です。主が、アマレクの記憶を天の下から消し去ると宣言された理由が、こうした罪深さに現れているようにも思えます。
そして500年前のサウル王は、まさか自分の不信仰が、子孫たちにこんなにも危険な状況をもたらすなど夢にも思わなかったことでしょう。人には見えていないことが、神には見えているのです。だから、盲目な私たちは主の声に聴いて歩みたいのです。先のことが分からないのですから。従わないことが、自分だけでなく家族や子孫に罪の影響を及ぼすのは悲しいことです。でも、大いなる希望があります。なぜなら、逆に、私たちが主に従うなら、子どもたちやその子孫にまで恵みと祝福がもたらすとの約束があるからです!
私たち福音自由教会の「自由」とは、いかなる国家的・人間的な支配からも自由な信仰を持ち続けることを意味します。神のみこころにのみ従う自由です。モルデカイの信仰です。神よりこの世に従うようになれば、信仰は形式化し、堕落するからです。人から何を言われようとモルデカイは揺るがされませんでした。彼はただ、神のみこころに従いました。形だけでも合わせて、事なきを得る道もあったでしょう。それが一番楽でしょう。しかし、モルデカイは、この世が与える一時の安全ではなく、神様が与えてくださる永遠の御国を見ていたのです。いや、神に喜ばれたすべての信仰者の共通点がこれです。
私たちはどうでしょう。神の声よりも人の声、世の声になんと影響を受けやすい事でしょうか。主だけがあなたの道を永遠に確かにされます。ただ神にのみひれ伏する者となりましょう。
引用元聖書
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