東村山福音自由教会 ✞ Sunrise Chapel: エレミヤ書3章1-25節「背信を癒される神」
主が人の子らを、意味もなく、苦しめ悩ませることはない。(哀歌3:33)

最新情報

2025/06/10

エレミヤ書3章1-25節「背信を癒される神」

*** 6/8(日)主日礼拝 説教概略 ***

 「神様がくださる恵みや守りは欲しい。でも、神様に従い献身的に歩むのはお断りだ

 そう思うのが「私たちの肉の思いの本音」かも知れません。
 「ご利益信仰」というものがあるように、人の肉の思いは、献身を求める神ではなく、自分に益をもたらす便利な神を欲しているのです。
 

 ただ、それは自分中心の神観でしょう。自分に都合の良い神の恩寵のみを欲しているのです。そして、こうした価値観が世界にはびこっているので、この世界は愛が冷め、孤独になり、荒んだ世界になっているのです。

 神様は、私たちの肉の欲が、このように自己中心的で愛から離れていくものであることをご存知です。その悲惨な結果もご存知なのです。

 今日のみことばでは、旧約時代の神の民が、まさにそのような「反面教師」として語られています。私たちは、自分だけの繁栄という偽りの神に騙されないようにしましょう。都合よく神様を利用するのではなく、繁栄の奴隷となりやすい自分を認め、神様がくださる最善を感謝して受ける者となりましょう。

 

1.自分勝手な罪人たち(神の恵みは欲しい、だが神に従いたくない) 


 1-5節では、神を捨てたイスラエルの背信について指摘されています。人々は繰り返し偶像礼拝や様々な悪を行ったのです。2節にあるように、目を上げて裸の丘を見ると、偶像礼拝とそれに伴う淫行・悪行があふれていたと分かります。しかも、その結果、恵みの雨を得られない痛みをも通ったのでした。

3節 それで大雨はとどめられ、後の雨はなかった。それでも、あなたは遊女の額をして、恥じることを拒んでいる。 

 これらの罪に対して、収穫期に必要な「後の雨」を降らせないという神のさばきがあったのです。ところが、3節後半にあるように、尚も彼らは過ちを恥じることもせず、繰り返していたのです。実にこれに対しても、人は反論したがるのです。主は言われます。45節前半にかけて、神様の目線から語られています。

4節 今でもあなたは、わたしにこう呼びかけているではないか。「父よ、あなたは私の若いころの恋人です。
5節 いつまでも恨みを抱かれるのですか。永久に持ち続けるのですか」と。 

 勝手な言い分です。「私たちはかつての恋人じゃないですか!恨みを忘れ、仲良くしましょうよ!神様!」といった具合でしょうか・・・。心からの悔い改めがないのです。ですので、5節最後に神様の指摘がこう続きます。

なんと、あなたはこう言っていながら、あらん限りの悪を行っている。 

 口先だけで主を求め、裏では心と体であらん限りの悪を行っているというのです。 

 心を探られます。主の助け、奇跡、癒しは欲しくて必死に求めます。しかし、主の正しい良い教えは歓迎しないのです。すべてに寛容で、何も文句を言わずに、ただお金や助けや守りだけをくれればいい! そういう神でいて欲しいのです。

 私は、この説教準備にとても苦戦していました(毎週ですが 笑)。それで神様に聖霊の助けを必死に祈り求めました。

 すると、主から問われたのです。「あなたは、わたしのことばを本当に求めているのか?わたしを知りたくて、わたしを求めているのか。それとも、人から『良い説教だ』と言われるために必要だから、わたしの力と知恵を求めているのか」と。

 主は人のこうした態度に胸を痛めながら、イスラエルとの交わりの回復を願い、待ち続けているのです。仮に子が親に対して、「お母さんの作るご飯も洗濯や掃除も必要です!お父さんからはお小遣いだけは必須です。でも、あなたたちとの会話や交わりは正直いりません。好きにさせてください」と言うなら、どうでしょう。こんなに悲しい親子関係はないでしょう。

 友人関係においても、「友よ、君の能力と名声と人脈は求めるが、君との友情など少しも求めていないのだよ」と言う時、それは友だちではないでしょう。

 そこに愛はないのです。主は、この自分勝手さに私たちが気づいて、主のもとに立ち返るよう言われるのです。

 

2.咎を認めてわたしのもとに帰れ  


 6-13節では、神様はある「期待」を抱いていたことを語られます。北のイスラエル王国が罪ゆえに国を失った時です。その末路を見たユダは、「あのようには、なるまい!」と悔い改めるのではないかと期待したのです。

 しかし、7-8節にあるように、帰って来ないどころか、なんとユダも同じ過ちを犯しました。「ユダよ、お前もか!」と突っ込みたくなる状況です。なので、11節で、主はこう言われています。主は私に言われた。「背信の女イスラエルは、裏切る女ユダよりも正しかった。 もはや妹ユダが悪すぎるので、姉イスラエルが正しく見えるほどだと。

 それで12節にあるように、エレミヤに、行って次のことばを北の方に叫べと言われます。13節の最初の一文までを読みます。「背信の女イスラエルよ、帰れ。─主のことば─ わたしはあなたがたに顔を伏せはしない。わたしは恵み深いから。 ─主のことば─ わたしは、いつまでも恨みはしない。ただ、あなたはあなたの咎を認めよ。」 

 主のあわれみのことばです。ユダは今が悔い改めるべき時なので、ここではあえてユダには厳しくし、北のイスラエルには赦しを語ります。

 それでも必要なことが一つあります。13節の最初にありました。「あなたはあなたの咎を認めよ」ということです。「あなたはあなたの咎を認めよ」と、主は語られるのです。他の人ではない。あなたの罪や咎を認めよと。

 私は、若い頃、父を愛せず赦せずにいました。彼の罪ゆえに家族が傷つき、その上なお威張る姿に幻滅していたのです。しかし、自分が社会人となり、夫になり、父になり、さらに年を重ねると・・・自分自身の罪深さ、愚かさを神様から突き付けられました。父をさばける程、私は正しくなかったのです。

 むしろ「さばいてはならない」と言い訳できないほど明確に命じられているのに、父をさばいてきた大罪を全く無視して、自分を正しいとしてきた。自分を恥じて、主の前に悔い改めました。

 すると、不思議と父への怒りや憎しみから解放され、むしろ弱い父へのあわれみが生まれました。むしろ、神を信じると言いながら、神のお心から離れて、背信の罪を犯していたのは私自身でした。

 主は絶えず言われます。他の誰かの罪・咎ではない。
「あなたは、あなたの罪・咎を認めよ」と。

 

3.背信を癒される神  


 14で主は「背信の子らよ、立ち返れ。わたしがあなたの夫だから」と親しく呼びかけます。過ちを認め立ち返るならば、神様はどんな罪をも赦し、その罪を二度と思い出さない方です。「悔い改めよ」との命令で終わらず、赦しと回復を備えておられるのです。15節から未来の救いと回復が語られています。

15  また、あなたがたに、わたしの心にかなう牧者たちを与える。彼らは知識と判断力をもってあなたがたを育てるだろう。 

 現在のユダの腐敗した牧者たちではありません。将来、みこころにかなう牧者をキリストがお立てになるのです。そして、その牧者の頂点におられるのがイエス・キリストです。

 16節では主の契約の箱について語られなくなるとあります。それは、神ご自身であるキリストが来られるからです。そして、17-18節です。

17  そのとき、エルサレムは主の御座と呼ばれ、万国の民はこの御座、主の名のあるエルサレムに集められ、彼らは二度と頑なな悪い心のままに歩むことはない。
18節 その日、ユダの家はイスラエルの家に加わり、彼らはともどもに、北の国から、わたしが彼らの先祖に受け継がせた地に帰って来る。 

 これらはキリストによって実現される救いです。その時には、ユダもイスラエルもありません。裏切り者であってさえ愛され、赦されるのです。また、19節には神様が与えようとしていた祝福が語られています。「わたしは思っていた。どのようにして、あなたを息子たちの中に入れ、あなたに慕わしい地を与えようかと。国々のうちで最も麗しいゆずりの地を。また、あなたがわたしを父と呼び、わたしに従って、もう離れないと思っていた。」 これもまた、キリストにあって成就していきます。人にはできなかった。ゆえに神様が御子を十字架にささげられたのです。「あなたがわたしを父と呼び、わたしに従って、もう離れない」となるために。主は愛する子であるあなたに平安に満ちた将来を与えたいのです。


 そして、この愛から離れた子たちが、どれほど不幸で傷ついているか、主は知って悲しんでおられます21節の中で、一つの声が裸の丘で聞こえるとあります。その声は「イスラエルの子らの哀願の泣き声」であるとわかります。好き勝手なことをしてきたはずです。望んだままに歩んだはずなのです。それなのに本当の喜びも平安もないのです。たましいが「助けてください」と叫んでいるのです。「これではダメだ」と分かっていても、自力で抜け出せない人の弱さです。惨めな姿です。まさに私の父はそうでした。いや、私もそうなのです。死のからだから抜け出せないので、たましいが「助けてください」と叫んでいる

 主にはその声が聞こえるのです。私たちも上辺ではなく、人々の「助けて」というたましいの叫びを聞く者でありたいのです。

 それで主は、22節で言われます。背信の子らよ、立ち返れ。わたしがあなたがたの背信を癒やそう。神様は背きの結果、傷だらけになっている子どもたちを見て、深くあわれみ、その背信を癒すと言われます。「背信を癒す」とはどういうことでしょう。この「癒す」ということばは、肉体の癒やしに使われるだけでなく、実は精神的な癒しや、人間関係の回復にも使われるのです。ですから、「背信を癒す」とは、神様との交わりの回復であり、傷ついたたましいの癒やしなのです。

 特に注目したいのは、イザヤ535で同じ言葉が用いられていることです。イザヤ書53は、キリストの受難の預言です。「彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、その打ち傷のゆえに、私たちは癒された」と。この癒しは肉体の癒やしではありません。神様との霊的な交わりの回復、霊とたましいの癒やしですよね。

 ですから、22節後半から25節にあるように、この神の愛に応答する告白をして参りたい。2425節では、過ちを悔いて恥じ入る告白があります。それは、3節で、「恥じることを拒んでいる」との指摘への悔い改めです。そしてまた、13節の最初の一文「ただ、あなたはあなたの咎を認めよ」との主のおことばへの応答ではないでしょうか。 

 神様は何も私たちに悪くしていないのに、私たちは背いているのです。その奇跡や恵みだけは求め続け、主ご自身を欲しない姿を恥じ入る必要があるのではないでしょうか。

 それにも関わらず、神様が犠牲を払って関係を修復し、招いてくださる霊的な死に対しては、御子イエス様のいのちの犠牲=死が必要でしたが、惜しみなく与えてくださったのです。神様の深い愛に感謝します。

 そして主は、ご自分から離れていたゆえに受けてきた傷をも癒さしてくださるのです。 
 
主はあなたに語っておられます。
あなたの咎を認め、わたしに帰れ。わたしがあなたの背信を癒そう」 


引用元聖書
聖書 新改訳2017©2017 新日本聖書刊行会

教会へのメールはこちらから

名前

メール *

メッセージ *