東村山福音自由教会 ✞ Sunrise Chapel: ヘブル5章1-3節「弱さを持つ大祭司」
主が人の子らを、意味もなく、苦しめ悩ませることはない。(哀歌3:33)

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2025/07/28

ヘブル5章1-3節「弱さを持つ大祭司」

*** 7/27(日)主日礼拝 説教概略 ***

 神学校の「牧会学」の授業で、あるエッセイレポートの課題が出ました。テーマは、「どんな牧師になりたいか」ではなく、「どんな牧師に牧会(ケア)されたいか」というテーマでした。「どんな牧師になりたいか」であれば、「カッコ良くてトークがうまい牧師」とか、「威厳があって尊敬される牧師」などをイメージするかも知れません。でも、「自分が牧会されたい牧師」と言う場合は、それとは違いました。


 カッコ良さは不要。トークのうまさもさほど必要ではない。威厳も別に・・・。それよりも話しやすく、理解のある方、優しく励ましてくださる牧師でした。これは、他の教師、指導者、上司、社長、医者、あらゆる職業に当てはまる事かも知れません。なりたいその職業のイメージと、どういう方に導かれたいのか、診てもらいたいのかは異なるのではないでしょうか。

 さて、大祭司という働きも、「威厳があって、きよくて立派で、信仰深い」等を、当時の人々が理想の大祭司像と考えたでしょう。けれど、聖書がここで語っていることは、弱さを持つ大祭司であることに意味があるということです。その弱さから、愛と思いやりを人は学んでいくからです。

 英国の著名な説教者スポルジョンは言っています。「人々は愛のない指導者のもとには長く留まらない。教会学校の幼い子たちで、思いやりのない教師の言うことを長くは聞かないだろう」と。教えが立派でも、愛や思いやりのないものは響かないのです。

 もし、あなたが、人々を愛に満ちた神様のもとに導きたいといくらかでも願うのならば、弱さを持っていることは、大切な資質であるということです。いや、必要不可欠な資質です。この世はそれを悪いことのように思うでしょう。弱さをできるだけなくしたいのです。でも、そうではない。その弱さが人を思いやり、優しく神のもとに導く賜物とされるのです。キリストにあってそうなのです。ご一緒にみことばに教えられましょう。

 

1.弱さを持つ大祭司  


1節をご覧ください。

1 大祭司はみな、人々の中から選ばれ、人々のために神に仕えるように、すなわち、ささげ物といけにえを罪のために献げるように、任命されています。 

 ここにありますように、大祭司は人間から選ばれました。天使からではありません。そのため、イエス様でさえも、神であることを後にして、天使よりも低くされて人間となられたのでした。なぜなら、大祭司は人々の弱さや痛みを理解した上で、彼らのために神様に助けを祈り求めるのだからです。

 2節を読むと、大祭司が弱さを身にまとまっていることが欠点ではなく、必要なこと、益となることとして語られていることがわかります。 

2 大祭司は自分自身も弱さを身にまとっているので、無知で迷っている人々に優しく接することができます。 

 大祭司は特に、預言者以上に人の痛みをよく理解することが求められたのです。預言者も人の痛みがわかるエレミヤのような人がいます。でも、預言者の 本来の使命は、神様のみことばを預かり、そのまま語ることです。その時に人の顔を恐れてはならないとまで命じられていました。でも、大祭司は、彼らの痛みに寄り添い、悩みを聞き、その罪のために一緒になって祈ります

 そして、彼ら皆の罪の赦しのために動物の犠牲をささげていくのです。様々な相談が彼のもとに来ました。罪の告白を聞くことも多かったでしょう。ですから、一緒に胸を痛めながら神様に祈る者でなければなりません。

 その際に、大祭司が弱さも何も理解できない、完全無欠の厳しい人だったらどうでしょうか?ろくに話も聞かずに、正論をバンバンぶつけてさばかれる。どうでしょう?皆さんなら、そのような大祭司のもとに相談に行きたいでしょうか。絶対とまでは言いませんが、まず行きたくないですよね。話を途中で遮ったり、否定したりしない方。最後までじっくり聴いて下さる方。痛みに寄り添い励ましてくださる方。そういう方に話を聞いて欲しいでしょう。神様はそのために、天使の大祭司ではなく、普通の弱さを知る人間の大祭司を立てました。

この2節では、「無知で迷っている人々に優しく接することができる」と語られていますよね。それは、大祭司が弱さを身にまとっていることによって、可能になることでした。では、「優しく接する」とは、どういうことなのでしょうか。このことばを詳しく調べてみると、意外にも「感情を適切に扱う」といった意味があるようです。私たちの「優しい」のイメージは、情緒豊かなイメージがあります。でも、ここでは感情に依存した優しさではないということです。それは極端な同情心で寛大になり過ぎもせず、また、極端な正義感で怒りに燃えてさばいたりもしない。言い換えると、神様が望んでおられるように、適切に感情をコントロールして、穏やかに愛を持って接することです。とても難しいですね。でも、まさに、私たちが相手に持って欲しい優しさはこれなのではないでしょうか。

 

2.その優しさはどこから来るのか  

 その優しさは、どこから生まれるのでしょう。どうやって練られるのでしょうか。それは、自分自身の弱さを認める歩みから生まれます2節で、「自分自身も弱さを身にまとっている」とありました。「身にまとう」ですから、たまに埃の被った「弱さ」を引き出しから出して来るのではありません。いつも、身につけているのです。皆、本当はそうですよね。強がっているだけで。私たちは自分の罪深さに涙し、自分の愛のなさに幻滅し、誘惑に対してあまりにも脆弱な自分を嘆く。何度も悔い改めながら、少しずつ練られて行くのです。このことから優しさが生まれます。

 この優しさについて、別の資料では、「他の人の誤り、欠点、罪に対して、過度に動揺せず穏やかに耐える性質とありました。「なぜ、そんなことをしたのか!」と感情的になる私たちです。でも、真の優しさは、「自分にも同じ弱さがあるかも知れない」と冷静に自身の心を探りその方の弱さを自分の弱さのように認めていくのです。そうして落ち着いて穏やかに寄り添うものではないでしょうか。ただ、この姿勢は大祭司だけに必要なのでしょうか。すべてのキリスト者に必要なことではないでしょうか。

新約時代、私たちはイエス様から自分がして欲しいことを、隣人にしなさいと教えられていますよね。しかも、第一ペテロ2章では、すべてのキリスト者が、「聖なる祭司」「王である祭司」と言われています。今の時代の大祭司はイエス様ですが、私たちもそのイエス様のそばで、小さな祭司として、無知で迷っている方々に優しく接し、主のもとに導く者でありたいのです。それならば、様々な試練や病もまた、私たちを育てる学びと訓練の良い機会ではないでしょうか。それを通して、迷っている方々の隣人となり、一緒に主イエス様を見上げていくのです。

私たちの通った様々な悲しみ痛み、弱さが、人々を笑顔にするために用いられるのです。事実、キリストを見つめれば、むしろ自ら弱く、貧しくなられたことに気づきます。私たちもこの弱さや欠けを主にあって誇りましょう。そして、罪さえも、主イエス様の贖いによって、十字架の愛によって覆っていただいた者です。赦された者です。だからこそ、人をさばく者ではなく、人を赦す者。そして、真の赦しのある十字架を指し示す者となりませんか。弱さを持つあなただからこそ、弱さを抱える人々のために、代わって祈ることができる。そして、まことの大祭司イエス様のもとへと、導くことができるのではないでしょうか。

 

3.大祭司キリスト 

 ここで、まことの大祭司イエス様に目を向けさせる重要な3節があります。まことの大祭司と、それ以外の大祭司の決定的な違いがここで明確にされているのです。

3 また、その弱さのゆえに、民のためだけでなく、自分のためにも、罪のゆえにささげ物を献げなければなりません。 

 普通の大司祭は罪人です。ですから、ここにあるように自分の罪のささげ物もしなければなりませんでした。それでさえ完全な赦しに至りませんでした。ですから、人々の弱さに同情することはできますが、彼らを罪から救うことはできないのです。この点が重要です。

 私たちの弱さは用いられますが、その弱さ自体は人を救えないのです。でも、弱さを持つ私たちが、その弱さを覆って下さる大祭司イエス様を証しするなら、そこに真の救いがあるのです。偉大な大祭司、まことの大祭司キリストは、彼らに同情し優しく接することができるだけでありませんよね。彼らをそこから救い出すことができる方です。

 なぜなら、一つも罪を犯されていないからです。

 直前の415の中ほどに「罪は犯しませんでしたが」との断りがありました。この3節でも、一般の祭司は「自分のためにも、罪のゆえにささげ物を献げなければなりません」とあります。しかし、罪なき神の子イエス様は、自分の罪のために犠牲をささげる必要のない完全な大祭司イエス様なのです。だからこそ、人を罪の滅びから救い出す身代わりの死が成り立ったのです。ご自分を、聖なる完全な罪のための「いけにえ」として、ただ一度ささげることで、すべての人の、あらゆる罪が赦されました! 

その意味では、罪のための犠牲をささげる大祭司の奉仕としても完璧、完全です。私たちにはこの大祭司がいらっしゃるので、この方の横に立って、人々のために神様との間に立って仲介し、またとりなしの祈りをささげられるのです。

 

 今日、主は私たちに語っておられます。「あなたに弱さがあることは悪いことではない。わたしはあなたのその弱さの中に働くからだ。あなたはその弱さから学び、無知で迷える人に優しくし、まことの大祭司イエスのもとに導きなさい。」と。

 弱さを通して、愛と思いやりを学びましょう。そして、人のすべての罪を背負って十字架にその身をささげたイエス様に、その愛と思いやりのうちに人々を導こうではありませんか。


引用元聖書
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