*** 7/6(日)主日礼拝 説教概略 ***
心の奥にあるものを見透かされている。そんな気がすると、「怖い」と感じることはないでしょうか。イエス様の一番弟子となったペテロも、「イエス様はすべてを見抜いておられるのでは?」と思った時に、「主よ、私のような者から離れてください」と恐れましたよね。
今日のみことばの直前、13節にもこうあります。神の御前にあらわでない被造物はありません。神の目にはすべてが裸であり、さらけ出されています。この神に対して、私たちは申し開きをするのです。 正直、ちょっと「怖いな」と思いませんか。
ではなぜ、怖いのでしょうか? それは、私たちの心に罪があるからです。人には見られたくない闇がある。そうではないでしょうか。
でも、本日のみことばを知るならば、安心できます。御子イエス様は、私たちの弱さに同情できるお方です。イエス様ご自身が様々な試みに遭われたので、あなたの苦しみをよく理解してくださいます。この方が私たちの大祭司です。私たちの罪を赦し、父なる神様の恵みの座へと導いてくださるのです。ですから、安心と確信をもって神の恵みの座に飛び込んでいきましょう。
1.偉大な大祭司イエス
14節 さて、私たちには、もろもろの天を通られた、神の子イエスという偉大な大祭司がおられるのですから、信仰の告白を堅く保とうではありませんか。
「さて」と始まりますが、原語では「ウーン」という接続詞。ウーンと悩んでしまいます。というのは、この語には「それゆえ」という意味もあり、「さて」よりも「それゆえ」の方が相応しいのではと個人的には思うからです。5章に向かって新しい話題が展開されていく。それは「さて」で良いのですが、今読んだ13節とのつながりもあるので、「それゆえ」の方が相応しいように思います。すべてを見ている神様がおられ、私たちの罪が露にされる。「それゆえ」あわれみ深い大祭司イエス様が必要なのです。この大祭司イエス様がおられるので、私たちは信仰の告白を堅く保てるのです。
では、イエス様はどれほど偉大な大祭司なのでしょう。「もろもろの天を通られた」とあります。これは神様の「天の御座」があらゆる天の上にあることを強調する表現です。つまり、イエス様は最も高い神の右の座に着かれた、圧倒的に偉大な大祭司だということです。その点は、他のどの祭司とも違っていました。しかし、イエス様が偉大過ぎるゆえに、かえって私たちは、自分の弱さを理解していただけないと思ってしまうのではないでしょうか。
ですから15節に目を留めましょう。
15節 私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯しませんでしたが、すべての点において、私たちと同じように試みにあわれたのです。
ホッとし、慰められるみことばです。イエス様は、私たちの弱さに同情できるお方。私たちと同じように様々な誘惑、試練を通り、苦しんだ方なのです。
それは、2章17-18節でも既に語られていたことです。
2章17節 したがって、神に関わる事柄について、あわれみ深い、忠実な大祭司となるために、イエスはすべての点で兄弟たちと同じようにならなければなりませんでした。それで民の罪の宥めがなされたのです。
2章18節 イエスは、自ら試みを受けて苦しまれたからこそ、試みられている者たちを助けることができるのです。
17節に「すべての点で兄弟たちと同じようにならなければ」とあります。今日のみことばでも、すべての点で、私たちと同じように・・・とありました。ここに、神様の深いご愛を感じます。そもそも、全く異なる神と人です。造ったお方と造られた者です。天と地以上の差があります。
それにも関わらず、神としての栄光をも脇に置き、「すべての点で私たちと同じようになること」を、主は選ばれたのです。人にとって、あわれみ深い大祭司となるため。イエス様は自ら無防備になりました。とても傷つけられ、苦しめられました。生まれた時から居場所もない方です。生まれたのは家畜小屋、飼葉桶。人が住む場所でさえない。多くの迫害、苦しみを通りました。正しい方なのに、極悪人の刑罰で殺されました。傷つく者たちを救うため。キリストの痛みの生涯は、神の愛の証しです。
4章に戻ります。15節にある「同情する」とは、現代の「sympathyシンパシー」に該当することばです。深く共感することです。弱さを通った人だからこそ、その方のことばと優しさが心に響くということがあります。イエス様は人の弱さや痛みに対して、敏感に深く共感してくださる方です。罪こそ一つも犯さなかった。けれども、私たちと同じように、多くの試みにあわれたのです。
それゆえ、15節冒頭にあるように、著者はイエス様「私たちの大祭司」と呼ぶのです。どこか遠い人々の大祭司ではありません。「私たちの大祭司」です。「あなたの大祭司」です。痛みに寄り添ってともに涙し、苦しみの時にともに苦しんで、神にとりなしてくださるのです。
不思議な神の救いのみわざだと思いませんか? 神様が完全無欠の力で悪を打倒して救うのではないのです。ご自分から弱さをまとい、傷つけられ、虐げられ、涙し、うめき、そうして私たちを慰め主なる父のもとへ導く主イエス様です。そこに救いがあるのです。
2.大胆に恵み御座に
16節 ですから私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、折にかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。
ここでは旧約聖書の幕屋・神殿の造りを背景としています。スライドを参照しながら、少しお話しましょう。
今日語られている、「恵みの御座」とは、この図で言えば「至聖所」のところを指します。そこには、かつて契約の箱が安置されました。神の臨在の間とされていました。罪ある人間がそのままで神の御前に行けば、罪ゆえに滅びます。それで、普段は仕切りの垂れ幕によって厳重に封鎖されました。圧倒的な聖さに満ちた御座です。ですから、大祭司でさえも年に一度の決められた日にだけ入れました。それも動物の血を携え、慎重な手続きのもとで。もちろん、大祭司以外の人は、年に一度すら入れません。
しかし、今や、キリストという最高の大祭司のおかげで、この仕切りの垂れ幕が完全に開かれたのです。その象徴的な出来事が、イエス様が十字架で死なれた時のことです。マルコの福音書15:38にこうあります。「すると、神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂けた。」と。イエス様が息を引き取られた時、神殿の幕が上から下まで引き裂かれたのです。この神殿の幕が、先ほどの、至聖所と聖所を仕切る垂れ幕でした。ゆえに、いつでも誰でもキリストによって、この聖なる神の御座に大胆に飛び込めるようになったのです。この方が十字架によって御父への架け橋を作ってくださいました。
旧約時代に求められた「慎重さ」は、今やまことの大祭司キリストによって、恵みの座への「大胆さ」に変えられました。旧約聖書を良く知るヘブル人にとっては、本当に驚くべき恵みであったことでしょう。しかも、ここにある「大胆に(パレーシア)」ということばは、「恐れず確信を持って行動できる自由」を意味します。何にも遠慮することなく堂々と、いつでも神様の恵みの御座に入って行けるのです。恐れなくていいのです。心配せず、大胆に神様の懐に飛び込みませんか。そして、ぜひ神様のあわれみと恵みの中で、折にかなった助けを受けましょう! この恵みあふれる御座で、深い神様のお取り扱いを受けていきたいのです。
3.恵み御座で主に取り扱われる時
するとどうなるでしょう??恵みの座で主との親しい交わりのうちに慰められ、力をいただく時、どうなるのでしょう。その人は変えられていきます。あなたの通った痛みや弱さもまた、キリストは益としてくださるのです。
Ⅱコリント1章4節 神は、どのような苦しみのときにも、私たちを慰めてくださいます。それで私たちも、自分たちが神から受ける慰めによって、あらゆる苦しみの中にある人たちを慰めることができます。
あなたの苦しみや痛みの経験は用いられます。キリストの弱さが私たちを癒し、神との交わりに近づけたように!! 米国のキリスト教作家・牧師夫人のケイ・ウォーレンという方。彼女の息子さんは長年精神疾患で苦しみ、自ら命を絶ちました。母親であるケイさんの悲しみと喪失感は想像を絶します。その時、彼女は自分の信仰が灰のようになったと言います。ただ、それでも神様しか行くところはなかったと。彼女は主のあわれみによって、少しずつ慰められながら、「新しい使命」に導かれました。それは、同じように精神疾患や自死の問題で苦しむファミリーへの支援活動でした。彼女はこう言っています。「神は、決して痛みを無駄にはされない。」と。そして、こうも言います。これらの最も深い痛みの経験から、本物の神の働きが生まれるのだと。
あなたの通った痛みや悲しみの経験を、主は用いてご自分のもとに引き寄せてくださいます。あなたを他の人を慰め励ます者とするのです。
先週のジェフ先生の「弱さを自慢する」とのメッセージが私の心に響きました。先生ご自身が、またご家族が弱さの中で歩んでいると知っているので、そのことばが真実でした。お子さんの大きな病のことを祈祷会でも祈っています。次男さんがインスリンを自分で分泌できないので、日に何回か注射しないといけない。それは夜中にも。ご両親は夜中に本人が起きたか心配で、眠りが浅くなることがあると。
先日長男の結婚披露宴の最後に、実は涙をこらえていました。理由は、長男が生まれて4カ月川崎病になった時のこと、小学生の時に喘息の発作で死にかけた時の事を思い出してしまったからです。ここまで無事に育ってくれて良かった。主よ、感謝しますとの思いでした。でも、この弱さは彼にとって大切な思い出となったのだと思います。親の愛、家族の愛、教会の皆さんの愛を学ぶ機会でした。その弱さの破れ口は、神の愛の光が射しこむ場所です。
あなたが神の愛の光で輝くために、弱さに優しく共感してくださる私たちの大祭司をより頼みましょう。この方によって、本物の癒しと慰めのある神の恵みの御座にともに近づきましょう。
引用元聖書
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