*** 4/27(日)主日礼拝 説教概略 ***
新しい年度が始まり、GWに差し掛かるこの時、体調を崩している方が多いと感じますし、よく耳にすることばは「疲れた」ということばです。随分耳にしているなと思ったら、妻からも自分の口からもよく出ている。これは良くないなと示され、今日は三分の学びはお休みにしました。
日本という国は特に、休むのが不得意な国です。国が定めている祝日は多いのですが、それはむしろ、自分で自由に休みを取れない国だから、国が「休め!」としないと休まない。でも、祝祭日でさえもなかなか休めないですよね(笑)。有休を上手に使えない。使わせてもらえない国。ある意味とても律法主義的な社会です。
でも「休むこと」は悪ではありません。神様は私たち人間が休み下手であることをよくご存知です。ですから、創世記の最初から、安息を設けてくださいました。礼拝をする聖日も「安息日」ですから、神様の前に「心も体も安息する」との思いで礼拝できるといいですね。これが今日の3分メッセージでした(笑)。
今お話ししたように、人はしばしば、何かに取りつかれたようになります。そして周囲が見えなくなることがあります。例えば、仕事に没頭し、もっともっとと欲に囚われ、家族をないがしろにし、自分の身も亡ぼしていきます。その時、自分の姿も、自分の家族の状態にも気づかなくなり、体を壊し、仕事を失い、家庭が崩壊した頃に、何をしていたのかと気づくといった具合です。できれば、そうなる前に我に返り、また神様に立ち返りたいのです。みことばから教えられましょう。
1.罪深い現実と警告
14-16節では、既に北イスラエル王国に起こった惨状を示しています。
14節 イスラエルは奴隷なのか。それとも家に生まれたしもべなのか。なぜ、獲物にされたのか。
イスラエルは主人からしっかり守られている「しもべ」のはずでした。しかし、まるで、主人に守られていない奴隷のようになり、他国の「獲物」にまでされてしまったのです。こうして、北イスラエルは15節で「若獅子」にたとえられているアッシリアの餌食とされ、滅ぼされたのでした。
さらに16節では、エジプトに搾取された現実を突きつけます。「メンフィスとタフパンヘスの子らが頭の頂を剃り上げる」とあります。どちらもエジプトの地名です。その意味は、頭のてっぺんまで髪を剃り上げるかのように、エジプトがイスラエルからすべてを搾取し、恥ずかしい晒し者にするということです。
こうして、北イスラエルは滅び、今や、南のユダ王国も同じ末路を辿ろうとしていたわけです。なぜなら、同じ問題を抱えていたからです。18節にこうあります。
今、ナイル川の水を飲みにエジプトへの道に向かうとは、いったいどうしたことか。大河の水を飲みにアッシリアへの道に向かうとは、いったいどうしたことか。
神様にではなく、エジプトやアッシリア等の人間の力に助けを求めてしまう姿勢が、ユダにもあったわけです。 さらに、20節では「自分のくびき」や「自分のかせ」を打ち砕いて、「私は仕えない」と言ったとあります。これは、神様から与えられた「良い役割」や「良い使命」を捨てて行く姿です。悪魔が楽そうに見える道、甘い道を装っておびき寄せ、神様から引き離して虜にするのです。そうなると大変です。
23節の後半~24節では、なんと「発情期のらくだやろば」の比喩を用いて、イスラエルが誰にも止められないほどの強い欲望に囚われ、偶像に依存していった現実を語ります。こうして、いつの間にか重いくびきを負わされ、それゆえに潰れてしまうでしょう。私たちも、神様ではなく人や罪深い何かに依存していく問題があります。現実から逃れるために、何かに依存していきやすい私たちです。
また、悪意ある者が、最もつけ込みやすいのは弱っている人です。弱っている人の心に入り込み、「寛容さ」という餌で虜にし、搾取していくのです。実に、これらは間違ったものであっても、依存している間は、麻薬のようなもの。不安や恐れから解放された気がするのです。虜になっている時は、周囲が見えません。心配する声も聞こえなくなります。自分の姿も分からず、善悪の判断も失われます。しかし、その薬は必ず切れます。切れた時のとてつもない無力感、罪悪感、絶望は計り知れないでしょう。食い物にした者たちは、放り出した後は何の責任も取ってくれないのです。
2.気づく大切さ
さて、これらの滅びに向かう深刻な問題からの救いには、「気づく」ということが大切です。自分の今の状態が一体どんな姿なのか。そして、本来、神様が意図されたあるべき姿ではないことに。神様はここで現実をまっすぐに見せて、「なぜこうなったのか?」と問いかけ、気づかせようとしているのです。「虜」になっている自分の情けない姿に目が開かれる必要があります。17節では、これらの惨めな現状の原因が語られています。
17節 あなたの神、主があなたに道を進ませたとき、あなたが主を捨てたために、このことがあなたに起こったのではないか。
神様に拠り頼まず、主を捨てて歩んだので、これらの惨めで、ボロボロな状態へと陥ってしまったと主は語っておられるのです。さらに、19節でもこうあります。
19節 あなたの悪があなたを懲らしめ、あなたの背信があなたを責める。
自分から離れ、自分から滅んで行くのが罪ある私たちです。イスラエルは国を失い、搾取され、ボロボロの窮状に至っていくのです。だから「知り」、「見極めよ」と語られます。
19節の後半にこうありますよね。 だから、知り、見極めよ。あなたがあなたの神、主を捨てて、わたしを恐れないのは、いかに悪く苦いことかを。 ──万軍の神、主のことば。
ルカの福音書15章11節以降に、有名な「放蕩息子」のたとえ話があります。父の財産をさっさともらって、町に遊びに繰り出した家出息子です。自分が好きなことを選んで、やりたい放題しました。それが魅力的、それが自分の幸せだと思い込んだのでしょう。それがまさに、悪魔の罠でした。結果、財産を使い果たし、飢饉まで起こり、極貧生活になったのです。16節で、豚の餌さえ魅力的に見えるほどに落ちぶれたことが分かります。しかも、そこまで困っているのに、周囲の者は誰も助けてくれなかったのです。自分の好きな事だけをして生きる道は、本当に困った時に助けてくれる友や家族さえも自分から切ってしまうのです。なんと愚かなことでしょう。私たちはこうならないようにしたい。
「このままじゃダメだよ」と伝えてくれる人は、あなたを本気で愛し大切に思ってくれる尊い存在です。そういう人を大切にしないといけない。むかついたからと切ってはらないのです。主は、どんなに嫌われようが、どんなにののしられようが、愛しているのでこの真実を語られる方です。私たちもこの放蕩息子のように、みじめな状態になり得ます。お金の話ではないです。罪に陥り、何かの奴隷になり、霊的に枯れ果て、とてつもなくみすぼらしい状態になることがあり得ます。警告に聞き従わない道。神様の声から遠ざかる道です。
でも、このたとえ話は「救いの話」ですよね。「回復の話」です。この息子は愛してくれる父のもと帰れたのです。それは何故でしょうか?ルカ15章17節に、カギとなる一言があります。「しかし、彼は我に返って言った」と。惨めでボロボロな状態にまでなって初めて、彼は本来のあるべきところから離れている自分を知ったのです。あるべき自分の姿に帰りたいと願ったのです。道を外れても、帰るべきところがあるのです。
これを私たちは決して忘れてはなりません。主はずっと、ずっと、いつでも待っておられるのです! 父なる神様のもとから離れて行くことは、人が思っている以上に悪く、苦しみを生み出していることを知り、見極めよと主は言われます。そして、問いかけるのです。今のあなたは本当に満足できるあなたの姿なのか?良くなりたいないのか?と。わたしのもとに来なさいと主は招いているのです。
3.良い木にとどまる(良いぶどうらしく)
そこで、21節に目を留めたいのです。
21節 わたしは、あなたをみな、純種の良いぶどうとして植えたのに、どうしてあなたは、わたしにとって、質の悪い雑種のぶどうに変わってしまったのか。
神によって植えられたぶどうは、良いぶどうなのです。本当は私たちは、神のかたちに似せられ、イエス様のような者であることを期待されたひとりひとりです。良い作品のはずなのです。神様が植えたぶどうは、混じりけのない良いぶどうだったのです!それなのに、質の悪い、美味しくないぶどうに変わってしまったのは、なぜかと問われます。
答えは一つです。主から離れたからです。
そして、離れた後に何度も懲らしめられ、「立ち返れ」と言われ続けたのです。神様は愛するゆえに「懲らしめ」をくださり、引き戻そうとされるのです。30節にこうあります。
30節 わたしはあなたがたの子らを打ったが、無駄だった。彼らはその懲らしめを受け入れなかった。あなたがたの剣は、食い滅ぼす獅子のように、あなたがたの預言者たちを食い尽くした。 ここにあるように、懲らしめが無駄にならないようにしたいのです。
ある牧師家庭で育った友人は、子どもの頃に一度、完全に遊びに行く理由で礼拝をさぼったと言います。それが上手く行ったら、その後、何度も繰り返し、やがて離れたかも知れません。でも、その時に限って大怪我をしたそうです。単純な彼は、それを神様からの「懲らしめ」と痛感し礼拝を大事にしようと思ったそうです。
懲らしめを受け止めたゆえに、立ち返り、また豊かに祝福を受けた「懲らしめられ名人」と言えば、ダビデでしょう。彼は罪を犯し、また隠すために罪を重ねましたが、懲らしめられ、苦しみ、立ち返っていきました。神様の御手の懲らしめの重みを受けながらも、そこにある神様の愛を感じて、立ち返り、今まで以上に祝福されていくのです。詩篇 119:71にこうあります。「苦しみにあったことは私にとって幸せでした。それにより私はあなたのおきてを学びました」と。主の懲らしめを無駄にしなかった人の告白です。
神様は、愛する子が誤った道にあるならば、幸いな道に立ち返るために、「懲らしめ」を与えます。倒れさせるためではありません。気づかせ、立ち返らせるためにです。
先ほどの、家出をした放蕩息子の話。我に返った彼はどうしたでしょうか。父の家に帰って行きました。そして、父は毎日帰りを待っていました。ですから、まだ遠かったのに息子を見つけて、父の方から駆け寄り抱きしめた程でした。こんなに思ってくれている神様が私たちには、おられるのです。そして、まことのぶどうの木に戻ったなら、その木から離れてはいけません。
良い実は良い木からしか生まれないからです。私たちがどこに属しているのか。どこから栄養を得ているのかが重要です。悪いものに依存し、悪いものから悪い栄養を受ければ、悪くなっていくのは当然です。枝だけで良い実を結ばせることは決してありません。枝はいつでも枝に過ぎません。枝が折れて落ちていたら、実りは生まれないのです。落ちている枝は、自分が木から落ちて枯れようとしていることに気づく必要があります。いつでも、主イエスとみことばに留まりましょう。そして、神様が植えられた良いぶどうらしく良い実を実らせていきましょう!
引用元聖書
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