東村山福音自由教会 ✞ Sunrise Chapel: 毎日の聖書【6月】
主が人の子らを、意味もなく、苦しめ悩ませることはない。(哀歌3:33)

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2025/06/01

毎日の聖書【6月】

1日(日)マタイ28章16-20節
 弟子たちはガリラヤに行き、イエスの指示通りの山に登った。そこでイエスに会い、礼拝をした(17)。その中には疑う者たちもいたとある。トマスが思い浮かぶが、彼なりに信じていくことも私たちは知っている。そして、イエスは大切な使命(大宣教命令)を弟子に与えられた。まず、天地すべてにおいて、キリストにはすべての権威が与えられていると言われた。イエスが望めば、何でもその通りに成し遂げられる力である。最強、最高の神が私たちの主であるのだ!この権威を持つお方が弟子を遣わし、この方が世の終わりまでいつもともにおられるのだ(20)。だから!行って、あらゆる国の人々を弟子とせよと言われた。福音をすべての者に伝え、バプテスマを授け、命じられたすべてのことを教えよと(19)。宣教の命令は、私たちが孤独にするものではない。すべての権威を持つお方が、いつもともにおられるのだから!そして、主にある仲間たちと一緒に、この尊い使命に生きていくのだから!

2日(月)使徒1章1-2節
 医者ルカが著したとされる使徒の働き(使徒行伝)。それは使徒の活動であると同時に、導いてくださる聖霊による働きなので「聖霊行伝」とも言われる。ルカは福音書も、この使徒行伝もテオフィロという人物をあて先にしている(1)。その名の意味は「神の友」といった意味なので、個人的名ではなく信仰共同体に宛てたのかも知れない。なお、ルカの福音書では「最も尊敬する」という形容詞が名前の前にあって、強い敬意を表している。しかし、この使徒の働きではそれが省かれていることから、関係性に進展があったのかも知れない。もしかして、キリストを信じて兄弟の関係になったゆえの親しさかも知れない。使徒の働きは、イエスを信じる者たちが聖霊によって豊かに歩んで行く様子を語る。2節に「聖霊によって命じた後」とあるように、イエスが聖霊と聖霊に導かれる弟子たちにゆだねていることがわかる。私たちも自力ではなく、聖霊によって肩の力を抜いて歩んでいこう!聖霊に導かれること=キリスト中心に生きることである!

3日(火)使徒1章3節
 復活後の主イエスは、40日かけて何をしたのだろうか?3節によれば、「数多くの確かな証拠をもって、ご自分が生きていることを使徒たちに示された」とある。つまり、イエスが確かに死から復活したということを、繰り返し弟子たちに分からせようとされたのだ。ということは、それほどに復活の事実が救いにおいて、これからの宣教において重要だということだ。だが、ここでは「ご自分が生きていること」とある。それは単によみがえったという事実だけでなく、今も、天に昇って見えなくなってからも、生き続けておられるということを弟子たちが確信していくためだ。主は、いのちのない偶像ではない。今も日々生きておられ、私たちと交わり、私たちとともに歩まれる主である。主権をすべてを治め、導かれる主である。それは、大宣教命令で「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます」と言われたことばの証拠でもあるのだ。そして、これから福音を携えて遣わされて行く者たちに、「神の国のことを語られた」(3)のだ。私たちは、今も力強く生きておられるイエスが王である「神の国」の知らせを届ける、神の国の親善大使とされているのだ。

4日(水)使徒1章4-5節
 4節。イエスと弟子たちは、おそらく食事の交わりをしながら語り合っていたのだと思われるが、イエスが弟子たちにあることを命じている。それは「エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい」ということだ。復活のイエスと出会い、さあ、これからイスラエルの復興だ!母国の再建だ!と弟子たちは盛り上がっていたのだろう。だが、神のご計画はそこにはなかった。これからいよいよ、聖霊が与えられて、教会が生み出され、使徒たちによる世界宣教が始まって行くのであった。それはすべて、聖霊によらなければならなかった。人の肉の思いと力によるものではない。だから、父の約束(=聖霊が与えられること)を待つように言われのだ。それはキリストが天に昇られてから、起こるものだと以前より約束されていた!水のバプテスマに加えて、これからは、聖霊のバプテスマ(聖霊の満たし)を受けるのだと(5)。私たちも、神の働きを人の働きに格下げしないようにしよう!聖霊の力によって福音を伝え、また聖霊が人を内側から新しく造り変え、救ってくださることに期待しゆだねよう!

5日(木)使徒1章6-7節
 使徒たちは、祖国イスラエルの再興を切に願っていた。それで6節にて、いよいよローマ帝国の支配を脱して、イスラエル王国を再興してくれるのかと期待し、イエスに質問したのであった。イエスはそれが的外れだとは言わず、別の応答をしている。7節「いつとか、どんな時とかいうことは、あなたがたの知るところではありません。それは父がご自分の権威をもって定めておられることです。」と。イスラエルの再興を否定せず、ただ時については神の主権で決められると応じた。不思議な応答だ。それはもしかしたら、イスラエルの霊的な再興という意味では間違っていなかったからかも知れない。そして、霊的な再興であるならば、時においても神の権威に従う姿勢こそ、重要なことである。聖霊が使徒たちに臨み、世界宣教がなされる時、キリストを王とする神の国が本当の意味で建て上げられていくのだ。それこそ、イエスが建てようとしている霊的なイスラエル、神の国なのである。私たちも自分たちの教会を建てるのではない。キリストの教会を建てるという意識を忘れずに歩もう。

6日(金)使徒1章8節
 しかし、聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、さらに地の果てまで、わたしの証人となります。」
 主イエスの最後のことばとして記録されている。イエスが地上を去り、助け主なる聖霊がペンテコステに来られる。聖霊が使徒たちの上に臨むとき、「力を受ける」と主は約束された。これはすべてのキリスト者に与えられた特別な権利である。聖霊が臨む時の最大の特徴は、「キリストの証人」としての力である。それは地域や文化、ことばの壁さえ越えて、地の果てまで、どこででも発揮される力であるとわかる。キリストの証人ということは、ことばにおいて、態度において、生き様において、キリストの姿がそこに現れることである。聖霊に満たされるならば、キリスト中心の生活・人生を送る者とされていくのだ。キリストを信じているなら、あなたにも聖霊が注がれている。キリストを現そうとする思いがあるなら、ことば、人格、行動、すべてにおいて、あなたは力を大胆にいただける!

7日(土)使徒1章9-11節
 聖霊降臨について語られた後、イエスは使徒たちが見ている中で、天へと上げられた。そして、雲がイエスを包み込んで見えなくなったのだ(9)。使徒たちはその様子をずっと見守り、目が離せないでいた。長く過ごして来た「目に見える姿のイエス」に対して、別れを惜しむ思いは強かっただろう。不安が彼らの心に渦巻いたに違いない。見える姿に頼りたいのは、いつの時代にもある人の弱さではないだろうか。だが、御使いたちが、彼らに語りかけた(10)。「どうして天を見上げて立っているのですか」と、その行動に疑問を投げかけた。実に、主イエスは天に上って行った時と同じ有様で、再び戻って来られるのだ(11)。
 この再臨信仰のゆえに、不安や別れを惜しむ思いから解放されたのだ!不安と悲しみの中で、突っ立って動かないでいる場合ではない。イエスが戻られるまでに、イエスから託された大切な働きがまだあるのではないか!! 私たちも同様である。キリストはすぐにでも来る。それまでに、あなたが救いの知らせを伝えるべき人々がまだいるのではないか?あなたでなければ、届けられない人が待っているのではないか。

引用元聖書
聖書 新改訳2017©2017 新日本聖書刊行会

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