ダビデの悔い改めの場面です。
神様は預言者ナタンを遣わし、ご自身のことばをダビデに語らせました。
神様は預言者ナタンを遣わし、ご自身のことばをダビデに語らせました。
神様の目的をナタンもわかっていたことでしょう。
倒れさせるためではなく、倒れてもそこから立ち上がり今まで以上に主と親しく歩んで用いられていくためです。
ナタンはあえてたとえ話を用いています。
2人の人の話。富む人と貧しい人。富んでいる人は羊を沢山所有していました。ところが、貧しい人は1匹の小さなメスの子羊のほか何も持たない人でした。この貧しい人は、たった1匹のこの小さな羊をそれはもう可愛がりました。
3節にありますが、彼はまるで自分の娘のように羊を可愛がり、家族同然のように育てていました。
さて、1人の旅人が富んでいる人の家に来ました。彼はこの旅人をもてなそうと思ったのですが、自分が飼っている多くの羊の1匹でさえも調理することを惜しみ、なんとこの貧しい人の大切な1匹しかいない子羊を奪い取り、旅人のために調理したという話です。
たとえ話だったので、ダビデは客観的にこの話を聞くことができたことでしょう。
ダビデはこの富んでいる人に対して、激しい怒りを燃やし言いました。
5-6節です。
5節 ダビデは、その男に対して激しい怒りを燃やし、ナタンに言った。「主は生きておられる。そんなことをした男は死に値する。
6節 その男は、あわれみの心もなく、そんなことをしたのだから、その雌の子羊を四倍にして償わなければならない。」
これに対してナタンは鋭く言います。「あなたがその男です」と。
ダビデは衝撃を受けたことでしょう。
自分が最も腹を立てた人物が自分自身だったのですから。
私たち人間は自分のことが一番見えない者ですよね。自分の姿をもう少し客観的に見ることができれば、しくじりも減るのかななんて思うことがあります。でも、自分の姿こそ一番見えないのです。ダビデも他人事としてこの話を聞く限りは、なんてひどい事をするんだと見ることができました。でも、自分がしている事に関しては、「自分を守ることに必死」で、何かに憑りつかれたかのように盲目になっていました。
ナタンはダビデに「神様からのことば」をそのまま伝えます。
ナタンの素晴らしいところは、自分の感情的な意見を伝えるのではなく、神様のみこころをまっすぐに伝えているという点です。
その中でダビデが兵士ウリヤにした行為を指して神様はこういいます。
9節にあるように、「あなたが彼をアンモン人の剣で殺したのだ。」ということです。
神様は本当にすべてをご存知で正しくさばかれる方なのだと教えられます。人間の目には分からない出来事も、神様はその人の心の内まで見られた上で、正しく判断してさばかれます。神様の審判に「冤罪」はないのです。もう一度言いますが、神様の審判に「冤罪」はありません。だから人が人をさばくのではなく、主にゆだねる必要があるのですよね。
ダビデは自分のした罪の報いを受けることが語られています。自分の数多くいる妻が他の男と関係を持つようになることです。多くの妻を持ち、ハーレムを築いていたにも関わらず、さらに臣下の奥さんをまで奪い、隠すためにその臣下のいのちまでも奪ったのですから・・・。
ここまで聞いてダビデは自身の犯した罪と真剣に向き合い、ついに悔い改めに至ります。
13節 ダビデはナタンに言った。「私は主の前に罪ある者です。」ナタンはダビデに言った。「主も、あなたの罪を取り去ってくださった。あなたは死なない。
最も大切な場面でしょう。ダビデがしたことは本当に大きな罪でした。人の命を自分の名誉のために奪ったのですから、本来ならば同等に自分のいのちが奪われる必要がありました。でも、主の前に罪を認め悔い改めたので、主もそこに赦しを与え、ダビデは死にませんでした。
ダビデはここでは短く一言だけ答えています。言い訳もありません。人が真摯に罪に向き合う時、ことばは多くいりません。ことばが多くなる時、それは言い訳や弁明を始めているときでしょう。
それにしても、あわれみ深い神様の赦しの恵みがここにあります。
しかしながら、それでも彼はこの罪の一つの報いとしてわが子を失うことになります(14節)。赦されたからと言って、罪のもたらす影響を何も受けないわけではありません。誰かを傷つければ、その傷が回復するまで必要な償いをしなけばなりませんし、犯罪に手を染めれば罰金や牢屋に入る事も報いとして受け入れなければなりません。
ダビデの場合は一人のいのちを奪ったので、自分の子のいのちが神様によって奪われます。それは重い神様からの報いでした。ただ、時に人は痛みを通らないと本当の意味で悔い改めることが出来ないこともあります。
神様はこの問題については本気でダビデが悔い改め、原点に立ちかえって欲しかったのだと思います。神様の愛です。
興味深い記事がⅠ列王記15:5にあります。
Ⅰ列王記15:5 それは、ダビデが主の目にかなうことを行い、ヒッタイト人ウリヤのことのほかは、一生の間、主が命じられたすべてのことからそれなかったからである。
ダビデの罪はウリヤの件だけではありませんでした。他にも妻を多くめとっていた問題、人口調査の問題(ここでは多くの民が命を失います)、息子たちとの関りにおける失敗もあります。
それでも「ウリヤの一件のほかは、主の命じられたことからそれなかった」とダビデが生涯を通して主に仕えた忠実な者とされているのです。逆にウリヤの一件が他の罪と区別されているのはなぜでしょうか?
もちろん殺人という罪は大きなものでしたし、王の権限を悪事に使ったという王ゆえの問題もあるでしょう。しかし、どうもそれだけではないのだと思うのです。
今日のみことばで、ダビデの罪の本質を神様はなんとおっしゃっているでしょうか。
9-10節で繰り返し出て来るダビデの罪の本質を表現することばがあります。何でしょうか?
「主を蔑(さげす)んだ」ということです。
主のことばと主ご自身を蔑んだと指摘されています。
その意味するところは、ダビデが「神様をいない者のようにして歩んだ」「神を神でないもののように扱った」ということです。
ダビデはこの時、長期に渡って自分を正当化しごまかし、罪と向き合わず歩みました。それは主と向き合えなかった日々です。
預言者ナタンに示されるまで、妊娠から出産までの約10カ月間・・・1年近くになります。彼は罪の悔い改めをしないままでありました。
罪を犯したこと自体も問題ではありますが、それ以上に悔い改めないで居続け、神様から離れている状態が長く続いたことがこの時のダビデにとってより深刻な問題でありました。
神様に全部知られているにも関わらず、その罪について神様の前に告白せず、悔いることもなく、隠せているかのように錯覚して生きること。それは神をないもののようにし、自分を神にしてしまう傲慢。これこそが「主を蔑(さげす)んだ」ということです。
後になってダビデはこの時の経験を振り返り、詩篇にて歌っています。詩篇51篇や32篇は、この事件を振り返った内容だと考えられます。
詩篇32:3 私が黙っていたとき私の骨は疲れきり私は一日中うめきました。32:4 昼も夜も御手が私の上に重くのしかかり骨の髄さえ夏の日照りで乾ききったからです。セラ
長い闇の日々。それは罪を犯した深刻さ以上に、罪を認めない苦しみ。神様の前に告白せず罪悪感だけが自分を押しつぶそうとするもの。本当に辛い日々です。
それでも、このナタンを通しての主のことばに触れ、ダビデは心の底から悔い改めていきます。
詩篇51篇はその時のダビデの心情を現した詩篇です。彼がいかに罪悪感を覚えたかがわかります。
51:12 あなたの救いの喜びを私に戻し仕えることを喜ぶ霊で私を支えてください。
どんな罪悪感も、私たちから救いそのものを奪うことはできません。しかし、「救いの喜び」や「神様に仕える喜び」は奪われてしまいます。
罪悪感が心も体も弱らせてしまいます。ダビデは先ほどの詩篇32篇のように、疲れ切って弱り果ててしまっていたのでしょう。喜びもありません。だからこそのこのお祈りでした。
ダビデがナタンを通して悔い改め、主の赦しをいただいたことは本当に幸いです。
51:17 神へのいけにえは砕かれた霊。打たれ砕かれた心。神よあなたはそれを蔑まれません。 神を蔑(さげす)んだ罪に陥っていたダビデでしたが、悔い改めた時、神は彼のボロボロの心を蔑(さげす)むことをなさいませんでした。
長いトンネルをダビデは抜け出し、それまでの人生とは異なる用いられ方をしたことでしょう。彼のこうした詩篇は、後の時代のあらゆる罪悪感に苦しむ人々にとってどれほどの慰めをもたらしたことでしょうか。
罪を示されたならば、悔い改め、神様との交わりを回復しましょう。
そこに赦しがあるのですから。
そしてまた、罪悪感で傷つき倒れることがあるなら、そこで終わりではないことを覚えましょう。倒れたあなたにしかできないことがあります。
ダビデの詩篇がどれほど多くの人を立ち上がらせ、人生をやり直す励みになったことでしょうか。