*** 6/5(日)主日礼拝 説教概略 ***
民数記14章1-25節「神に従い通す者への祝福」
本日は教会暦で言えば「ペンテコステ」にあたります。聖霊がすべての信者に臨まれるという恵みの出来事でした。聖霊は「キリストの御霊」とも呼ばれ、キリスト中心に生きる道を助けてくださるお方です。この日に、洗礼の恵みもともにお祝いできますことも感謝します。まずは、主のみことばに語られ、御霊の導きをいただきながら、神様に従い通していくことの祝福を教えられましょう。
エジプトを出発し、パランの荒野に滞在していたイスラエルの民でした。
主のご命令で12人の斥候(偵察の者)を送り、カナンの地を探ることになりました。
しかし、カレブとヨシュアを除く他の者は皆、「私たちはあの民のところに攻め上れない。あの民は私たちより強いから。」と否定的な意見を言ったのです。
たちまち、イスラエルの民は恐れてしまい、不信仰に陥ってしまいました。彼らは本来恐れ、尊ぶべき方である主を侮り、目の前の強敵にすっかりおびえてしまったのです。これまで守り導いてきて下さった主の恵みを忘れ、主への信頼を忘れました。
今日は、14章1-25節のところから、神様に従い通す歩みの大切さをみことばから教えられたいと思います。
1. 家族を守る道
1節から4節のところでは、イスラエルの民の不信仰な姿が語られています。神が与えると約束して下さった地カナンに、強大な民族が待ち構えていました。カナンの敵は強靭なので、とてもカナワンと思っていたわけです。
イスラエルの民は、彼らを恐れるあまり、自分たちはイナゴのように思えたし、彼らの目にもきっと自分たちはイナゴのように見えただろうとさえ言っていました。人を恐れるあまり、勝手な思い込みに支配されていたのだと以前お話しました。
1節によると、民は声を上げて一晩中泣き明かしたようです。さらに、リーダーであったモーセやアロンに対して、彼らを責めるような不平を言いました。2節です。
「われわれはエジプトの地で死んでいたらよかった。あるいはこの荒野で死んでいたらよかったのだ」。
3節でも「エジプトに帰るほうが、われわれにとって良いのではないか。」とも言っています。この時の「エジプトに帰る」という考えは、神の救いを否定し、暗闇の世界に戻ろうとする考え方です。罪深い異教の支配にひれ伏して奴隷生活へと戻ることを意味しました。
それに加え、3節の最初では「なぜ主は、われわれをこの地に導いて来て、剣に倒れるようにされるのか」と、神様を責めてさえいます。
神様は守り支え、勝利させてくださると言われているのに、もう100%カナンの地の民族に殺される前提で、神様を悪く言っているのです。これまでの守りへの感謝を忘れ、不平不満を口にしている身勝手な姿です。
ただ、彼らのこの姿に、個人的には少し共感できる部分があります。
3節の中で彼らはこう言っています。「妻や子どもは、かすめ奪われてしまう」と・・・。自分だけならば、我慢できる。しかし、大切な妻や子どもたちが敵の手に渡りひどい目に遭わされるのは、どうにも耐えられない。彼らはその心配をし、余計に気弱になったのです。
私も夫・親として、わかる気がします。自分ひとりだけならまだしも、家族のことが関わってくると弱さを覚えるのです。
しかし、よく考えてみる必要があります。家族を守る最善の道って何なのでしょうか。
人はそもそも万能ではありません。弱いのです。私がどんなに家族を守りたくても、事故や病気で急逝すれば守れないのです。どうにも出来ないことがいつでも起こりえます。それこそ、不確かなこの世界で、確かな神様にゆだねることを学ばなければ、いつも不安で仕方ないでしょう。
本当は、どこが安全なのか?ということです。
ヨシュアとカレブの二人は、それを知っていました。民が大泣きし、エジプトに帰ろうとする中、彼らは主に背くことこそ危険であると言いました。9節です。
9節 ただ、主に背いてはならない。その地の人々を恐れてはならない。彼らは私たちの餌食となる。彼らの守りは、すでに彼らから取り去られている。主が私たちとともにおられるのだ。彼らを恐れてはならない。」
全能の主がともにおられる。神様に背いて敵対すれば、守りが取り去られる。そうではなく、主に従い通す道こそ、最も確かで安全な道だということです。 イスラエルの民が家族を守ろうと思ったことは、理解できます。しかし、守る方法を間違えたら、守れるものも守れなくなります。頼るべき相手を間違えてはなりませんね。
箴言16:9にこうにあります。「人は心に自分の道を思い巡らす。しかし、主が人の歩みを確かにされる。」
私たちは、これこそ自分の最善の道、幸せな道だと思い込んで歩みます。多くの人が良かれと思い、幸いを目指して歩んでいるはずです。それなのに、なぜか幸せではない道を歩んでしまうのです。それは、正しい良い道を知っている方を頼らないからです。ですから、すべての道とその先にあるものをご存じの神様に「人生の水先案内人」となっていただきましょう。
2.主に従い通す道
ヨシュアとカレブは、主に背いてはならない。最後まで主に従い通すべきだ。これまでもすべて主がおっしゃる通りになったではないか!との思いもあったでしょう。
心に留めるべき事は、その地の民族が強いかどうかではない。私たちが主の御心にかなう選択をするかどうかだということです。
全世界の王である主が味方であるなら、私たちは、あとは何を恐れる必要があるでしょうか。ローマ書8章31節にこうあります。8:31 では、これらのことについて、どのように言えるでしょうか。神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。
私は家族を守りたいからこそ、主に従い通したいと考えます。
仮に、私がイエス様を信じていなかったらどうなっていただろうかと思います。傲慢かつ欲深い私ですから、今よりずっと家族を傷つけ、自分を滅ぼしていたでしょう。今頃家庭は崩壊していたかも知れません。どれほど主に、教会の交わりに、助けていただいたことでしょうか。
別の教会の話ですが・・・ある若者が、思春期に学校に行けない状態になりました。そこで通信教育で学びを補いました。ただ、そうなると家で過ごすことがほとんどで、友達もできず孤独になりました。けれども、この青年には教会がありました。学校に行けず、孤独に苦しんでいても、毎週教会で良くしてもらい本当に支えられたのです。イエス様とともに歩み、クリスチャンの交わりの中で心が守られたと言っていました。この方は、神とともに歩み、キリスト者の交わりの中に居場所を持ち、進学でき、積極的に色々な活動に用いられる人になりました。試練を通りながらも、主から離れず従い通した。主の教会に留まり続けたゆえに守られ祝福を受けた証しです。 そして苦しんだ経験さえ、孤独な人たちを励まし支えることに用いられているように私には見えました。
3.拒む者、従い通す者
ところが、ヨシュアとカレブの熱心な、熱い信仰のことばを聞いたとき、民はどのような反応を示したのでしょうか。10節にあるように、なんとヨシュアとカレブを石で打ち殺そうとしたのです。それが自分たちを守る道だと、完全に思い違いをしてしまったのです。恐ろしいことです。
神様はこの一切のやり取りをご覧になり、ついに介入されました。
11節で「この民はいつまでわたしを侮るのか」、「いつまでわたしを信じようとしないのか」と怒りを現わされました。厳粛なことばです。
「与える」と言っておられるのに、それを受け取らないのなら「はく奪される」のです。現代社会でも、「権利の上に眠る者」は保障の対象にならないという原則があります。銀行口座を長らく放置して、出し入れを一切しない場合凍結されることがあります。権利があってもそれを申請しない者、給付されるのに受け取らない者は、保障されないのです。
ただ、イスラエルの民は約束の地を拒んだどころか、神様に敵対さえしました。主のみこころを伝え、信じて進みましょうと語ってくれた信仰の指導者たちをも殺そうとしたのです。ゆえに、彼らは守りが取り去られ、疫病が襲う事になると言うのです。
しかしながら、この時にモーセの取った態度は、まさにキリストの姿(ひな型)でした。モーセは自分達に反対して、新しいリーダーを立ててエジプトに帰ろうとした民のために、とりなしの祈りをするのです。いい加減、この民の不誠実さに苛立ち、見捨てたくなったことでしょう。それでも、この民とともに苦しむことがモーセの召しでした。どうしようもない、わからずやの民のために、なお、モーセは神様に必死に懇願して祈ったのです。頭が下がります。
19節ではこうあります。19節 この民をエジプトから今に至るまで耐え忍んでくださったように、どうかこの民の咎をあなたの大きな恵みによって赦してください。
虫のいいお願いかも知れません。主の恵みを強調して、あなたは大いなる恵みの方だから、どうか赦してくださいと。ただ、神様はあわれみ深い方。どこまでも赦してくださる主です。言うことを聞かず、平然と神に反対し、さらには神に従う者を攻撃する者たちでした。それでもなお、主はその大きな恵みのうちに赦してくださいました。
20節にあります。主は言われた。「あなたのことばどおりに、わたしは赦す。
反対した者たちがただちに疫病でいのちを失うことにはならずに済みました。主の深いあわれみです。それでも、約束の地を拒んだので、彼らはこの地に入ることが出来ませんでした。自分たちが選んだ道だからです。
私たちはそのように愚かな選択をせず、神様に道を求める者でありたいと願います。こうした中でも、信じて従い通したヨシュアとカレブたちはこの地の祝福を受けることができる者とされました。私たちは主の導かれるところ、主のみ教えに生きる道こそが、確かな守りの道であり、祝福の道であることを信じましょう。
神様は今日、あなたに語っておられます。愛と真実に満ちた全知全能の主に従う道を選ぶのか、それとも、自己中心的で盲目な自分を頼みとして生きる道なのか。肉の思いに導かれるのなら、むなしく消え去る道を気づかず選んでしまうでしょう。しかし、キリストの御霊は私たちに、神の道を示します。 この経験をし、カナンの地に導かれた一人ヨシュアは後にこう言います。「私と私の家とは主に仕える」と。その発言の背景には、この出来事があったのではないでしょうか。ヨシュアのこの告白が、彼だけでなく彼の家族をも守ったのです。自分のためではなく、家族の幸せのために、キリストを信じる方もいるのです。自分も家族をも守り導いてくださる主について参りましょう。