東村山福音自由教会 ✞ Sunrise Chapel: 毎日の聖書【5月】
主が人の子らを、意味もなく、苦しめ悩ませることはない。(哀歌3:33)

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2025/05/20

毎日の聖書【5月】


1日(木)マタイ26章14-16節
 この時、12弟子の一人のイスカリオテ・ユダが祭司長たちのところに行き、交渉を持ちかけた(14)。それはイエスを売るという行為であった。イエスの葬りのために高価な香油をイエスにささげた女性を非難しておきながら、自分は銀貨30枚でイエスを売ることにしたのだ(15)。こうしてユダは、イエスを引き渡す機会を狙うようになった(16)。
 さて、当時の銀貨30枚という値段ははっきり言えば非常に安い。奴隷売買の金額が銀貨30枚と言われ、祭司長たちがそもそもイエスを奴隷扱いしたとわかる。現在の給与の1か月分、多くて3カ月分ぐらいのようだ。女性がイエスの葬儀のために用意した香油が300デナリ(300万ほど)とすると、ユダはその10分の1~10分の3程度の銀貨で売り渡したことになろう。「豚に真珠」という諺が聖書から生まれているが、まさにユダには主イエスの価値がまるで分らなかった。イエス・キリストとそこにある救いは、どんなにお金を積んでも買えないもの。とんな宝にもまさる救いである。その価値を正しく知ろう!!

2日(金)マタイ26章17-25節
 過ぎ越しの祭りの際、イエスは弟子たちと一緒に過ぎ越しの食事を祝いたいと願った。これが地上で最後に持てる晩餐であったからだ(18)。それで弟子たちは、イエスの願い通りに過ぎ越しの準備をした(19)。そして、イエスは12人の弟子たちと一緒に食卓についた。そして、イエスは、弟子の一人が「わたしを裏切ります」と言われた(21)。この時のイエスの悲しみはどれほどのものであっただろうか。イスカリオテ・ユダがその人であった(25)。イエスは最後まで彼が裏切りをやめ、悔い改めて立ち返ることを願っておられた。他の福音書やユダヤ人の文化等を調べていくと、イエスはユダをご自分の隣の席に座らせ、主賓としてこの最後の晩餐に招いていたと考えられる。裏切り者に最後まで愛を注ぐイエスの姿を知る。だが、ユダは自分の思いに支配され、それを止めることができない。実際彼は、イエスの死後、自責の念に駆られ、銀貨をすべて返し、しかも自害してしまう。真実なる神、愛の神を裏切り、背くなら、私たちは後悔する。その後悔をしない歩みをしよう。

3日(土)マタイ26章26節
 「最後の晩餐」つまり、聖餐式の由来となっている場面である。26節で、主イエスは、神をほめたたえて、パン(単数形)を裂いて弟子たちに分けて与えられた。一つのパンを裂いて十二弟子に分け与えたということだろう。そして、このパンは「わたしのからだです」と言って与えられた。イエスが天に昇られて後も、弟子たちが聖餐式としてこれを行っていた記録が、第一コリント11章23節以下にある。私たちもこれを礼典として大切に継続している。このみことばでは、イエスのことばとして「わたしを覚えてこれを行いなさい」と付されている。一つのパンにあずかる時、すべてのクリスチャンが、同じキリストのからだの一部であることを覚え、まことのいのちにともにあずかっていることを意識する。これをすることで、私たちが主イエス・キリストと一つにされていること、そして、他の兄姉たちとも同じキリストのからだにあずかっていることを思い起こすのだ。私たちはキリストにあって一つであること、いつでも大切にしていきたい

4日(日)マタイ26章27-29節
 パンの後、イエスは杯(単数形)を取って感謝の祈りをし、弟子たちに与えられた。この杯も単数形なので、一つの杯から皆に分け与えたということになろう。「みな、この杯から飲みなさい」とも言われているので、同じ杯を回し飲みした可能性が高い。茶道における「濃茶」は、回し飲みをするが、千利休が宣教師が行っていた聖餐式から学んだとされる説が有力である。利休の妻、娘、弟子たちの多くがキリシタンであり、茶道の所作や茶室の造りが聖書から説明できることは興味深い。茶を一緒に飲む者の一体感を大切にしていることも通じている。それはさておき、この杯はぶどうの実からできた飲み物であった(29)。そして、その色から連想できるように、キリストの契約の血を覚えて行うものであった(28)。罪の赦しのために流されるキリストの血潮を思い、飲むたびに救いを心から喜び感謝するのだ。キリストは、我らの罪のために多くの血を流し、救いを成し遂げられた。杯を飲むたびに、キリストのいのちが、私のために注がれたことを心に刻みたい。

5日(月)マタイ26章31-32節
 イエスは弟子たちにあらかじめ言われた。「あなたがたはみな、今夜わたしにつまずきます」と(31)。それはゼカリヤ書の預言に通り、神のご計画のうちに羊飼いなるイエスが打たれ、羊たち(弟子たち)が散らされるということであった。ただ、イエスは同時に、とても大切なことを語っておられる。それは32節にあるように「しかしわたしは、よみがえった後、あながたより先にガリラヤに行きます」とのことばだ。なんと、こんなにも明確に、具体的に、イエスの死後の復活と、その後の行動まで弟子たちに伝えてあるのだ。復活後には、一足先にガリラヤに行くとまで言っているし、事実そのように行動されたことは後の記述でわかる。しっかりとこのことばに耳を傾け、信じていれば、実は弟子たちがあそこまで落ち込み、絶望することはなかったのだ。聞いたことばを信頼することの大切さを改めて思わされる!

6日(火)マタイ26章33-35節
 31節の「あなたがたはみな、今夜わたしにつまずきます」とのイエスのことばへの応答として、ペテロは言った。「たとえ皆があなたにつまずいても、私は決してつまずきません」(33)。この時の彼は自分の力で乗り切れると考えていたのだろう。だから、皆がつまずいても自分だけは大丈夫!と豪語した。プライドもあっただろう。イエスに対する愛もあっただろう。だが・・・人は誰もが「弱い」のだ。34節で、イエスは、今夜鶏が鳴く前に、ペテロが三度私を知らないと言うと告げた。ペテロはムキになって否定した。一緒に死ななければならないとしても、そんなことはしないと(35)。実は、彼に限らず他の弟子たちも同じように言っていた。だが、「自分だけは大丈夫」との考えこそ、神様が悲しまれる「傲慢の罪」ではなかろうか。どこかで他の人を見下し「自分だけは違う!」と思い込んでいる。この後、どうなったかは有名だ。「自分だけは大丈夫、他の人とは違う」この考えを脇に置き、私もペテロであると認めようではないか。そこに神の力が現れていく・・・

7日(水)マタイ26章36-39節
 イエスはペテロとゼベダイの子(ヨハネとヤコブ)を伴い、ゲツセマネの園で祈り始められた。その際、37節にあるように「悲しみもだえ」られた。それは38節のイエスのことばからもよく分かる。「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。ここにいて、わたしと一緒に目を覚ましていなさい」。悲しみの理由は、一時的とはいえ、父なる神との親密な交わりから切り離されることであろう。罪人として罰せられ、死に渡されるのである。聖なる罪なき方、父なる神と一体なる愛の交わりのある方ゆえに、その悲しみは一層深かった。だから、できることなら「この杯を過ぎ去らせてください」とさえ祈られた(39)。だが、祈りの格闘のうちに、ご自分の望みではなく、父の望まれるままにしてくださいと祈られたのである。主イエスは私たちと同じように試みに遭い、苦しめられた。だからこそ、私たちの弱さを理解し助けてくださる方。私たちも過ぎ去って欲しいと願う苦い杯がある。だが、神の望まれることが最善である。祈りの格闘をやめず、この祈りに導かれていきたい

8日(木)マタイ26章40-46節
 イエスが弟子たちのところに戻ると、彼らは眠っていた(40)。それでペテロに言われた「1時間でも、わたしとともに目を覚ましていられなかったのですか」と。イエスが悲しみのあまり死ぬほどであった時、弟子たちは居眠りしていたのだ。主イエスの心をともに担えない弟子たちの弱さだ。だからこそ、主イエスは孤独でもあっただろう。このような弟子たちに、「誘惑に陥らないように、目を覚まして祈っていなさい」と言われた(41)。霊は燃えていても、肉体は弱いからである。イエスはこの後2度同じように祈りの時を持たれた。1時間ほどの祈りを合計3度である・・・。主イエスでさえ、「父のみこころがなるように」と心から祈るために長時間に渡って繰り返し祈りの格闘をされたのだ。ならば私たちは、ますます祈り続ける必要があるだろう!私たちは弱いのだから。弟子たちのように疲れて祈れず眠ってしまう。置かれている重大な誘惑や危機さえも分かっていない者でもある。主のことばに聴き従い、目を覚まして絶えず祈る者ととなろう!

9日(金)マタイ26章45-50節
 ついに時が来た(45)・・・イエスを逮捕しようとユダを先頭に、祭司長たち、長老たちが集まってきたのだ。さらに彼らの後ろには武器を手にした多くの群集も一緒だった(47)。どれだけイエスを恐れていたのだろうか。嵐さえ静め、悪霊を追い出す力があり、その教えも権威に満ちていることを、彼らはよく知っていたのだ。だから、恐れを抱いて、大勢にて武器を持って集まったのである。だが、その「恐れ」を正しい恐れとできなかったことは非常に残念である。この恐るべき力が一体どこから来るのか?冷静に考えれば、また、みことばに照らせばわかったはずである!!そして、逮捕の合図はユダの口づけであった(48-49)。イエスはユダが口づけで裏切ることを知っておられた。そして、この瞬間にさえ「友よ」と呼びかけている(50)。イエスの愛の現れである。最後まで救いの手を差し伸べておられる。彼らは本当に、何をしているのか分かっていないのである。イエスが誰であるであるのか、求めればわかったはずなのに、求めず悟らず、受け入れなかったのである。私たちはこの方をまっすぐに悟り、正しい恐れを持とう!!

10日(土)マタイ26章51-56節
 武装してイエスを逮捕しに来た大勢を見て、弟子の一人が怯えたのだろうか。剣を抜いて大祭司のしもべに切りかかって、耳を切り落としてしまった(51)。この行動はもちろん、神のみこころにかなっていない。だから、イエスも剣を収めるように命じて言われた。「剣を取る者はみな剣で滅びます」と(52)。なお、ルカの福音書ではイエスが即座にこの人の耳を癒されている(ルカ22:50)。そして、53節にあるように、実にイエスこそ最強の武装を持つ方だ。十二軍団よりも大勢の天使を即座に召喚できると言うのだから。一軍団が六千人なので、七万二千人。それ以上の天使をすぐにでも手配できると・・・。だが、それを使わない。なぜなら、神のみこころではないからだ(54)。剣を取るとは、単なる暴力だけではないだろう。権力、圧力、ことばなども含む「力」だ。それでは何も解決しない。むしろ、その力がありながらそれをしないイエスに従う者こそ、まことの弟子である。剣を抜かない勇気を持とうではないか!

11日(日)マタイ26章55-56節
 主イエスはいつも宮で教えていた。逃げも隠れもしなかった。だから、正当な理由があれば、逮捕するのは容易いことだった。武器も持たないのだから。しかし、指導者たちは夜の闇にまぎれて、武装をして大勢で囲んで逮捕しようとした。非常に興味深い。イエスは言う「まるで強盗にでも向かうように」と。実際は逆で主の皮肉があるのだろう。イエスは罪を犯しておらず、逃げも隠れもせず、神の宮で正しく神のことばを説き明かしていた。それを逮捕する者たちこそ強盗そのものだ。だから、夜に行動し、だから武器を持って襲ったのだ。イエスは人の罪を露わになさる。聖なる神の子なのだから。だから、それを認めこの方に救いを求めていこう。なお、56節の後半では、弟子たちもまた何か悪いことでもしたかのように「逃げてしまった」ことがわかる。「イエスを見捨てて」とのことばがあるのが興味深い。なぜなら、この書を書いたのは逃げた一人のはずのマタイであるからだ。自分もイエスを見捨てたことを認めているのだ。主の前に自分こそ強盗、自分こそ見捨てて逃げる愛なき臆病者であることを本気で認めよう。そして、その私をもなお愛して、十字架に死なれた主に心からの感謝と賛美をささげようではないか!

12日(月)マタイ26章57-58節
 イエスは逮捕後、大祭司カヤパの官邸に連れて行かれた。そこには律法学者や長老たちが集まっていた(57)。そこにペテロも後をつけて行き、成り行きを見守っていた(58)。それゆえに、彼の裏切りというものが発生するのだ。けれども、そもそも逃げ出して、後をついて行かなければ起こらなかったことである。だから、ペテロが3度イエスを「知らない」と言ってしまう出来事を一概に否定はできないだろう。危険を冒してそこまでついて行く姿勢すら持てないこともあるのではないか。安全なところで過ごし、そこから他の人を批判することもあるのではないか。ペテロなりにイエスを愛そうとしたのだ。チャレンジしたのだイエスも彼を責めたのではない彼の信仰がなくならないよう祈ったのだ。立ち直ったら他の者たちを励ますよう伝えていたのだ。安全なところから人をさばくのをやめたい。そのリスクにチャレンジした者を誰が責めることができようか!

13日(火)マタイ26章59-61節
 祭司長と最高法院全体は、イエスを死刑にするために不利な偽証を得ようとし(59)、多くの偽りの証言をする者が出たが、決定的な証拠を得られなかった(60)。このみことばによれば、彼らの考え方は、まるで「あべこべ」である。「死刑にするために」証言を得ようとするということは、「殺意」の現れそのものである。合法的に殺人をしようとしおり、最悪な方法である。罪があるから罰するのではなく、殺すための口実を捜しているのだ。だが、私たちは、これに似たことをしていることがあるのではないか。先に悪い動機があり、その悪意を実行するにあたり、正当化のためにもっともらしい理由を作りあげるのではないだろうか。さて、その中でも二人の者が「イエスのことば」について証言した。「神殿を壊して三日で建て直す」とイエスが言ったのだと二人は証言した(61)。だが「神殿を壊す」とはそもそも言っておらず、また、この発言は、ご自分が十字架で死んで3日目に復活することによって、人々の信仰を新しいものにするという比喩であった。人の悪意はあらゆることを捻じ曲げてしまう。私たちは、こうして悪意に敏感でありたい。心をしっかり見張ろう!

14日(水)マタイ26章62-68節
 不当な裁判の様子が語られている。大祭司は「おまえは神の子キリストなのか、答えよ」と問いただした(63)。これまで、不利な証言をされても何も言わずにきたイエスだったが、これについては答えられた。「あなたが言ったとおりです。」と。それに加え、イエスが父の右の座に着き、また、雲とともに再臨されるのを見ることになるとも伝えた(64)。どれもイエスは真実を伝えただけであった。しかし、これに対して大祭司は怒りを燃やし、この男は神を冒涜したと糾弾した(65)。そして、周囲の者たちもまた「彼は死に値する」と答え、イエスの顔に唾をかけ、拳で殴り、平手で打ってはイエスを馬鹿にした(67-68)。
 自分たちが何をしているのか分かっていないのだ。その判断力も罪で歪み、神の御子を見分けられない。奇跡を見ても、癒しを見ても、そのことばを聞いても、その愛の姿勢を見ても、なお、彼らは受け入れなかった。その心が受け入れを拒んだのだ。むしろ、この姿勢こそ「死に値する」罪深さだ。まっすぐにイエスを見つめよう。「神よ、偏見も歪みも目の曇りも取り除き、まっすぐにあなたを見させてください」と祈ろうではないか。

15日(木)マタイ26章69-75節
 ペテロはイエスの後をつけて行き、大祭司の官邸の中庭で見守っていた。その時に、ペテロはイエスと一緒にいたのではないかと、声をかけられる(69)。しかし、何を言っているのか「わからない」ととぼけたペテロであった(70)。続けて他の二人にも同じように問われたが、ペテロはそのたびに否定した。特に73節では「確かに、あなたもあの人たちの仲間だ。」と、より具体的に追及された時には、誓ってまで否定してしまった。そして、 ペテロは「鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言います」と言われたイエスのことばを思い出し、外に出て激しく泣いた(73)。死であろうと、牢屋であろうと「イエスについて行く」と言っていた姿とはまるで正反対である。ただ、イエスはこれを責めていない。どこにもペテロのこの失敗を責めた姿はない。むしろ、彼のために祈り、また復活後には彼に使命を与え励ましている。弱い私たちだが「主の愛」があるから、歩んで行ける。奢らず、高ぶらず、何度でも立ち上がり、主について行きたい。

16日(金)マタイ27章1-5節
 夜が明けて、イエスは総督ピラトに引き渡された。夜の間、暴力を振るわれ侮辱され、眠ることもままならず、苦しめられた後のことだ。一方で銀貨30枚でイエスを売り渡したユダは、激しい後悔と自己嫌悪の中にいた。「イエスが死刑に定められたのを知って」後悔したのだった(3)。だから、彼は銀貨30枚を祭司長、長老たちに返している。4節で彼はこう言っている「私は無実の人の血を売って罪を犯しました」と。彼はイエスが無実であることを知っていた。彼は、イエスが自分の望むようなリーダーシップを取らず、権力者の攻撃に無防備だったことにも業を煮やしたのかも知れない。もちろん、権力者からの誘惑に敗北したのだが・・・。こうして、激しい後悔を生む行為をしてしまった。だが、最後までユダに愛を注がれたイエスのゆえに、彼はこの過ちに気づき、後悔しているのだとも言えるだろう。なお、誘惑した当人たちは、「知ったことか」(4)と突き放し何の責任も取らないだが、イエスは、最後まで見捨てない。この違いを心に刻もう。あなたに罪深い道を提示する者は、決してあなたを守ってはくれない。だが、イエスは最後まであなたを見捨てず、手を差し伸べ続けている!

17日(土)マタイ27章6-10節
 6節によれば、祭司長たちはユダが返してきた銀貨30枚を神殿の金庫に入れることができなかった。「血の代価」であるとの理由だ。彼ら自身、このお金が裏取引きによる汚れた金であることを一番よく知っていた。それで、このお金で陶器師の畑を買い、異国人の墓地としたのだ(7)。逆にそれぐらいしか使い道がなかった。そして、9~10節によれば、これらの出来事のすべてが、預言されていたとおりだとわかる。人はそれぞれ、自分勝手に自由に行動しているが、それらすべてもまた神の御手の中にあると知らされる。イエスを売り渡すために使われたこのお金もまた、尊ばれずにいた異国人、旅人たちを葬るために用いられたのだから。そこにも、主のあわれみに満ちたご計画があると知るのである。世の中には不正や汚れたこと、理解できない悪いことが沢山ある。だが、それらさえ神は用いるお方だ。人のした悪でさえ、良き計らいとできる神に信頼し、期待し、失望せずに歩もう。

18日(日)マタイ27章11-14節
 イエスは総督ピラトの前に立っていた。「あなたはユダヤ人の王なのか」とピラトが尋ねると、「あなたがそう言っている」とだけ答えた(11)。イエスは、自分から「わたしこそユダヤ人の王だ!」と宣言しない。何を訴えられてもされるがままだ(12)。王をはじめ、リーダーたるものは本来、威張ることでなるものではない多くの人々から認められ、請われてなるべきものではなかろうか?イエスを殺そうとした者たちも、実は「イエスこそ王の風格だ」と、心のどこかで感じていたからこそ、強い妬みにとらわれたのではないか。認めたくないが、明らかに民から慕われ、権威に満ち、正しく優しく力があったのだから・・・。さらに、イエスはどんな不利な訴えについても(13)、言い逃れも弁明もしなかった(14)。この姿に総督ピラトも非常に驚いた死をも恐れず、すべてを父なる神にゆだね、自分の使命に立っているその姿は、まさに真の王の風格であった。ことば数では決まらない。本物ほど多くの弁明も言い訳も不要だ。真実は神が明らかにされるのだから。

19日(月)マタイ27章15-21節
 総督ピラトは、祭りのたびごとに囚人を一人釈放することにしていた(15)。ちょうど、バラバという有名な囚人がいて、彼かイエスのどちらを釈放して欲しいのかと民に尋ねた(17)。実はピラトは、祭司長や長老たちが「ねたみ」ゆえに、イエスを逮捕したことを知っていた(18)。その意図は、極悪人のバラバとイエスを比べれば、皆がイエスを釈放するよう願うだろうとのことだろう。しかし、祭司長や長老たちは、バラバの釈放を願うように群衆を説得する工作をしたのだ(20)。問題は、そのような工作に簡単に流される群衆だ(21)。正しいかどうかではなく、自分たちにとってどちらが有利なのか。そのような損得勘定で決めていくのだ。なんと自分勝手なことか。人の人生、いのちが関わっているのに、真剣に考えないのだ。自己中心と他の人への無関心の罪は、こうして無実の人を傷つけ犠牲にしていくものである。誰かを批判するとき、誰かをたたくとき、その奥にその人の人生や、その家族、そのいのちを攻撃することにもなり得ることを、よくよく考えて行動したい。SNSで安易に攻撃できるこの時代だからこそ・・・。

20日(火)マタイ27章22-26節
 群集がイエスではなく、強盗殺人罪のバラバを赦免するよう求めた時、ピラトは彼らに尋ねた。「キリストと呼ばれているイエスを私はどのようにしようか」と。彼らは声を合わせ「十字架につけろ」と叫んだ(22)。イエスに罪を認められなかったピラトとしては戸惑いがあった。それで「あの人がどんな悪いことをしたのか」と群集に尋ねたが、彼らは理由を答えることもなく、騒ぎ立て「十字架につけろ」と大合唱したのだ。そこでピラトは、暴動を恐れつつ、同時に自分の責任にしたくなかったので、自分には責任がないと訴え、彼らが自分で始末をつけるよう言った(24)。なんと群集はそれを受け入れ、この人の血の責任は自分たちや子孫の上に!と言うのだ(25)。それが何を意味しているのか、彼らは分かっていない。もちろんピラトには権限があったのだから、正しいことをすべきだった。しかし、それ以上に群集の集団的悪意に恐ろしさを感じるのだ。みんなでしていると、感覚がマヒする。いじめでさえ、正当なもののように思えて来るのだ。人の罪の集合体とはなんと恐ろしいものだろうか。私たちはこのことに気をつけたい。特に人をさばく思いが集団化すると、それが神の御前に、とてもつない悪になり得ることを心して歩もう

21日(水)マタイ27章27-31節
 イエスは無罪であったが、ピラトは群集の声に負けて十字架刑とした。その際、26節にあるようにムチで打ってから引き渡している。総督の兵士たちは全部隊でイエスを囲み(27)、その服を脱がせて、緋色のマントを着せた(28)。緋色とは、王族の色「紫」に近い色であったと思われる。さらに、彼らは茨の冠をイエスの頭にかぶらせ、右手に葦の棒を持たせて侮辱して言った「ユダヤ人の王様、万歳と(29)。さらには、イエスに唾をかけ、今度は葦の棒を取り上げて頭をたたいた(30)。このようにして、イエスに対して不要な侮辱暴力をしてから、十字架につけるために連れ出すのであった(31)。これは、ローマ人たちが普段手を焼いているユダヤ人へのウサ晴らしでもあった。ピラトの保身、祭司長や長老のねたみ、兵士たちのウサ晴らし・・・イエスの十字架への道は、人間のあらゆる罪が露わにされる機会となった。私たちも、保身、ねたみ、ウサ晴らしなどの罪にまみれた者だ。そうした罪がイエスを傷つけ苦しめ十字架につけたことを覚えたい。

22日(木)マタイ27章32-38節
 クレネ人シモンは、イエスの十字架を代わりに担ぐことになった人物だ(32)。それもローマ兵によって「無理やり」背負わされた。だが、彼の妻と息子が後にパウロと親しくなり、ローマの教会で熱心に仕えるようになったことが、ローマ人への手紙でわかる無理やり背負わされたシモンだが、そこから導かれてキリスト者になったということかも知れない。そうであるなら、不思議な神の導きではないか。ゴルゴタ(どくろ)と呼ばれる丘に到着すると(33)、兵士たちは苦みを混ぜたぶどう酒をイエスに飲ませようとした。イエスはそれをなめただけで、飲もうとはしなかった(34)。これは、酸味の強い酢に近い安物である。詩篇69篇20-21節によれば、渇いた時に酢を飲ませるというのは、嘲りや恥辱を与える行為であったとわかる。「これはユダヤ人の王である」との罪状書きにしても悪ふざけが過ぎている(37)。イエスは、私たちがしばしば受ける裏切りや侮辱、迫害、暴力などをみな受けられて死なれた方。だから、私たちの痛み、苦しみ、弱さをすべてよくご存じでなのだ。

23日(金)マタイ27章39-44節
 通りすがりの人々が頭を振りながらイエスをののしりり(39)、「おまえが神の子なら自分を救ってみろ。そして十字架から降りて来い」と言った(40)。そして、祭司長、律法学者、長老たちも一緒になってイエスを嘲って、十字架から降りられたら信じようなどと言った(41)。イエスは十字架から降りることも当然できたはずである。だが、イエスが降りたらどうなるのか?身代わりの十字架は無くなり、人の救いのみわざは失われるイエスが自分を救えば、人類は救われないのだ。それどころか、このように神を侮辱する者を一掃することも容易かったはずである。やはり、彼らは自分で何を言っているのかも分かっていない。できるのにあえてしない・・・ここに神の愛忍耐がある。わからず屋の私たちのために、主イエスはあらゆる侮辱に耐え忍ばれた。十字架のイエスを見つめるほどに、私たちの罪深さに気づかされ、また、その深い愛ととてつもない忍耐に心からの感謝が生まれる

24日(土)マタイ27章45-50節
 十字架上のイエスの姿が語られている。昼の12時から午後3時には、闇が全地をおおった。そして3時頃、イエスは大声で叫んだ。「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と(46)。この際、「エリ、エリ」と父なる神を呼んだので、「エリヤ」を呼んでいると誤解する者たちもいた(47)。この後、イエスは大声で叫んでその霊を父なる神に渡された(50)。 さて、主イエスの叫びは、本来であれば罪人であり、滅びの子である私たちが叫ぶべき内容だ。主イエスは、私たちの代わりに神との交わりから絶たれる道を歩んでくださったのだ。罪ゆえに滅ぶ者たちの叫びをご自分の叫びとされたのだ。だから、私たちはこの叫びの代わりに「アバ、父よ」と、親しみを込めて父なる神に祈ることができる者とされた!!イエスの尊い犠牲とその深いを愛のゆえである。心から感謝したい!

25日(日)マタイ27章51-54節
 イエスが十字架上で死なれると、その途端に神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂けた(51)。神殿の垂れ幕は、「至聖所」と呼ばれる神の箱が安置された最も聖なる場(神の臨在の間)と、その手前の部屋を仕切る垂れ幕であった。その幕の内側には、普段は大祭司も入ることはできなかった。そこは聖なる聖なる場なので、勝手に入って人が自分を滅ぼすことがないように、その垂れ幕で仕切られていたのだ。そして、年に一度だけ、動物の血を携えて、定められた厳粛な手続きをもってのみ入ることが許された。だが、イエスの十字架の死によって、神の臨在される至聖所への道が開かれた。神の小羊なるキリストの血潮によって、誰でも大胆に父なる神の座に近づけるようになったのだ。それだけでなく、地が揺れ動き、岩が裂け、眠りについていた聖なる者たちのからだが生き返るという驚くべきことが起こった(52-53)。百人隊長はこれらの一部始終を見て、「この方は本当に神の子であった」と言った(54)。神の子キリストの十字架のみわざを信じて、大胆に神の恵みの座に近づこう!

26日(月)マタイ27章55-61節
 十字架につけられたイエスの姿を、大勢の女性たちが遠くから見守っていた。ガリラヤから来て、イエスに仕えていた女性たちだった(55-56)。イエスのもとには12人の弟子の他にも、多くの弟子たちがいたし、このようにイエスに仕える女性たちもとわかるのだ。中には名前も記されていない女性もいただろう。目立たないかもしれないが、このような女性たちの献身は、主イエスに用いられたに違いない。また、アリマタヤのヨセフという人物は、イエスの遺体を引き取って埋葬した(59)。彼は裕福であったので、イエスを葬るために自分の新しい墓を提供することができた(60)。12人の弟子だけではないのだ。有名な者たちだけが用いられたのではない。名前も出て来ない者かも知れない。しかし、そのような無名の献身者たちによって宣教の働きは進められてきたのだ。あなたもその一人である!

27日(火)マタイ27章62-66節
 祭司長、パリサイ人らは、ピラトのもとに集まり相談をしていた(62)。それは、イエスが『三日目によみがえる』と言っていたのを思い出したからであった(63)。彼らは、前の惑わし以上に、復活という惑わしが破壊力があると理解していたのだ!皮肉である。それゆえ、彼らはピラトに頼んで、三日目まで墓の番をするよう命じて欲しいとお願いした。弟子たちが遺体を盗み、「よみがえった!」と広めるかも知れないと心配したからである。ピラトは、これに応じて、番兵を出して墓の番をさせることにした。繰り返すが、彼らは「イエスの復活」という出来事の威力を恐れていたのだ(64)。イエスの弟子たち以上に、復活の知らせが宣教に有効であることを彼らが知っていたのは皮肉である!イエスの復活は、実に宣教において必要不可欠な真理である。私たちは宣教における「復活の威力」を信じているだろうか。

28日(水)マタイ28章1-4節
 安息日を終え、週の初めの日(日曜日)の明け方、マグダラのマリアと別のマリアが墓を見に行った(1)。その時、大きな地震が起こったその理由として、主の使い(天使)が天から降りて来て、墓石をわきに転がしその上に座ったからであった(2)。天使でさえ、このような力を当たり前に持つのだから、神の偉大さは計り知れない。3-4節によれば、その姿自体、稲妻のようであり、衣は雪のように白かった屈強な番兵たちでさえ、その恐ろしさのゆえに震え上がり、死人のようになったのだ(4)。神の力の前には、鍛え上げられた精鋭部隊も何もできない。その存在だけで震えあがり、死を意識せざるを得ないことがわかる。主の使いを前にしただけですら、このようになるのだ。復活の朝・・・神はその力を現わされ、御子イエスが神の御子であることを証明された。死もいのちも、この方のみこころ次第である。あなたは何を恐れているのだろうか?この方の御前に出て、本当に恐れるべきものは、このお方だけであることを覚えよう!

29日(木)マタイ28章5-7節
 5節にて、天使たちは、墓を訪れた女性たちに言った。「あなたがたは、恐れることはありません」と。ここで、文法上「あなたがたは」が強調されていることは興味深い!ローマの番兵(精鋭部隊)は、恐れて死人のようになったのだ。屈強な者たちは恐れて震えあがったのだ。だが、それとは対照的に「あなたがたキリストを信じる者」は、神の使いを全く恐れる必要がないのだ!!むしろ、朗報であった。味方なのだから!その上で、捜しているイエスは、よみがえられたと明言された(6)。彼女たちに、実際に空になった墓を見させ、その目で確かめることまでさせ、確信を持たせてくれたのだ。それから急いで行って、弟子たちに伝えるようにと命じられた(7)。復活は、信じない者にとっては「脅威」であったが、信じる者にとっては「勝利」であり、最高に励まされる真実だ。あなたは、何も恐れる必要がない!御使いも、復活のキリストも、父なる神もあなたとともにあるのだから

30日(金)マタイ28章8-10節
 墓を訪れた女性たちは、天使を前にして恐れもあったが、それ以上に大きな喜びが与えられた!というのは、「イエスがよみがえった」という御使いのことばを受け入れたからである(8)。すると・・・ なんとイエスが現れ「おはよう」と言って彼女たちに声をかけられた。脚注にて「喜びがあるように」との別訳があることがわかるが、元来の意味が「喜び」であり、挨拶にも用いられていた。イエスにとっては予定通りの復活で、何気ない挨拶であったかも知れない。だが、イエスがよみがえったという奇跡を前にして、女性たちはまさに大いに喜んだのだ。さらに、イエスは「恐れることはありません」と、御使いと同じことを伝えている。そして、復活前と同様、ガリラヤにてイエスは弟子たちを待つと言われたのだ。神の計画はこのように完全だ。それを信じて受け入れる者は、この女性たちのように「恐れ」から解放され、「大きな喜び」に生きることができる!!

31日(土)マタイ28章11-15節 
 番兵たちは急いで都に戻り、事の次第を祭司長たちに報告した(11)。それで、祭司長らは協議して対策を練り、彼らは番兵たちを買収することにしたのだ。彼らは多額のお金を番兵らに与えて言った。『弟子たちが夜やって来て、われわれが眠っている間にイエスを盗んで行った』と言いなさいと(13)。地震が起こり、天使が岩を動かしたなどとは、決して言わせたくなかったのだ。信じる者を起こさせないために。そして、甘言も添えている。「もし、総督の耳に入っても、うまく説得してやるから、心配するな」と(14)。それで、彼らはお金を受け取りその通りにした。興味深い事に、15節では、「それで、この話は今日までユダヤ人の間に広まっている」とある!作り話は辻褄が合わず、嘘はばれていくものだ。眠っている間だったのに、誰が盗んだのか、なぜ知っているのだろう?この買収話も公然の秘密となり、かえってイエス復活の信ぴょう性は格段に高くなった!!神のみわざは人の策略のはるか上を行くことを心に刻んで歩もう。


引用元聖書
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