東村山福音自由教会 ✞ Sunrise Chapel: 毎日の聖書【11月】
主が人の子らを、意味もなく、苦しめ悩ませることはない。(哀歌3:33)

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2025/11/21

毎日の聖書【11月】

1日(土)使徒21章27-36節
 パウロのエルサレムにおける苦難が既に始まっている。アジアから来たユダヤ人たちは、宮でパウロを見つけると群集を扇動して彼に手をかけ、彼が神聖な場所を汚していると訴えた。それは、エペソ人のトロフィモを「パウロが宮に連れ込んだ」と思ったからであった。しかし、29節を見ると、パウロと彼が一緒にいるのを見かけたという点のみで、そう思っただけであった。大抵の場合、事実や真実は問われない。本当はどうだったかではなく、訴えたい人が見たいように見るのであり、自分たちの主張に都合よく引っ張るものだ。そして、それをもとに、パウロを殺そうとさえしている。人の悪意とはなんと凶悪なことか。私たちは、感情で物事を決めず、事実、真実を見極めていく者となろう!しかし、神は助けも備えておられる。ローマの千人隊長がその混乱を知って駆けつけ、パウロへの暴力がやんだことがわかる(32)。尚、この隊長が調べようとしても、喧騒と混乱の中で、確かなことは分からなかった。「群集はそれぞれ違ったこと」を叫んでいたからだ。人の訴えは、なんと主観的で歪んでいることだろうか。神のジャッジこそが正しく公平であることを、厳粛に受け止める者となろう。

2日(日)使徒21章37-40節
 パウロの落ち着き払った姿勢、丁寧にお願いする姿勢に教えられる場面だ。パウロはローマの千人隊長にお願いをした。いきなり自分の主張を訴えるのではなく、「少しお話ししてもよいでしょうか」と彼にお伺いを立ててもいる(37)。少しも傲慢でなく、謙虚である。なお、この隊長は、パウロがローマの市民であることを知らず、暴動を起こして4千人の暴徒(暗殺者)を率いて反乱を起こした人物かと勘違いをしたようだ(38)。パウロはきちんと自分の身分、元を証し、そして人々に証しの機会を持ちたいと願ったのだ(39)。パウロの目的、使命はいつもぶれることがない。私たちもそうでありたい!しかも、その際、パウロは隊長に合わせてギリシア語で話しかけている(37)。このような、礼儀正しく、未信者であろうと異邦人であろうと、相手を敬う姿勢は、私たちクリスチャンが学ぶべき姿勢である。どんな時でも傲慢であってはならない。相手に対するこの敬意の姿勢から、百人隊長も彼に許可を出し、パウロは証しをすることができたのだ。

3日(月)使徒22章1-5節
 パウロはなんと正直なことか。自身の黒歴史を人々への証しのために正直に語った。彼こそは、ここにいるユダヤ人以上に律法について熱心だった(3)。そして、キリスト信仰の道を迫害し、男女関係なく牢に入れた。いや、それだけではない!死にまでも至らせたと告白する(4)。ダマスコに向かったのも、実にその目的のためであったことも説明している。つまりパウロは非情な迫害者であったのだ。キリストを信じる者を捕らえ、牢に入れ、そして死にまで至らせた。イエスがキリストであると知って、信じている今のパウロからすれば、自分がしてきたことはとてつもない悪行である。それは隠したい恥のはず。だが、彼はこの事実を隠さない。自分こそ罪人中の罪人だと認めている。それが証しのために必要だからだ。私たちはともすると、綺麗ごとだけで証ししようとしていないだろうか?綺麗ごとだけでキリストの十字架の赦しの恵みが伝えられるのだろうか。

4日(火)使徒22章6-16節
 パウロはダマスコへの途上で倒れた時のことを証しして話した。天からのまばゆい光が彼を包み、彼は倒れてしまったのだった。それから、主イエスの声がして、「どうしてわたしを迫害するのか」と問われたのだ(7)。パウロは目が見えなくなっていたが、手を引かれながらダマスコへと導かれた。そこでパウロは、イエスの声の通りに従った。敬虔なアナニアという人物と出会い、彼に助けてもらったのだ。アナニアはパウロのそばに立って「再び見えるようになりなさい」と宣言した。すると、パウロは見えるようになったのだ(13)。そして、アナニアを通して、パウロは神のみこころを知ることになったのだ。彼の信仰の目は開かれ、義なるキリストが見えるようになった。真実を知ったのだ。それは神による召しであり、パウロが証し人となって歩むようにと神が得られた出来事だった。パウロはただ事実を人々に向かって話している。脚色もせず、自分の罪も隠しもしなかった。私たちは、ただ神が自分になさったことを語ればいい。脚色しなくていい。神のなさったこと、神の恵みをそのまま語れば十分である。むしろ、その真実で正直な証しを神は求めているのではないか。

5日(水)使徒22章17-21節
 これらの出来事は、9章にあるパウロの回心の出来事には記載されていなかったことだが、パウロの口から証しされている。ここでは祈っている最中に夢心地になり、主の幻を見たことが証しされている。主は幻のうちにパウロに語りかけ、急いでエルサレムを離れるように言われたのだ(18)。人々がパウロの証しを聞き入れないからであった。だが、パウロはこの時、19-20節にあるように、神に反論した。きっと証しをすればなんとかなると考えたのだ。多くのキリスト者を迫害し続けてきた自分のような者でさえ、キリストを信じたし、そのことをエルサレムのユダヤ人たちも知っている!だから、その自分が証しをすれば、きっと人々は救われるとパウロは考えたのだ。ところが、主のご計画は違ったのだ。21節で、主は再び「行きなさい」と言われた。それは、異邦人のところに遣わすためであった。人の計画と神のご計画は異なっている自分の目に良いと見えることでも、神の計画ではないことがあるのだ。私たちが思い描く計画ではなく、主の良いとされる道を大切にしよう!!

6日(木)使徒22章22-30節
 パウロの証しを聞いていた人々だが、「神があなたを異邦人に遣わす」という話を聞いた時、ユダヤ人たちは強く反応し、「地上から除け、生かしておくべきではない!」と大声で言い始めた(22)。神が異邦人を選ばれるということに対して、ユダヤ人たちは我慢ならなかったのであろう。この後、ローマの千人隊長はパウロを取り調べ、むちで打とうとする。いわゆる拷問であろう。だが、パウロが「生まれつきのローマ市民」であるとわかると、恐れを抱いてそれを撤回した(29)。ユダヤ人もローマの隊長たちが、どれだけ立場や所属というものに縛られ、「偏見の虜」であるかを示される。一方でパウロは、民族の違いも立場も関係ない。すべての人に対して、キリストの福音を証しし、救われて欲しいと願っている。あなたはどうだろうか?外国人に対して、異質な人に対して、どのような姿勢を持っているだろうか。

7日(金)使徒23章1-5節
 1節で、パウロは最高法院の偉い者たちに向かって堂々と語った。それは、自分が今日まで「あくまでも健全な良心にしたがって、神の前に生きて」きたということだ。このように告白することは簡単ではないだろう。しかし、御霊の助けをいただいて少しでもこれに近い歩みをさせていただきたいと願う。これに対して大祭司アナニアは、パウロのその口を打つように命じた。気に入らない発言を力で押さえつけようという罪深い行動である。パウロはこの大祭司に対しても決してひるまなかった。パウロは彼に向かって「白く塗った壁よ」と呼びかけている(3)。老朽化した壁は、しっくいを白く塗りたてて見た目を良くすることがあった。だが、それは中身は何も変わらないボロボロのままである。私たちも「白く塗った壁」になってはいけない。神は白くきれいに塗られた外側ではなく、その心や日々の生活をご覧になっている。耳に痛い・・・。だが、パウロのように、神の前に健全な良心で生きる者でありたい。祈り、みことばに生きていこう。内側から造り変えていただこう!

8日(土)使徒23章6-10節
 パウロには、なんとかしてローマに行きたいとの願いがあった。それは「神のみこころ」でもあった。次の11節で、あなたは「ローマでも証ししなければならない」と神が語っておられる通りである。それゆえ、パウロはここでユダヤ人たちの手によってさばかれ、終わってはいけなかった。そこに、神から鋭敏な知恵と不思議な助けが与えられたのだ。6節で、パウロはあることに気づいた。自身を殺そうと囲む者たちの中に、サドカイ派の人々とパリサイ派の人々が混じっていることが分かったのだ。彼はそこに脱出口を見出した!彼は大声で、自分が「死者の復活という望み」のことで、さばきを受けているのだと言った。パリサイ派は死者の復活を大事なこととし、サドカイ派は信じないとしていたので彼らは敏感に反応した。これにより最高法院は真っ二つに割れたのだ(7)。ついにはパリサイ派の人がパウロを擁護し始める始末だ(9)。この混乱によって、この議会での結論は難しくなり、ローマ政府に託される道が開かれて行った。神は何を用いてご計画を遂行なさるのか、人には本当に分からない。だが、神のご計画は確かに進む。神の最善の計画が進むのだ!信じてゆだねよう。

9日(日)使徒23章11節
11節 その夜、主がパウロのそばに立って、「勇気を出しなさい。あなたは、エルサレムでわたしのことを証ししたように、ローマでも証しをしなければならない」と言われた。
 ユダヤ人たちの殺意にさらされ、大混乱が起こった日の夜。主はパウロのそばに立って励ましてくださった。最初のことばは、「勇気を出しなさい」だった。パウロも人間である。肉体の弱さもあったし、疲れを覚えることもあるだろう。弱気になることもあったはずだ。だが、主は言われた「勇気を出しなさい」と。人のことばではない。世界の造り主、未来もすべてご存じの主のことばだ。そして、主は将来を語られた。あなたは、エルサレムでわたしのことを証し下ように、ローマでも証しをしなければならないと。これは、パウロにとっては大いなる希望だ。彼はローマに行くことを長らく切望していた。それも宣教のために行きたいと願っていた。主はそれをさせてくださるのだ。彼は命を狙われ続ける絶望的に見えるこの状況で、ただ神のことばを信じ、勇気を出したに違いない。主はあなたにも語っておられる!「勇気を出しなさい、あなたにはこれからもなすべきことがある!」と。

10日(月)使徒23章12-22節
 パウロの暗殺計画が進められていた。ユダヤ人たちが徒党を組み、40人ほどで陰謀が企てられていた(13)。彼らはパウロを殺すまで「何も口にしない」と呪いをかけて堅い誓をしたと言うのだ(14)。そして、祭司長らのもとに行って直談判し、最高法院と組んでローマの千人隊長に願い、パウロを祭司長らのもとに連れ来るようにという計画だった。しかも、そこで裁いて決めるのではなく、そこに来る途中で殺す手はずだった(15)。なんと恐ろしく、卑怯な手口だろうか!? だが、神はパウロに言われていた。ローマでもあなたは証しをしなければならないと(11)。だから、神のご計画こそがなる。パウロの姉妹の息子が、この陰謀を耳にしたのだ。それこそは主の助けだ。そこでこの青年はローマの千人隊長に情報を入れ、千人隊長は対策をしていくことになるのだ。紙一重である。だが、神の目にはそうではなく、神に従う者はその使命の終わる日まで守られ、支えられるのが当然だ。主が生かしてくださるなら、私たちは生きる。そして、主が眠らせてくださるなら、喜んで眠ろうではないか。

11日(火)使徒23章23-35節
 ローマの千人隊長は、ユダヤ人の陰謀を知り、パウロの命の危険を覚えて、歩兵200人、騎兵70人、槍兵200人を用意するよう指示を出した(23)。また総督フェリクスのもとに無事に送り届けるために馬と手紙も用意をした(24-25)。手紙の内容によれば、千人隊長が見る限り、やはりパウロに死刑にされるような罪は見当たらなかった(29)。パウロと個人的にきちんと対話をするならば、それは当然であった。キリストの愛に立って、苦しむ者を助け、救いの福音を伝えて歩いているだけなのだから。こうしてみると、神のご計画の偉大さをさらに強く感じさせられる。パウロは、まるで皇帝のように大人数の軍隊による護衛をつけてもらえたのだ!!合計470人の護衛兵だ!また、千人隊長が死刑に当たらないと証言をし、それを手紙に記している! 神の守りは豊かで、その使命が全うされるまで、神が定めた時まで、やはり神のディフェンスでしっかり守っていただけると分かる。私たちも反対を恐れずに歩もう。神に従うとき、神が味方であるならば、こんなに豊かな守りがあるのだ。

12日(水)使徒24章1-9節
 これらの箇所には、「疫病のような人間」というタイトルをつけたらいいのかも知れない。総督の指示のもと、ヘロデの建てた官邸に保護されていたパウロ。しかし、大祭司アナニア、長老たち、弁護士らは一緒になって、パウロのことを総督に告訴した(1)。パウロが呼び出され、総督に向かって訴えが述べ始められた(2)。そこで訴えられた内容は、「この男はまるで疫病のような人間で、世界中のユダヤ人の間に騒ぎを起こしている者であり、ナザレ人の一派の首謀者であります」という内容だ(5)。さらに、彼らはパウロが宮をも汚そうとしたので捕らえたのだと言う(6)。これらは明らかにパウロに対する侮辱であるが、当の本人はむしろ神をほめたたえたかも知れない。なぜなら、「疫病」のような勢いで、キリストの福音を証しできていると考えれば、彼が用いられたことがよく分かるからだ。止めようがないほどに、キリストの福音がこの時代の多くの人々に広がったことがよくわかる表現だ。むしろ、そのような速度、勢いで宣教が進むように、私たちも証しをしていきたいものだ!

13日(木)使徒24章10-21節
 総督フェリクスに対してユダヤ人たちは訴え、パウロを処刑しようと願った。しかし、彼らの訴えはウソだらけである。総督はパウロに弁明の機会を与え、パウロも喜んで弁明をした(10)。パウロにはやましいところがなかった。宮でも会堂でも、何かを強要して揉めたり、扇動したりといったことはなかったからだ。また自分に対する訴えについても、何も証拠がないのだ。その意味では、このまま黙っておいた方がパウロにとっては有利だっただろう。ところが、パウロは14節で、ユダヤ人たちが「分派(あるいは異端)」と呼んでいる「この道」に自分が仕えていることを明確に認めたのであった。不利になるかも知れないが、パウロには、このキリストの道を譲る気はなかった。むしろ彼は、この機会に大胆にも総督やその周囲の者に伝道しようと思ったのかもしれない。15節や21節では、キリストを信じるゆえの復活信仰についても明確に告白している。だれが何と言おうと、この道は一つであるこの救いの道は他にない。他のどんなものでも埋められず、代わりはきかない。だから譲れないのだ。私たちもこの道を譲ってはいけない。これしかないのだから!

14日(金)使徒24章22-27節
 総督フェリクスは「この道」についてかなり詳しく知っていたとある(22)。彼なりに興味を抱いていたのだろう。それでフェリクスは理由をつけて裁判を延期した。そして、パウロを監禁はするものの、ある程度の自由を与え、仲間がパウロを世話することも許可した。ここにも「神の守り」があったと言えるだろう。なお、フェリクスはユダヤ人の妻と一緒にパウロを呼び出し、キリスト信仰について話を聞いたとある(24)。ただ、彼は正義と節制、そして来たるべきさばきを聞いた時、恐ろしくなり続きを学ぼうとしなかった。おそらく、彼には後ろ暗いところがあって、神のさばきを詳しく聞くことを恐れたのだ。それだけでなく、フェリクスは賄賂を欲してもいた。そのためにパウロを何度も呼び出していたようだ。興味を持ちながらも、結局自分の罪を向き合わず、福音を受け入れない者は正しい道を歩めず、保身や自分の欲のための行動に終始してしまう。監禁されながらも、何をも恐れず、与えられた使命を果たす喜びに生きていたパウロと対照的である。あなたはフェリクスのような人生を送りたいだろうか?それともパウロのように歩みたいだろうか?

15日(土)使徒25章1-12節
 この地上のさばきは、必ずしも公平とは言えない。主イエスの裁判も不当であったし、パウロもそのような中に置かれていた。ローマの総督には力があったはずだが、やはりユダヤ人の有力者が騒ぐと面倒なことになり、自分の失点につながる。だから、彼らも自分の立場を守ることに必死である。ユダヤ人の有力者たちは、パウロへの殺意を完遂しようと総督に訴え、カイサリアに監禁されているパウロ暗殺しようとしていた(3)。新総督のフェストゥスは、やはりユダヤ人の機嫌を気にしていたが(9)、パウロはただ事実を述べて、自身が無罪であることを伝えつつ(8)、それでも自分に罪があるならそれを引き受けようとさえ言った(11)。パウロは一貫している。キリストを証しする使命と神のみこころに堅く立っていたのだ。だから、パウロはカエサルに上訴した(10-12)。なぜなら、神がローマでも同じように証しするように彼に伝えておられたからである。保身のために正しさを平気で捨てた者たちと、身を献げてでも神のみこころに立とうとするパウロは、あまりにも対照的である!保身に走る者は、神の守りを放棄することになるだろう。私たちはむしろ、神のみこころに立って、神の守りを知る者とされていきたい。

16日(日)使徒25章13-27節
 アグリッパ王と妹のベルニケは、総督フェストゥスのもとを表敬訪問した(13)。こうした高い地位の人々に宣教する機会が、主によって与えられていることは驚くべきことである。私たちには絶望的に思える状況さえ、主は存分に豊かに用いて大いなるわざをなさるのだ。この時、フェストゥスはホットな話題となっているパウロの話を出した(14~)。多くのユダヤ人はパウロを訴えたが、フェストゥスには何が犯罪となっているのか、見つからなかった(18)。それゆえ、彼にはどう取り調べていいかもわからなかったのだ(20)。人間の理性だけでは、どんなに優秀であっても理解できない、議論さえ十分にできないのがキリストの福音だと分かる。これらの事実は、福音が神の知恵によらなければ理解できない霊的なものであることを物語っている。22節にあるように、これらのことから、アグリッパ王はパウロに
興味を持ち、話を聞いてみたいと思ったのだ。あなたには、人々が「あなたの話を聞いてみたい」と思えるものを持っているだろうか。神の福音を隠さずに生きる時、福音こそはその輝きを放ち、人々が興味を持っていくものではないだろうか。

17日(月)使徒26章1-11節
 アグリッパ王はパウロの話を聞くべく機会を与えた(1)。またとない機会であり、パウロも「王様の前で弁明できることを幸いに思います」と言っている(2)。パウロは自身が厳格なパリサイ派の人間として歩んで来たこと、そして今は、神の約束のものを得たいという望みを抱いているがために、ユダヤ人たちから訴えられていることを語る(7)。これは真実であり、旧約聖書が指し示す約束の救い主こそ、イエス・キリストである。そして、彼はもともとは自分もイエスに対して反対する側であったことを伝えている(9)。そして、キリスト者に対してどれほどひどい迫害をしてきてしまったかも、やはり正直に述べているのだ(10-11)。パウロはウソをついていない。自分の恥も悪も正直に伝えている。その上で判断を仰ごうとしている。まっすぐに福音を証ししようとしているのだ。カルト宗教の中には「あなたのためにウソをついたのです」と、ウソを正当化するものも多い。むしろ、人を救いに導くためにはウソや不正さえ正当化する。だが、神は聖なる方、真実なる方だ。人を騙して救う道などない。私たちもパウロのように手段においてもみこころに沿って伝えよう

18日(火)使徒26章12-18節
 パウロはイエスの声を聞いたあの出来事をアグリッパ王に話した。太陽よりも明るい光に照らされ、パウロは地に倒れた。その時、主イエスの声を聞いたのだった。そして、イエスはパウロにはっきりと使命を語られた。その使命とは主イエスと出会ったこと、そして、主がパウロに示されたことについて、伝えていく奉仕者、証し者となることだ。だからパウロはまさに、今この使命を果たしていることになる。私たちもまた、それぞれ異なる方法で主イエスと出会い、この方を信じている。だから私たちもまた、イエスと出会った事実、そして主イエスが私たちに示してくださったことについて、伝える奉仕者、証し人となるよう召されているのだ。この使命を私たちも果たす者でありたい。なぜなら、主イエスと出会った者にしかできない使命であるからだ。この使命を果たした時、たった一人に人であっても心の目が開かれ、闇から光に移され、サタンの支配から神に立ち返り、罪赦されて聖なるものとされるなら、こんなに嬉しいことはない(18)。

19日(水)使徒26章19-23節
 神の救いはすべての人のためのものである。そこに差別があってはならない。神はえこひいきをせず、この世界のすべての人が救われることを誰よりも望んでいる。それはとても嬉しいことである!パウロはかつては、無知なゆえに神に背き続けていた。だが、天から啓示を受けた今は、決して背かないと決めた(19)。だから、ユダヤ地方全体、そして異邦人にまで、福音を宣べ伝えたのだ(20)。だから、「小さい者」にも「大きい者」にも証しをしているのだ。しかも、それは旧約聖書がずっと語って来た真実だ(22)。それでいながら、旧約聖書を信じるはずのユダヤ人たちが、その霊的盲目さゆえにこのことでパウロを攻撃し、迫害をしているのが現実であった。パウロはこの現状や自分の置かれている状況を説明することを通してさえ、なお、アグリッパ王やフェストゥス総督らにも救われて欲しいと切に願って証ししているのである。まさに、生きることはキリストである。

20日(木)使徒26章24-32節
 パウロはとことん福音を伝えていた。訴えられていることについて弁明の機会を与えられていたのだが、彼は自分の無罪の弁明をしなかった。むしろ、弁明の機会を利用して、彼はキリストの福音の証しをしている。彼の中で、主からの使命は明確だったのだ。彼はフェストゥスからは、「頭がおかしくなっている」とも言われた(24)。助かる機会があるのに、助かる機会を生かさず、伝道の機会にしているのだから、そう言われるのもうなずける。だが、パウロは常に冷静で、使命も目的も明瞭だ。29節にあるように、パウロの願いは、「今日私の話を聞いておられる方々が・・・みな私のようになってくださること」であった。だから、彼はこの絶好の機会を大事にしたにすぎない。このような彼の証しする姿が、またそのことばが、現代の私たちにも伝わっているのは、神の摂理であろう。どのような立場の者にも、まっすぐに福音を伝え、その救いを心から願う姿に感動を覚える。彼は自分より、アグリッパ王や総督の救いを願って語っているのだから。

21日(金)使徒27章1-12節
 パウロは船にてイタリアへ連行されることが決まった。それもまた神の導きであることは、後程わかるのだが・・・。著者であるルカは「私たちは・・・出発した」等と表現して、この船に同行していたことを示している。3節によれば、カイサリアを出た一行は、シドンに入港している。なお、その時に親衛隊のユリウスはパウロを親切に扱い、友人たちのところに行ってもてなしを受けることを許した。この親切な扱いには、様々な背景があるだろう。パウロがローマ市民であること、アグリッパ王らが興味を抱いてパウロの話を聞いた事実、実際に彼は無罪であると総督もアグリッパ王も思っていたことなどだ。それは神の摂理と守りであると言えるし、パウロがキリスト者とされて変えられ、彼が伝えようとする福音の力に、人々が無意識のうちに引き寄せられていたということもあるだろう。この後も、囚人であるはずのパウロが、なぜか船旅のリーダーであるかのようにさえ見える記述が続く。神を知る者は、ここぞという時に強いのだ

22日(土)使徒27章13-26節
 航海の危険を察知していたパウロは9-10節で警告している。時期的なものであろう。しかし、パウロの言うことよりも船長らのことばに従った結果、暴風に見舞われ航海は難航した。やがて、18-19節にあるように積荷や船具を投げ捨て始めた。しかし、太陽も星も見えない日が何日も続いたので、助かる望みはもはや完全に絶たれようとしていた。心がなえてしまうような状況だ。空腹も手伝ったことだろう。結局、パウロの指示に従っておけばこの損失と危険を通らずに済んだはずであった(21)。ただ、パウロはここから彼らを励まし、リーダーシップを発揮していく。「元気を出しなさい」と言い、その後、いのちを失う者は一人もいないのだと伝えている。彼が確信を持って言えた理由は一つだ。23節にあるように、主の御使いから示されたからであった!パウロだけでなく、同船者たちも神はパウロに与えていると言われている。それは、パウロに従ってともにある以上は守られるということ。神の人と、神の人に従う者たちは守られていく。私たちが神に従っている時、その私たちとともに歩もうとする者も守られていくと言える。あなたが神とともに歩むことが、あなたの友を守ることになる

23日(日)使徒27章27-32節
 「皆さん、元気を出しなさい。私は神を信じています」と励ましたパウロ(25)。このことばは、危機的な時ほどインパクトがあり、心強かったのではないだろうか。私たちも、どんな時にもこのように語れる者でありたい!!窮地の時こそ、クリスチャンにとってはチャンスになり得ると、改めて思わされる。船に乗っていた者たちは、最初の頃はパウロに従わず、大変な目にあった。だから今度は、パウロのこのことばを信じて、従い始めたようであった。30節によれば水夫たちが逃げ出そうとしたのだが、兵士たちがパウロの助言に聞き従ったことで、水夫の勝手な脱出を防ぐことができたのであった。神を信じていない者たちでも、神を心から信じて従う者がいる時、その人を通して神のみこころに一緒に立てるのならば幸いである。ヨセフがエジプト人に仕えた時、ヨセフに任せたことによって、その家全体が守られ祝されたのが良い例だ。水難の危機にあって、神に従うパウロこそが皆の頼みの綱となっている様子に、とても教えられ励まされる。

24日(月)使徒27章33-38節
 33節でパウロは、海を漂う船の上にあって、皆に食事をするように勧めた(34)。彼らは14日もの間何も口に入れず、待ち続けていたからであった(33)。また、パウロは助かると確信をしていたので、もう食べて良いと判断したのだ。「これであなたがたは助かります」とのパウロのことばに、人々はどれほど励まされたことだろうか!「頭から髪の毛一本すら失われることはありません」とまでパウロは言い切った(34)。そして、パンを取り、全員の前で神に感謝の祈りをささげてから、裂いて食べ始め、皆も元気づけられ、パンを食べたのであった(35)。十分に食べた後、麦を海に捨てて船を軽くした。神の人は、どんな時でも人を勇気づけ、元気づける器となれる。あなたは今日、誰を元気づけることができるだろうか?祈りながら考えてみよう。

25日(火)使徒27章39-44節
 暗い海の夜が明けた。地理的には誰にも分らなかったが、とにかく入り江を見つけたので彼らはそこに乗り入れようとした(39)。ところが、二つの潮流の狭間にて、浅瀬に乗り上げてしまい、船は座礁してしまったのだ(41)。そして、船尾が激しい波で壊れ始めてしまったのだ。そのような危機的な状況にあっては、海に飛び込み、泳いで上陸するよりほかはなかった。だが、囚人たちの護送船である。彼らが逃げてしまうことを考えた時、兵士たちは囚人をみな殺してしまうのが得策だと思ったのだ(42)。ところが、ここでも神の人パウロの存在が際立つ。と言うよりも、神がパウロを確かにローマに行かせる計画をお持ちなので、ここでパウロは死ぬわけはなかった。そして、パウロとともにいる者たちもその恩恵にあずかることになった。というのは、百人隊長がパウロを助けたい思っていたため、兵士たちの殺害計画を制止したからであった。こうして、パウロだけでなく他の囚人たちも命が守られた。あなたが置かれている場所は、あなたへの神の恩寵のゆえに、その場所全体に主の守りや祝福がもたらされることがある。あなたの祈り、あなたの隣人愛を主が知っておられるからである。

26日(水)使徒28章1-6節
 パウロはもはや不死身なのか?そう思えるほど、神のご計画の確かさが語られ、証しされている。パウロたちが泳いで上陸した地はマルタ島であった(1)。そこで島の人々の親切に助けられた。ただ、その中で一つの出来事が起こった。火をたいていた際に、一匹のまむしが這い出して来て、なんとパウロの手にかみついたのだ(3)。それで島の人々は皆、パウロは死ぬだろうと思いみ、「この人はきっと人殺しだ。海からは救われたが、正義の女神はこの人を生かしておかないのだ」と言った(4)。だが、正義の女神などという偶像が、生けるまことの神にかなうはずもない。パウロは何事もなかったかのように、まむしを火の中に振り落とし、その後も何の害も受けなかった(5)。それゆえ、人々は「この人は神様だ」とさえ言い始めたほどであった(6)。もはやパウロも、またかと思ったのではないか。人々から殺されそうになっても、水難に遭っても、まむしにかまれても・・・自分は神のご計画の通りにローマに行くことになるから、それまでは死なないとわかっているのだ。なんと圧巻な神の力であろうか!!神から与えられた召し、使命があるなら、恐れずにその道を進もうではないか!神のご計画は必ずなるのだから!

27日(木)使徒28章7-10節
 パウロはまた、マルタ島にて病の者をも癒した。島の長官プブリウスの父は、発熱と下痢で苦しみ、寝込んでいた。パウロは彼のところに行って手を置いて、祈り、癒したのであった(9)。このことがあって後、島にいた病人たちはパウロのところにやって来て、癒しを受けた。それらを通して、このマルタ島にも福音が届けられたことは主のみわざであった。人々は彼らに深い尊敬を表し、パウロたちに必要なものも用意してくれた(10)。確かに船は難破し、自分たちの計画にはない島に流れ着いたのだが・・・それは神の予定されていた「神の航路」であったと言えるのではないか?私たちの思いもよらないところに、神は遣わし、また福音を届けてくださる。神とともに生きる者は、どこに行っても、どんな時でも用いられるのだから、私たちも「なぜここに?」「なぜこんな境遇に?」と思える時にも、神がその場におられることを覚え、神に期待してみこころを行おう!!

28日(金)使徒28章11-16節
 マルタで三カ月が過ぎた頃、ようやく船で島を発つことになった。途中、プテオリに入港すると、そこで兄弟たちを見つけたルカやパウロらは、勧められるままに彼らのところに七日間滞在をしている(14)。神を信じる者たちは、どこに行っても互いに兄弟姉妹である。それは本当に心強く、感謝なことである。兵士たちも、もはや何も文句を言わずに許可をしたのであろう。パウロがいなければ生きてさえいなかったかも知れないのだから。そしてついに、ローマに到着したのであった。ローマでは、パウロの到着を知った主の弟子たちが彼らを出迎えた。ついに、パウロが行きたいと願っていたローマへの訪問が実現し、神から語られていた通りに、ここで証しをする時が来たということだ。16節によれば、監視こそ付いてはいたものの、パウロは一人で生活することを許され、ある程度の自由が与えられていた。それもまた神の備えである。神の恵みはどこに行っても、そこに絶えずあるのだ。

29日(土)使徒28章17-22節
 パウロはローマにて、ユダヤ人のおもな人物たちを集め、いきさつを話した。自分は先祖の慣習に反対するようなことはしていないこと。ローマ人の取り調べにおいても死に値する罪がないとはっきりしていること。しかし、ユダヤ人の反対に遭って、仕方なくカエサルに上訴していることなど。何よりも彼は20節でこう語る。「私がこの鎖につながれているのは、イスラエルの望みのためです」と。つまり、パウロは善意と良心にて歩んでいるのに、反対に遭い、拘束されているのであった。なぜ、こうしたことが起こるのだろうか?それは、世が罪によって歪んでいるからである。正しい人が虐げられ、愛の人が妨げられ、用いられている人がねたまれ攻撃されるからである。その代表が主イエスであり、パウロであった。だが、より深い神の恵みを見落としてはならない。主イエスは罪人たちの手により、十字架で殺されたが、それが救いのみわざとなった!パウロも迫害の中でも喜びを失わず、福音を語り続けたことで、多くの者が信じ、また励まされていった。私たちが不当な苦しみに遭う時、そこで神の愛と真実に生きることこそ、最高の証しの機会になることを忘れないでいたい。

30日(日)使徒28章23-30節
 パウロのもとに大勢のユダヤ人が来て、パウロは彼らに神の国を証しし、朝から晩までイエス・キリストについて旧約聖書から説き明かした(23)。なんとか彼らが正しい理解を持てるように、説得を試みたのであった。そして、ある人々は信じて受け入れ、ある人々は信じようとしなかった(24)。それはイザヤ書6章を引用しながら、その預言が示す通りであるとパウロは語った。いつの時代にも、福音を聞いても聞き入れない者は起こるのであった。見てはいても知る者とならないのであった。それゆえ、この救いはユダヤ人が拒み続けるので、異邦人へ送られることになったと彼は宣言した(28)。なお、パウロはまる2年の間、自費で借りた家に住み、訪問者を迎えて伝道した。しかも、少しもはばかることなく、妨げられることなく(31)。この2年は神がくださった大きなチャンスであった。パウロはこれを喜び、本当に幸せな思いの中で過ごしたのであろう。彼の望む方法ではなかったが、彼が一番したいと願った正しい良いことは、確かにかなえられたのであった。神は真実な方である!


引用元聖書
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