それにしても、17節、18節ともに、どちらもとても難しいことを命じられていると感じますよね。本当にそう思います。ただ、パウロもこれらが簡単に実践できないことは分かっていたでしょう。そこで、具体的なやり方、考え方も示してくれています。
19節 愛する者たち、自分で復讐してはいけません。神の怒りにゆだねなさい。こう書かれているからです。「復讐はわたしのもの。わたしが報復する。」主はそう言われます。
難しいと思う時に、このみことばを思い出したいと思います。「自分で復讐してはいけません」と。なぜならば、唯一復讐する権利を持っておられるお方は、全知全能で公平・公正なお方、神様だけであるからです。また「神の怒りにゆだねなさい」とも教えられています。神の怒りこそは完全に正しい公平な怒りだからです。「義の怒り」だからです。そして、罪を犯した人に対する復讐、すなわち報いもまた、罪に見合った公正なジャッジから来るものだからです。復讐ではなく罪への正しいさばきと報いですよね。少しの歪みも偏見も差別もないからです。
パウロはそれを単に自分の考えとして紹介してはいません。彼はきちんと旧約聖書、申命記32章35節から引用して、神ご自身が「復讐はわたしのもの。わたしが報復する。」とおっしゃっているのだと説き明かしています。
それとともに、神ご自身の別のことばを紹介し、私たちが復讐に心が奪われないように、そこから守られ解放される道を説き明かしています。
20節 次のようにも書かれています。「もしあなたの敵が飢えているなら食べさせ、渇いているなら飲ませよ。なぜなら、こうしてあなたは彼の頭上に燃える炭火を積むことになるからだ。」 「彼の頭上に燃える炭火を積む」との表現については、詩篇140:10をお開きください。「燃える炭火が彼らの上に降りかかりますように。 彼らが火の中に 深い淵に落とされ 立ち上がれないようにしてください。」とあります。これらは、悪しき者に対する神様の復讐を示す表現です。つまり、こういうことです。
あなたの敵が飢えている時に食べさせ、渇いている時に飲み物を与えるという行為こそ、あなたがたにできる最高の「復讐」であると。やられたらやり返したいと強く思うのが人間です。負けっぱなしは嫌です。勝利したいと願うかも知れません。だとしたら、確実に勝てる方法がこれなのです。あえて正しい良いことを復讐として返せと聖書は語っています。これなら100%勝利を得ます。もちろん、この場合の復讐は、もはや悪意ある復讐ではありません。 ところが効果は絶大で、この方法こそ、相手が自分のした悪を最も意識させられる方法なのです。その結果、悔い改めに最も近づける道となると言えます。
逆に、悪に対して悪を返す場合、相手はさらに強くやり返して来るでしょう。自分の罪深さを覚えるよりも、怒りと憎しみを増し、報復合戦は終わりが見えなくなります。
しかし、悪に対して善を返す場合、もはや同じ土俵にはいません。神様の御前にあってこの悪に勝利をしたのであって、相手が自分のした悪を恥じ入るようにさえなります。相手は良心の呵責を感じ、悔い改めに導かれる可能性をもたらすでしょう。だとするならば、私たちは明らかに、悪に勝利したことになるのではないでしょうか。
ですから、21節にこのような結びがあります。
21節 悪に負けてはいけません。むしろ、善をもって悪に打ち勝ちなさい。
悪に負ける道とは何でしょうか。それは悪に応じて悪を返すことです。まして2倍、3倍の悪で返すならば、相手よりさらに悪いことになります。悪に完敗したことになるでしょう。しかし、私たちはキリストにある者、神の子です。御国の相続者、罪と滅びに勝利した者です。ですから、悪に悪を返すような敗北の人生とはもうお別れしたのです!!
ゆえに、善をもって悪に打ち勝つ道を選びましょう。それこそ、相手の方々を悪の道から救い出す近道です。やがてその人はかつての悪を恥じる時が来るでしょう。あなたに感謝さえするかも知れません。今はそれが起こっていなくても、少なくとも天の御国で、あなたに感謝してこられるのを楽しみにできるのではないでしょうか。