東村山福音自由教会 ✞ Sunrise Chapel: ローマ12章17-21節「善によって悪に勝利する」
主が人の子らを、意味もなく、苦しめ悩ませることはない。(哀歌3:33)

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2025/01/30

ローマ12章17-21節「善によって悪に勝利する」

 *** 1/29(水)祈祷会 説教概略 ***

 「勝ち組、負け組」という表現があります。この世の基準では、高収入や高学歴、高い地位や名誉を得ることが「勝ち組」の条件かも知れません。他の人よりも上に自分いることが勝利だと考えているのでしょう。

 しかし、それらを得るために、他の人を蹴落とし、自分さえ良ければという価値観で獲得しているかも知れません。あるいは、相手を打ち負かすことが勝利であると思っているのが、この世の価値観かも知れません。



 けれども、神の国の価値観では、そのような条件で勝ち負けが決まったりはしません。むしろ、それらが罠となって本当の勝利から遠ざかってしまうことさえあると言えます。そもそも戦う相手も戦いの中身も違うのです。聖書では、どんな相手にも善や祝福を返していくことこそ、神が祝福される勝利であると言います。

 21節にこうあります。悪に負けてはいけません。むしろ、善をもって悪に打ち勝ちなさい。悪魔は私たちに、罪深い選択をさせようと必死です。それに従うのが敗北です。しかし、私たちは神が喜ばれる道を選びましょう。

 

17だれに対しても悪に悪を返さず、すべての人が良いと思うことを行うように心がけなさい。 

 キリスト者として、「だれに対しても悪に悪を返さない」という姿勢を心がけるよう教えられています。それが悪への勝利だからです。そして、悪を返さないどころか、「すべての人が良いと思うこと」を行うなら、もはやそれは完全勝利です。悪魔を「ぎゃふん」と言わせる信仰による決断ですよね。そして、すべての人にとって「良い」と思うことですから、自分本位の正しさではありません。自分勝手な善行ではないのです。相手の立場に立つ思いやりが必要ですね。続く18節では、平和を保つことを教えています。

18自分に関することについては、できる限り、すべての人と平和を保ちなさい。

 パウロは、クリスチャンとしてすべての人と平和を保つことを命じています。ただ、前半には「自分に関することについては」とあります。それはどういう意図があるのでしょうか。

 第一に自分のために争わないということです。先ほども触れましたように、この世の「勝ち組」は、競争の中で自分が少しでも他の人より上に立つことを目指していく傾向があります。そのため、受験なども「受験戦争」と言われていましたね。聖書中でも、パリサイ人らは、自分の地位を守るのに必死です。弱い人々のために盾となって守ろうとはせず、自分の名誉を守るために争いを引き起こしていますよね。しかし、パウロはそうではありませんでした。差別や圧力に対してははっきり意見しましたが、一方で自分の名誉や権利のために争うことはしなかったのです。誰よりもイエス様がそうでした。主は自己弁護をすることがありませんでした。ののしられてもののしり返さず、自分のいのちを狙う者たちの救いさえ願っておられました。

 第二に、原語の解釈としては「可能な限りあなたの側からは」平和を保ちなさいと解釈することも可能です。相手の対応に関係なく、あなたは平和を選べということです。たとえ相手が争いをふっかけてきても、あなたの側では平和を保つ意識を常に持ちなさいということです。主は、山上の説教で、平和をつくる者は幸いであると教えておられました。

 

 それにしても、17節、18節ともに、どちらもとても難しいことを命じられていると感じますよね。本当にそう思います。ただ、パウロもこれらが簡単に実践できないことは分かっていたでしょう。そこで、具体的なやり方、考え方も示してくれています。

19愛する者たち、自分で復讐してはいけません。神の怒りにゆだねなさい。こう書かれているからです。「復讐はわたしのもの。わたしが報復する。」主はそう言われます。

 難しいと思う時に、このみことばを思い出したいと思います。「自分で復讐してはいけません」と。なぜならば、唯一復讐する権利を持っておられるお方は、全知全能で公平・公正なお方、神様だけであるからです。また「神の怒りにゆだねなさい」とも教えられています。神の怒りこそは完全に正しい公平な怒りだからです。「義の怒り」だからです。そして、罪を犯した人に対する復讐、すなわち報いもまた、罪に見合った公正なジャッジから来るものだからです。復讐ではなく罪への正しいさばきと報いですよね。少しの歪みも偏見も差別もないからです。

パウロはそれを単に自分の考えとして紹介してはいません。彼はきちんと旧約聖書、申命記3235節から引用して、神ご自身が「復讐はわたしのもの。わたしが報復する。」とおっしゃっているのだと説き明かしています。

 

 それとともに、神ご自身の別のことばを紹介し、私たちが復讐に心が奪われないように、そこから守られ解放される道を説き明かしています。

20次のようにも書かれています。「もしあなたの敵が飢えているなら食べさせ、渇いているなら飲ませよ。なぜなら、こうしてあなたは彼の頭上に燃える炭火を積むことになるからだ。」  「彼の頭上に燃える炭火を積む」との表現については、詩篇140:10をお開きください。「燃える炭火が彼らの上に降りかかりますように。 彼らが火の中に 深い淵に落とされ 立ち上がれないようにしてください。」とあります。これらは、悪しき者に対する神様の復讐を示す表現です。つまり、こういうことです。

あなたの敵が飢えている時に食べさせ、渇いている時に飲み物を与えるという行為こそ、あなたがたにできる最高の「復讐」であると。やられたらやり返したいと強く思うのが人間です。負けっぱなしは嫌です。勝利したいと願うかも知れません。だとしたら、確実に勝てる方法がこれなのです。あえて正しい良いことを復讐として返せと聖書は語っています。これなら100%勝利を得ます。もちろん、この場合の復讐は、もはや悪意ある復讐ではありません。 ところが効果は絶大で、この方法こそ、相手が自分のした悪を最も意識させられる方法なのです。その結果、悔い改めに最も近づける道となると言えます。

逆に、悪に対して悪を返す場合、相手はさらに強くやり返して来るでしょう。自分の罪深さを覚えるよりも、怒りと憎しみを増し、報復合戦は終わりが見えなくなります。

しかし、悪に対して善を返す場合、もはや同じ土俵にはいません。神様の御前にあってこの悪に勝利をしたのであって、相手が自分のした悪を恥じ入るようにさえなります。相手は良心の呵責を感じ、悔い改めに導かれる可能性をもたらすでしょう。だとするならば、私たちは明らかに、悪に勝利したことになるのではないでしょうか。

 ですから、21節にこのような結びがあります。

21悪に負けてはいけません。むしろ、善をもって悪に打ち勝ちなさい。

 悪に負ける道とは何でしょうか。それは悪に応じて悪を返すことです。まして2倍、3倍の悪で返すならば、相手よりさらに悪いことになります。悪に完敗したことになるでしょう。しかし、私たちはキリストにある者、神の子です。御国の相続者、罪と滅びに勝利した者です。ですから、悪に悪を返すような敗北の人生とはもうお別れしたのです!!

 ゆえに、善をもって悪に打ち勝つ道を選びましょう。それこそ、相手の方々を悪の道から救い出す近道です。やがてその人はかつての悪を恥じる時が来るでしょう。あなたに感謝さえするかも知れません。今はそれが起こっていなくても、少なくとも天の御国で、あなたに感謝してこられるのを楽しみにできるのではないでしょうか。



引用元聖書
<聖書 新改訳2017
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