東村山福音自由教会 ✞ Sunrise Chapel: エレミヤ書1章1-8節「すべての解決は神から来る」
主が人の子らを、意味もなく、苦しめ悩ませることはない。(哀歌3:33)

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2025/02/04

エレミヤ書1章1-8節「すべての解決は神から来る」

*** 2/2(日)主日礼拝 説教概略 ***

 本日から旧約聖書はエレミヤ書から教えられます。時は紀元前7世紀から6世紀にかけて。イスラエルの国はダビデ、ソロモン王時代に最盛期を迎えるも、その死後に南北に分裂していました。ユダ族とベニヤミン族からなる南のユダ王国と、それ以外の10部族からなる北のイスラエル王国です。

 そしてエレミヤは、南側のユダ王国に仕えた預言者でした。彼は1節にあるように、ベニヤミンの地アナトテにいた祭司の息子でした。しかし、神様から「預言者」として呼ばれ、この国に神のおことばをまっすぐに伝える者として立つことになるのです。

 そして彼は、しばしば「涙の預言者」と言われます。単に「泣き虫」だったのではありません。彼は自分のためでなく、仲間のために涙したのです。この時代、残念ながらユダ王国が滅びへと向かって行く時代です。偶像礼拝がはびこり、信仰が地に落ちる中、神に立ち返るよう涙をもって語り続けたのです。

 本日は、神様がエレミヤを預言者として選ばれた時の話です。
 2節によると、ヨシヤ王が即位して13年目に、エレミヤに神様からの預言者として呼ばれました。ヨシヤ王は宗教改革を行い、神様に立ち返ることを推奨した良い王様でした。それでも彼の宗教改革は不十分でした。以降国はますます悪くなり、人々の心は神様から離れて行きました。そのような中で、神様はエレミヤを呼び、彼を預言者として定められたのです。

4-5節です。 
4節 次のような主のことばが私にあった。
5節 「わたしは、あなたを胎内に形造る前からあなたを知り、あなたが母の胎を出る前からあなたを聖別し、国々への預言者と定めていた。」 

 エレミヤは、この声にすぐに従ったのでしょうか。そうではありません。エレミヤはひどく恐れ、自分には無理だと思ったのです。しかし、すべての解決は神様から来ることを神様から教えられました。実にそれこそが、経験や知識よりも大切な信仰の土台です。

 今日はエレミヤの3つの弱さと、それに対する主の解決を学びます。


1.まだ若いと考える弱さ 


 エレミヤはこのように応答しました。6節です。6 私は言った。「ああ、神、主よ、ご覧ください。私はまだ若くて、どう語ってよいか分かりません。」 

 エレミヤは、「私はまだ若くて」無理だと神様に答えたのです。彼は自分がまだ若いことを理由に挙げました。実際何歳ぐらいだったのでしょうか。年齢は明記されていませんが、「若い」と訳された「ナーアール」は、英語なら「boyyouth」と訳せます。

 おそらく10代半ばから20歳前後ぐらいまでに絞られそうです。確かにそう思うと、国を導く年長者や偉い人々を相手に、とてもじゃない!と思ってしまいますね。神のことばを偉い人々に語るには、「若すぎる」と考えるのが常識的でしょう。

 一方で、年を取っていればどんな立場の人にも適切に語れるのでしょうか。確かに経験は力になります。また、人間的な面で言えば、貫禄がある方が自然な説得力も出るでしょう。 


 しかし、神様はどうお考えなのでしょうか? 

 そうした人間的な説得力や貫禄によってこそ、ご自分のことばが力を持つと考えておられるのでしょうか。そうではないのです。

 第一コリント127-28節によれば、神様は、知恵ある者を恥じ入らせるために、この世の愚かな者を選び、強い者を恥じ入らせるために、この世の弱い者を選ばれたとあります。人間が自分の知恵や経験や力で人を救ったと考えないように、無に等しい者をわざわざ神様は選ばれたのです。

 ですから、そもそも「まだ若いから無理」、「年を取り経験を積んだから成功する」といった考え方は、神様の力に頼らない考え方なのです(主のみこころではありません)。それで主は言われるのです。7節です。

7 主は私に言われた。「まだ若い、と言うな。わたしがあなたを遣わすすべてのところへ行き、わたしがあなたに命じるすべてのことを語れ。 

 「まだ若い」との言い訳をしてはならない。それは逆に、「もう十分な年齢だ」とも言うべきでないということです。年齢ではないのです。

 神様が召されたかどうか、神様がお決めになった人がその人なのだということです。

 個人的な話で恐縮ですが、結婚して1年も経たない24歳の折、集っていた教会にて伝道部の役員をすることになりました。その際、年齢や結婚したばかりということによらず、主が導かれたので引き受けました。神学校に入る際も、牧師になる際も、年齢は問題にされませんでした。神様が呼んでくださった確信があるかどうかが最重要でした。

 神様が呼ばれたその時が最善の時です。
 それが99歳であったとしても!!

 実際アブラハムは75歳で神様から呼ばれ、故郷を旅立ち主に仕えましたね。皆さんが何をするにも、主のお声を聴いていただきたい。

 すべては主から来るのです。始めるにしてもやめるにしてもです。

 5節にありましたように、生まれる前、形をなす前から、主はエレミヤを預言者として定めていたのです。つまり、私たち以上にはるかに私たちを知る方が、定めておられるのです

 私たちも「まだ無理だな」、あるいは「もう無理だな」と、自分で思い込むことはないでしょうか。反対に「これだけ経験したから成功する」、「この年齢なら認められる」と、やはり人間的な知恵で判断してはいないでしょうか。

 神様が人の経験値や年齢も用いることは否定しません。しかし、何にもまさって神様の時が、その時なのではないでしょうか。むしろ、無に等しい自分であるならばこそ、神様の力がそこに豊かに現れる絶好機会でさえあるのです。

 

2.どう語ってよいか分からない 


 また、エレミヤはまだ若いゆえに、「どう語ってよいか分かりません。」とも言いました。知識が足りない、経験が足りない、ことばの選び方も分からない。だから、どう語ったら人を説得でき、人の心に届くのかが分からないと考えたのです。

 当然です。自分の知恵や経験で語るならそうなります。しかし、主は何と言われたのでしょうか。7節です。「わたしがあなたを遣わすすべてのところへ行き、わたしがあなたに命じるすべてのことを語れ。」 

 いつどのような人々に語るべきなのか、また、何を語るべきなのか。

 すべては神様に聞けば良いと言うのです。主から来るのです。
 主がエレミヤに語れと言われたことは、エレミヤ自身の話ではありませんでした。エレミヤの経験から来る教訓話ではありません。ただ神様が語れと命じられたこと。神のみことばです。それを余すところなく語れと言うだけです。


 私たちも何を言おうか、どのように語ろうか、また誰に伝えようか。選択肢があり過ぎて困りますね。「ことばは難しい!」と、皆さんも悩んでおられると思います。でも本当はシンプルです。神のことば「聖書」が語っていることを、普段から語ればいいのです。

 皆さんがそれぞれ神様から遣わされている場所で。「聖書のこの箇所に」といちいち言わなくてもいい。ただ、目の前に悩む人がいて、苦しむ者があるなら、主のことばをあなたの口から自然に話せばいい。聖書には人が生きる上で必要な知恵が満ちています。友人に、家族に、近所の方に。上司や部下、先輩後輩に。お客さんに。

主のことばを時に応じて、あらゆる角度から。あなたの口で話せばいい。自分でゼロから生み出すなら大変です

 最高の素材はもう豊かに与えられている。安っぽい私のことばよりも、主のいのちのことばが、人にいのちと希望を生み出します。すべての解決は神様から来るのですから、自分のことばではなく主のことばで人を励まし、助け、支えればいいのです。

 昨年の青年キャンプでも紹介しましたが・・・J.I.パッカーという聖書学者はその教え子らに言いました。「あなたがここにいる間になすべき最大の仕事は、神を知ることだということに気づく時、人生の問題のほとんどは、ひとりでに解決していくのだ。」と。

 私たちの造り主、全知全能の神を知ること、みことばを知ることが、すべての解決への道です。私たちもここに立ちたいのです。

 

3.人の顔を恐れる 


 そしてエレミヤが自分で言わなかった弱さを主は見抜いておられました。
 それは「人の顔を恐れる」という弱さでした。

 8節の最初で「彼らの顔を恐れるな。」と神様の方からおっしゃいました。エレミヤが若さを気にしたのも、より年上の偉い人々の顔を恐れてのことでしょう。これこそ、誰もが持っている弱さでしょう。ある意味人間が一番怖いですよね。

でも、本当に恐れるべき力ある方は、神様だけです。

それを忘れてしまう私たちです。一番力ある、圧倒的に強いお方が、私たちの味方なのです。それをすぐに見失います。そのような者に主は言われます。8節の続きにこうあります。

わたしがあなたとともにいて、あなたを救い出すからだ。」と。

結局最後はこれです。主があなたとともにおられるのです。

先程、7節で神様がエレミヤを遣わすとありました。普通、遣わす方は、遣わされる人と一緒にはいきませんよね。「行ってらっしゃい」と見送ってお終いです。しかし、素晴らしいことに神様は派遣する側であり、同時に一緒に行って下さる方でもあります。いや、派遣先に先回りして、備えていても下さる。送り出しつつ、いつもともにいて救い出して下さるのです。

こうして、主はいついかなる時もあなたを見放さない。あなたの力強い最強の味方です。人があなたに何ができるでしょうか。十字架でいのちを捨てるほどの愛で、あなたを愛してくださっているのです。そして、この方には力があるのです!!

人は、どんなに良い方でも、私たちと同じ「弱い人」なのです。あなたが弱いように、その人も弱い。私は昔、ある親しい人に「なぜ、あの時かばってくれなかったのか」と責めたことがありました。でも、今は分かります。私にできるかと問われると「できる!」と断言できない自分もいる。ですから、その方自身も弱さゆえに、できなかったのだと。だから、主がともにおられるということが、私たちにとって本当の拠り所なのです。主なる神様には不可能はありません。この方がともにおられるのです。

 

 主はエレミヤに語られたように、あなたにも語っておられます。まだ若い、もう年だと言うな。時はわたしが定めている。何より、あなたを生まれる前から知るわたしが決めているのだ。

 わたしのことばのすべてをいつでも語りなさい。人を恐れてはならない。全知全能のわたしがあなたと絶えずともにあり、あなたを救い出すのだから。



引用元聖書
<聖書 新改訳2017
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