*** 2/19(水)祈祷会 説教概略 ***
教会で最も多く学び、勧められることは「愛すること」です。神様を愛すること、隣人を愛することです。でも、私たちはすぐにそれを忘れます。私も効率的、合理的にすることに関心が向き、愛が置き去りになりやすい自分に「はっ」とすることがあります。
しかし、すべてを愛の動機でするという「愛の習慣(愛の思考回路)」を身に着けたいのです。愛から出て、愛に向かい、愛によってなすのです。ともに教えられましょう。
8節 だれに対しても、何の借りもあってはいけません。ただし、互いに愛し合うこは別です。他の人を愛する者は、律法の要求を満たしているのです。
「だれに対しても、何の借りもあってはいけない」と語られています。これは、単に借金をしてはならないということでしょうか。そうではありません。パウロが伝えようとしていることは、少し違うようです。「借り」ということばは、「返すべき負債」だけでなく、「果たすべき義務」という意味もあります。お金に限定されません。また、直前の7節では「すべての人に対して義務を果たしなさい。」ともありましたね。
ですから、「様々な責任や義務を果たす人になりなさい」ということでしょう。後ろ指刺されないような歩みです。私は今の社会は、ここが弱いように思います。何かあれば、苦情を申し立て、自分の権利が守られることには必死になります。
けれども、人々のため、社会のために果たすべき責任や義務を全うしようとする部分が弱いのではないでしょうか。それは教会でもそうでしょう。教会で恵みは受けたい!楽しい安心できる居場所であって欲しい!でも、そのために「自分なりに果たすべき責任や義務もあるのではないか?」と考えることも大切ですよね。
私たちは、苦情を申し立てる権利を得るためにイエス様の犠牲によって救われたのではないのです。むしろ、イエス様の尊い犠牲によって救っていただいたのですから、自分ができることを果たしていこうと考えることが自然ではないでしょうか。
しかしここでは、「ただし、互いに愛し合うことは別です」とありますよね。それは、愛だけは借りがあるまま、むしろ、借りが常にあると思って歩むようにというのです。なぜなら、私たちはあまりにも大きな神様の愛を受け取っているからです。それは生涯かけても全くもって返し切れないほどです。何よりも、他の人を愛することこそ、神の律法の要求を満たすことになるのです。ですから、この愛に励むことこそが、あなたの一番の使命。果たすべき責任、使命だということです。
それでも愛を返せない。愛については借りがあるままだと思って生きよというのです。パウロ自身も、この愛を受けたので、「愛をもって福音を伝えないなら私はわざわいだ」とさえ言いました。私たちもこの愛の奉仕に、ますます自分をささげてまいりたいと思います。
そしてパウロは、イエス様が示されたように、聖書にあるすべての律法と戒めは「愛」に集約されると教えています。
9節 「姦淫してはならない。殺してはならない。盗んではならない。隣人のものを欲してはならない」という戒め、またほかのどんな戒めであっても、それらは、「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい」ということばに要約されるからです。
「姦淫してはならない、殺してはならない、盗んではならない、隣人のものを欲してはならない」との戒めが具体的に挙げられています。いずれも十戒の後半の教えです。それらは対人関係についての教えでした。これらはすべて、本質は隣人を愛することだと説き明かされているのです。その理由とすて10節で、愛は隣人に対して悪を行いません。それゆえ、愛は律法の要求を満たすものです。と語られていますね。
パウロはなぜ、このように説き明かすのでしょうか。
それは、多くのユダヤ人クリスチャンが、律法の教えと愛とを切り離して考えていたからではないでしょうか。聖書は神様について何と語るでしょう。「神は愛です」と言うのです。愛の神様から出た教えは、愛することが目的であり、動機も愛でなければなりません。それなのに、律法のひとつひとつを愛から切り離して考え、それを守るか守らないかという表面的な考えに囚われていたのです。特に律法学者たちはそうでした。
でも、実はこれは、私たちにもあるのではないでしょうか?教えを守るのは良いことなのですが、そこに愛はあるでしょうか。一つも漏らさず教えや戒めを守っても、愛がなければ意味がないと聖書は語っているのではないでしょうか。
あなたの奉仕には愛があるでしょうか。あなたの仕事には愛があるでしょうか。家事をするとき、学びをするとき、そこに愛はあるでしょうか。愛のためにしているでしょうか。愛の心で用意し、愛の動機で行い、愛することを目的としてそれをしているでしょうか。
私はそうでない時がしばしばあります。愛ではなく、人からの報いを期待してしまったり、それこそ義務感でしたりするなら、疲れやむなしさが生まれます。8節と10節で、繰り返し「愛は律法の要求を満たす」と語られていました。むしろ、愛だけが律法の要求を満たすと言えます。そこから離れてはならないのです。ですから、私たちも自分のしていることが、本当に愛から出ているのか、改めて問われる者でありたいと思います。
後半の11節からは、世の終わりが近づいているので、闇のわざを脱ぎすて光の歩みをするようにと教えています。11-12節をご覧ください。
11節 さらにあなたがたは、今がどのような時であるか知っています。あなたがたが眠りからさめるべき時刻が、もう来ているのです。私たちが信じたときよりも、今は救いがもっと私たちに近づいているのですから。12節 夜は深まり、昼は近づいて来ました。ですから私たちは、闇のわざを脱ぎ捨て、光の武具を身に着けようではありませんか。
12節の「夜」とは、今の暗闇の世界であり、「昼」とは義の太陽なるキリストが再臨される時を示します。特に天の御国では、神ご自身の光が照らすので夜がなくなります。日々、終わりの時、御国の完成が近づいています。ですから、速やかに闇のわざを脱ぎ捨てて、光の武具を身に着けるよう教えられています。それは続く13節で、より具体的に教えられています。
13節 遊興や泥酔、淫乱や好色、争いやねたみの生活ではなく、昼らしい、品位のある生き方をしようではありませんか。
これらは先ほどの愛の教えに従うならば、守られるものです。しかし、愛とは反対の歩みとしてこれらについて警告されています。「遊興」とは、「過度の宴会」や「お祭り騒ぎ」等を意味します。それは続く「泥酔」とも関連していますね。酔って放蕩に走り、他の人を傷つけ、神の栄光を現わすのとはかけ離れた品位のない歩みです。淫乱、好色は性的な乱れです。これらは不道徳で恥ずべきことでありましたが、何よりも愛がない行為は人を傷つけ、悲しませるのです。それに加えて、パウロは「争い」や「ねたみ」についても触れています。自分の欲のために争い、他の人を蹴落とす姿勢です。「ねたみ」を正しく管理しなければ、そこから人を攻撃したり、傷つけたりしていきます。これらは愛からは程遠い姿勢ですね。
私たちはすでに、世の光、神の御霊の住む「神の宮」とされています。何よりも、愛について、神様にまだまだ少しも返せていません。ですから、私たちの日々の歩みすべてにおいて、愛に生きて参りたいと思うのです。それこそがわが主キリストのお姿からです。
14節 主イエス・キリストを着なさい。欲望を満たそうと、肉に心を用いてはいけません。 「着る」というのは、新しいアイデンティティや価値観を身に着けることの比喩です。私たちはすでにキリストを着たのです。キリストの愛の価値観を身に着けたのです。ですから、私たちの人格の中にキリストが透けて見えるように歩みたいのです。その人は愛の人です。何をするにも愛をもってします。それでもなお、「私はもう十分愛した」とは言わない人です。なぜなら、神様から受けた返し切れないほどの大きな愛をよく知っている人だからです。
引用元聖書
<聖書 新改訳2017>
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