*** 2/12(水)祈祷会 説教概略 ***
本日のテーマは「上の権威に従う」というものです。私たちも政治不信であったり、パワハラ問題であったり、上に立つ権威に対して少なからずアレルギーのようなものがあるかも知れません。従って欲しいのなら、立派で尊敬される人であって欲しいとも思うでしょう。
しかし、私たちが上の権威に従う理由、動機は、相手が立派だからではありません。端的に言えば、「神のみこころ」だから従うのです。そして、私たちは、誰に従うにしても、何をするにしても、そこに主がおられることを覚え、主に対してするのです。
新約聖書の時代、特にユダヤ人キリスト者は、ローマ帝国の支配を憎んでいました。そして、彼らに税金を払うことは、イスラエルの神の教えに逆らうことだとさえ考える者たちもいました。ザアカイのような取税人が「ローマの犬」と批判され、嫌われていたのもこうした背景のためです。しかし、政府が気に入らないから納税をしないとか、上の権威に従わないということは、神様のみこころではありません。
みことばに聞きましょう。
1節 人はみな、上に立つ権威に従うべきです。神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、神によって立てられているからです。
上にある権威には何でも否定し、反発するような幼稚な考えでいないよう教えています。みことばは「神によらない権威」はないと教えます。あらゆる上に立つ権威は、「神によって立てられている」という理解を持つことです。
例えば、十戒で「父母を敬え」とありますが、人間にとって生まれて最初に従うべき権威が自分の親なのです。親に従うことを通して、目上の方々、教えて下さる先生方、責任を取って下さる上司らに敬意を払って従うことを学んでいきます。これを失ったら社会は崩壊し、悪くなりますよね。そして、様々な問題を持っていても、為政者たちのために祈ることも主のみこころですね。誰もが罪人であることは大前提として、なお彼らのために祈り、協力するのです。
これがわかれば2節も理解できます。
2節 したがって、権威に反抗する者は、神の定めに逆らうのです。逆らう者は自分の身にさばきを招きます。
理由もなく、権威に反抗するのは、本人のエゴであり、不遜であり、神の定めに逆らう姿勢であると分かります。結果、自分にさばきを招きさえします。
ただし、権威が明らかに腐敗し、罪を正当化する間違った方向に流れることもあります。その場合、権威に従うことは、罪深い命令までも盲目的に従うことではありません。一緒になって罪を犯してはならないのです。
しかし、上に立つ権威をただ批判しているだけでは、証しにはなりません。かえって、「あなたは批判だけをしていて、国のため、世界のために何もしていないではないか」と、純粋な人々から批判されることでしょう。上の権威に立つ人ほど誘惑も多くなり、様々な戦いがあります。実際その立場を経験してみないと分からない事は少なくありません。
ですから、尊敬と愛をもって彼らが罪から守られるよう熱心に祈る必要があるのです。そして、私たちには分からないけれども、そこにも主の深いご計画があることを信じて、関わり続けていくべきでしょう。
3-4節には、このように語られています。
3節 支配者を恐ろしいと思うのは、良い行いをするときではなく、悪を行うときです。権威を恐ろしいと思いたくなければ、善を行いなさい。そうすれば、権威から称賛されます。
4節 彼はあなたに益を与えるための、神のしもべなのです。しかし、もしあなたが悪を行うなら、恐れなければなりません。彼は無意味に剣を帯びてはいないからです。彼は神のしもべであって、悪を行う人には怒りをもって報います。
健全な権威が機能していればこの通りで、誰が見ても良いことをして、罰せられることはないでしょう。むしろ称賛されるものです。
特に司法、警察がなければ、恐ろしい世界になることは避けられません。そこには神様の正義と秩序から来る権威があり、それが機能することで社会の安全、平和が守られているのです。ですから、そういった権威を私たちも軽んじるべきではないですよね。
そして、神のみこころであると受け止めるならば、さばきが恐ろしいからだけでなく、神様に喜ばれる良い道を自ら選び取って行こうと考えることも大切にしたいですよね。
5節にこうあります。
5節 ですから、怒りが恐ろしいからだけでなく、良心のためにも従うべきです。
怒りを恐れて従うこと自体は、必ずしも悪いものではありません。必要な恐れでもあります。背筋を伸ばして、正しく歩もうとする助けになります。
しかしながら、それだけではクリスチャンとして少しさみしいですね。恐ろしいからではなく、良心のゆえに、神様を愛するゆえに「従う」ことは、より尊いことです。主が喜ばれることです。
パウロは6-7節でこう結論付けています。
6節 同じ理由で、あなたがたは税金も納めるのです。彼らは神の公僕であり、その務めに専念しているのです。
7節 すべての人に対して義務を果たしなさい。税金を納めるべき人には税金を納め、関税を納めるべき人には関税を納め、恐れるべき人を恐れ、敬うべき人を敬いなさい。
税金も納めるべきことが語られています。私たちは神の国の住民だから、税金は神様に納めますと主張すべきではありません。そうした極端を主は望んでいないのです。
イエス様も税金の義務をしっかり果たすことを肯定されましたね。パリサイ人たちは、「カエサルに税金を納めることは律法にかなっているか」と主に問いかけました。イエス様を罠にはめようとしてのことでした。しかし、イエス様は銀貨の肖像を示し、「カエサルのものはカエサルに返すように」と言われました。それは、カエサルの権威の下で硬貨が発行され、それを使って人々が恩恵を受けていたからです。この「返す」とのことばには、「負い目がある」というニュアンスがあります。何かの恩を受けているので、返すのは当然という意味です。負い目があるのに返さない恩知らずになっては、クリスチャンとして証しになりません。実際、貨幣を用いて取引できている私たちです。様々な公共サービスも多く受けているのです。ですから、そのために必要な税金を払うことは、恩知らずにならない道ですね。
何より、このローマ13章1節にあるように、神によらない権威はないのです。直前の12章17節でも「すべての人が良いと思うこと」をするように教えていました。その中には、様々な社会的責任を果たすも含んでいたでしょう。こうして社会的責任を果たすこと自体、良き証しと宣教となります(ローザンヌ宣言を参照)。
また7節の最後では、「恐れるべき人を恐れ、敬うべき人を敬いなさい」と、自分の置かれた社会で、上に立つ人々を恐れ敬う姿勢を教えています。ただし、私たちは社会的責任を果たすにしても、上に従うにしても、すべてをその背後、一番上におられる主に対してすることができます。それがクリスチャンです。
コロサイ3章22節以下を開きましょう。
22 奴隷たちよ、すべてのことについて地上の主人に従いなさい。人のご機嫌取りのような、うわべだけの仕え方ではなく、主を恐れつつ、真心から従いなさい。23 何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように、心から行いなさい。24 あなたがたは、主から報いとして御国を受け継ぐことを知っています。あなたがたは主キリストに仕えているのです。
地上における上の権威に従うことと、その従い方も教えています。ご機嫌取りやうわべではなく、主を恐れつつ、真心から従うのだと。その際、人に対してではなく、主に対してするようにするのです。
引用元聖書
<聖書 新改訳2017>
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