東村山福音自由教会 ✞ Sunrise Chapel: ヘブル2章10-13節「私たちを誇りに思ってくださる主」
主が人の子らを、意味もなく、苦しめ悩ませることはない。(哀歌3:33)

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2025/02/10

ヘブル2章10-13節「私たちを誇りに思ってくださる主」

*** 2/9(日)主日礼拝 説教概略 ***

 私たちにとって、自分の家族や友人から、「あなたを誇りに思います」と言われたら、それは幸いなこと、光栄なことではないでしょうか。特に自分の親からそのように言われることは、「認められた」と思えるので、恥ずかしくも嬉しいことではないでしょうか。それはまた、良い信頼関係がある証拠かも知れません。



 私はこのサンライズチャペルを誇りに思っています。会堂の話ではなく、皆さんの存在をです(会堂も誇りに思っていますが・・・笑)。もちろん、まだまだ発展途上、成長中ではありますが、とても良い教会だと思って牧会しています。 

 しかし、実は誰よりも、神の御子イエス様こそが、私たち一人ひとりを、ご自分の愛弟子、大切な兄姉と呼ぶことを恥と思わないのです!いや、誇りに思って、「さあ、この子たちを見てください」と言われるのです。

 皆さん、実際のところ、「あなたは恥さらしだ」と言われるより、「あなたを誇りに思う」と言われる方が、ずっと人を育てると思いませんか。そのことばに相応しい者にならせていただきたいと思えるのではないでしょうか。罪深く、取るに足りない者を、イエス様は誇りに思ってくださいます!本当に幸いなこと、光栄なことです。

 ですから、私たちは、それに相応しい者に成長させていただきたいのです!何よりも、私たち自身が、主イエス様をいつでも誇りに思って歩む者とならせていただきましょう!みことばから教えられて参りましょう。

 

1.苦しみを通して栄光へ 

10  多くの子たちを栄光に導くために、彼らの救いの創始者を多くの苦しみを通して完全な者とされたのは、万物の存在の目的であり、また原因でもある神に、ふさわしいことであったのです。 

 少し回りくどい言い方にも思えますね。しかし、伝えていることは、次のようなことです。イエス様につながる多くの兄姉たちを栄光に導くために、イエス様は多くの苦しみを通る必要があった。その方法は、神様にとって、ふさわしいことだったのです。

 すべては神様から発し、神様ご自身との交わりこそ目的でもあるので、神様から救い主が出て、人と一体となって救い出すことがみこころなのです。確かに十字架の苦しみは理不尽になものに見えます。しかし、神の目にはふさわしい方法なのです。「栄光」というものは、自堕落な罪深い歩みにやって得られるものではなく、苦難の先にあるものと神が定められているからです。

 「ゆず」というミュージシャンによる「栄光の架け橋」という曲があります。日本では五輪の応援ソングでした。競技で栄冠を目指す人は、例外なく様々な苦しみを通ります。それを歌にしています。「誰にも見せない泪があった 人知れず流した泪があった 決して平らな道ではなかった」と。また、「悔しくて眠れない夜があった 怖くて震えていた夜があった」そうした苦闘の日々が歌われます。そして、これらの苦闘の日々が「栄光の架け橋」へと続いているという内容です。私たちの人生すべてに言えることでしょう。苦しみなくして栄光はありません。

 そして、その先頭をイエス様が歩まれたのです。

 だから、イエス様から目を離してはならない。

 イエス様の生涯は多くの苦しみを通って完成と栄光に向かうものでした。ただ、イエス様は、ご自分のためには涙しませんでした。迷える罪人、私たちのために苦しみ、あわれみの心で涙し、十字架の死さえも引き受けてくださったのです。多くの「子たち」を救いの栄光に導くために、人間の代表となることを恥とせず、むしろ喜んでその使命を引き受けてくださったのです。それゆえに、値なしに、信じるだけで救いをいただきました。それは、イエス様が私たちと一つになってくださったからです。こうして、私たちの代わりに苦しまれたおかげです。

それで、11節からは、この結びつき、一体性について語られています。つまり私たちとイエス様が、一人の人のように結び合わされていることを教えているのです。

 

2.主イエスと信者の一体性  

11  聖とする方も、聖とされる者たちも、みな一人の方から出ています。それゆえ、イエスは彼らを兄弟と呼ぶことを恥とせずに、こう言われます。 

 罪人をきよくしてくださるイエス様も、きよめられる側の私たちも、父なる神様に起源があります。人は「神のかたち」に造られて、イエス様は父なる神から遣わされ、同じ人となってくださいました。それゆえイエス様は、聖とされる側のすべての信者を「兄弟」と呼んでくださるのです。

 罪深い私たちです。それにも関わらず、主イエス様は十字架の贖いによって、私たちを同じ神に属する兄弟姉妹と呼んでくださいます。イエス様は神の子ですが、同じ神を信じた私たちも神の子とされています。「神の子」同士ですから、兄弟姉妹なのです。クリスチャン同士が兄弟姉妹であるだけでない。イエス様も私たちを兄弟、姉妹と呼んでくださるのです。私たちのような罪深い勝手な者を、「わたしの弟よ、妹よ!」と親しみを込めて呼んでくださるのです。なんという幸いでしょうか。

続く12-13節では、3つの旧約聖書からの引用があります。この手紙の著者は、旧約聖書で語られていた背景を理解した上で引用し、いずれもキリストとクリスチャン(教会)の親密な「結びつき」を伝えようとしているのです。まず、12節ですが・・・

12  「わたしは、あなたの御名を兄弟たちに語り告げ、 会衆の中であなたを賛美しよう。」

 詩篇2222節からの引用です。この詩篇22篇はメシヤの詩篇とされています。全体的には、「苦難から勝利へ」という流れがあるのです。前半は大きな苦しみ、人々の侮辱とののしりの現実が語られています。しかし、この22節から流れが変わります。大変な苦しみと人々の拒絶を通っているにも関わらず、救いの神に目を留め高らかに賛美をささげていくのです。苦難の中でも主なる神様を見上げ、賛美と勝利へと向かっていくのです。

 この姿がイエス様です。この22節の姿こそイエス様です。

 どんな苦しい状況でも父なる神様を信頼し、その御名の麗しさを兄弟姉妹たちに語り告げています。ここにある「会衆」ということばは、「エクレシア」ということばです。教会と訳されるギリシャ語です。ただ、より本質的な意味は、「大切な目的のために呼び集められた者たち」ということです。ですから、教会は、神様の最善のご計画の中で呼び集められた精鋭の集会なのです。そのリーダー、一番上のお兄さんがイエス様なのです。

彼こそは、苦しむ者たちのただ中で主を心から賛美する姿勢を示してくれます。その姿が、兄弟姉妹たちにとって、どれほど慰めになるでしょう。どれほど勇気づけられることでしょうか。「もうダメじゃないか」と思う瞬間は幾度もあります。しかし、あきらめない。

主が私たちをあきらめず、むしろ沈んでいる私たちのただ中で、「さあ父を見上げてごらん。そこには既に勝利があるから。この苦しみは栄光へと続いているのだから!」と引き上げてくださるのです。

 

3.私たちを誇りに思われる主イエス  

 また13節では、イザヤ書から引用し、それがイエス様を指し示していることを説き明かしています。 

13  また、「わたしはこの方に信頼を置く」と言い、さらに、 「見よ。わたしと、神がわたしに下さった子たち」と言われます。 

 これらはイザヤ書の817-18節からの引用です。当時の預言者イザヤは、自分の弟子たちと一緒に神様に仕える中で、弟子たちと自分が結び合わされ、一つにされていくと考えました。イザヤはまず、自分はこの神様にのみ信頼を置くと言って歩みました。神様とそのみこころだけをひたすらに求めたのです。

その姿勢を弟子たちは知り、励まされて、彼らも主に喜んで従いました。こうして、同じ神様に喜んで仕えることで、彼らは一つとされていったのです。そして、これが、他の不信仰に陥っていた者たちに対する良き証しとなりました。

 ですから、「見よ!わたしと、神がわたしに与えてくださっているこの子たちを!!」とイザヤは語ったのです。イザヤにとって、一緒に主に仕える兄姉たちは、自分の一部のような感覚だったのでしょう。

そして、これこそは、将来のイエス様を示す一つの「ひな型」でした。実に、この姿こそ、キリストに見られるものなのです。イエス様はイザヤ以上にこのことばを体現した方です。イエス様は、すべてご自身を信じる者たちを、ご自分の兄弟姉妹と呼ばれることを恥となさいませんでした。それどころか、その一人ひとりを喜ばれ、一緒になって父なる神に仕えてくださいます。

こうして言われるのです。「見よ!このわたしと、わたしに父がお与えになったこの子たちを!」と。胸を張り、私たち主に従う者を誇りに思って「さぁ見よ!わたしとこの子らを!」と宣言されているのです。世界の人々に対して、イエス様は救い主であるご自分を見よ、そしてわたしの弟子たち、兄弟たちを見よ!と、言われるのです。

主は私たちを自慢の弟子、自慢の兄弟と思ってくださる。なんと嬉しいことでしょう。

ただ、私は申し訳ないと思ってしまいます。「私を見て下さい」などとは到底言えない信仰の弱い者、至らない者だからです。罪深いからです。数えきれないほどの失敗をしています。イエス様を、私はペテロのように何度も否定しました。人の前で隠しました。不利になると思えばあえて言いませんでした。学生時代、オウム真理教の事件があってからは特にそうでした。あなたが自慢できるような私ではないのですと。 

しかし、そんな私のことさえも、主イエスは誇りに思ってくださいます。私たちに信仰の手本を示し、倒れそうな私たちを支え、さあ、父なる神を見上げ、賛美しよう!と励ましてくださるのです。それは主イエス様と私たちが既に一つとされているからです。イエス様がぶどうの木で、私たちがつながっている枝ならば、私たち枝の部分も麗しいぶどうの木の一部なのです。

だから、主はあなたを恥じたりしない。あなたを誇りに思い、皆に見て欲しいと言われる。イエス様にあって豊かな実を結んでいるのを見て欲しいのです。とても嬉しく、幸いなことです。だからこそ、私たちもこの方が私の主であること、私の兄である方のことを、心から誇りに思って胸を張りたいのです。私のために死んでさったのです!「わたしの友、わたしの弟」だと言ってくださるのです!主が私たちを誇ってくださるのですから、私たちもこの方を誇って生きたいのです。日本のクリスチャン人口わずか1%未満。しかし、それはかえって光栄なこと。宝くじに当たったかのような確率で、主に選んでいただいた!!簡単には当たらないような確率!

こんな素晴らしい恵みの特権を受けたのです。それに相応しい者にならせていただきましょう。


引用元聖書
<聖書 新改訳2017
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