東村山福音自由教会 ✞ Sunrise Chapel: ローマ14章7-12節「生きるにしても、死ぬにしても」
主が人の子らを、意味もなく、苦しめ悩ませることはない。(哀歌3:33)

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2025/03/06

ローマ14章7-12節「生きるにしても、死ぬにしても」

***  3/5(水)祈祷会 説教概略 ***

 私たちが熱意を持って、意欲的に自分をささげて取り組むことができるのは、どういうことに対してでしょうか。やっても意味がない、結果が出ないことや、やってもすぐに変えられてしまうこと、失われてしまうことなら自分をささげる気になれません。

 しかし、私たちは、私たちのために愛といのちを注いでくださった方。いつまでも変わらないキリストのためにささげることができるのです。ご一緒に教えられて参りましょう。



1.生きるにしても、死ぬにしても 

 私たちは誰しも、かつては死ぬべき罪人でした。自分の造り主さえ忘れ、自分を神のようにして罪を重ねたからです。それゆえ神の聖なるさばきの下、滅びに定められていました。しかし、キリストのいのちがけのみわざ、すなわち十字架の死と復活によって、私たちは罪赦され救われたのです。生かされたいのちです。9節にこうあります。 

9  キリストが死んでよみがえられたのは、死んだ人にも生きている人にも、主となるためです。 

 キリストの死の目的は、神に造られたすべての人を救い出し、その人々の「主」となることでした。キリストが私たちの人生の主、いのちの主となられたのです。キリストを信じているすべての人の主です。既に天に召された者にとっても、今生きている者にとっても!永遠の主ですから!その人は、キリストのご支配のもとに置かれ、どんな力も手出しができません。

 キリストこそ、私たちの最大の恩人、私の主です。それゆえに、キリストによっていのちを得た者ができる最大の恩返しは、主であるキリストのために生きることです。
7-8節にこうあります。

7  私たちの中でだれ一人、自分のために生きている人はなく、自分のために死ぬ人もいないからです。8  私たちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死にます。ですから、生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のものです。

 キリストにある者は、少なくとも「自分のためだけに生きる」という自己中心から解放された者ではないでしょうか。もはや「自分のいのちは、自分のものではない」と受け止めるようになっていく。そして、そのように生きられることが嬉しいのです。

 自分のいのちを守ることに必死の人生ではない。主が生かしてくださるなら今日も主のために何かをさせていただこう!今日で天に召されるなら、人生を主に感謝して終わろう。そして死をもって主の栄光を現わそう!と考えられる。

自分のためではなく、人々の救いのため、仲間たちのために生きる者になった自分。私たちは誇らしく思えるのではないでしょうか。
ガラテヤ書219b-20節にこうあります。 

19節 私はキリストとともに十字架につけられました。
20もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。

 自分のいのちを自分で守らなきゃと思う時、私たちは苦しいはずです。生活の心配、健康の心配、明日の心配ばかりです。しかし、今はキリストのいのちに生きているのです。

 私は牧師になって数年経ち、按手礼試験を目指していましたが、その試験を受ける意義があまり分からなかった時があります。その際に、按手礼試験の意義を先輩の先生方から教えていただきました。それは、牧師として「箔」をつけるとか、「資格を得るため」ではない。証書を受けるためでもない

 キリストのからだなる「教会のため」なのだと。あなたが成長し、あなたが整えられることが、あなたの教会のため、あなたが出会う人々のためになる!!と。

 だから少なくとも、最低限この試験に十分合格できるほどに成長すべきなのだということでした。そう思えた時とても嬉しかったのです。厳しい試験さえ、素晴らしい目的のために受けられるのだと知ったのです。

 私たちはキリストのために学び、キリストが愛する人々のために成長するのです。自分のためだけに生きるむなしい人生をやめたのです。神のため、人のためにこそ心燃やされる者になったことが嬉しいのです!! ところが、ローマのクリスチャンたちはそのようなビジョンに心燃やすのではなく、さばき合っていました。それでパウロは10節から、誰もが神のさばきの座に立つことを教えているのです。

 

2.誰もが神のさばきの座に立つ

10  それなのに、あなたはどうして、自分の兄弟をさばくのですか。どうして、自分の兄弟を見下すのですか。私たちはみな、神のさばきの座に立つことになるのです。

 原文では「あなたは」ということばが文頭に来て、非常に強調されています。さらに、日本語では省略されていますが、二文目も原文では「どうして、あなたは自分の兄弟を見下すのですか」と、「あなたは」の部分が強調されています。

 キリストのものとなり、キリストの教えに生きる者となった「あなた」。生きるにしても、死ぬことでさえもキリストのために死ぬべき「あなた」。その「あなた」が、キリストのものとなっている他の兄弟姉妹をさばくとは、どういうことなのかと問われているのです。そんなことするはずがないよね?という前提と期待が込められているのでしょう。

 さばいている暇があるなら、主のため、人のために自分の人生をささげる。それがキリスト者であるというわけです。

 また、自分の兄弟と訳されたことばも「あなたの兄弟」という言い方です。それはあなたの親密な仲間という意味でもあります。つまり、そういう意識がないから、「赤の他人」と見なしてさばいてしまうのではないでしょうか。インターネットでかなりひどい批判の書き込みをする人がいます。それが親しい友人や仲間ならしないでしょう。赤の他人なので強く攻撃できるのではないでしょうか。


 さらに、こうした兄弟をさばき叩くのをやめるべき、決定的な理由が述べられていますね。私たちは神のさばきの座に立つからです。続く11-12節にもこうあります。 

11  次のように書かれています。 「わたしは生きている──主のことば──すべての膝は、わたしに向かってかがめられ、 すべての舌は、神に告白する。」 12  ですから、私たちはそれぞれ自分について、神に申し開きをすることになります。 

 私たちは誰に、自分のしていることについての「申し開き」をするのでしょうか。神様に対してしなければならないと語られています。「説明責任」ということばもあります。例えば政治家の皆さんは、ぜひ我々国民に対して説明責任を果たして欲しいというように。では、私たちクリスチャンの場合はどうでしょうか。12節にあるように、私たちが申し開きをする相手、説明責任を果たす相手は全知全能の神様なのです

 そうであるならば、私たちのうちいったい誰が兄弟姉妹をさばくことができるでしょうか。神の前に立たされるのです。

マタイ71-2のイエス様の教えはこうでした。「さばいてはいけません。自分がさばかれないためです。あなたがたは、自分がさばく、そのさばきでさばかれ、自分が量るその秤で量り与えられるのです。」 さばいた分だけ、自分も神様からさばかれる立場に置かれるのです。しかも、自分が厳しい基準で他の人をさばくほどに、自分がさばかれる基準も上がるのです。そして、それを公正にさばかれるのは主です。

 ですから、さばくよりもたたえ、愛したいのです。叩くよりも慰め、励ましたいのです。もはや人間的な基準ではなく、キリストのゆえに生きるのです。生きるにしても、死ぬにしても、私たちのためにいのちを注がれた主と、このお方が喜ばれる道に歩んで参りましょう。それが主によって救われ、いのちを与えられた私たちの幸いな人生です。


引用元聖書
<聖書 新改訳2017
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