東村山福音自由教会 ✞ Sunrise Chapel: ヘブル3章1-6節「神の家を治めるキリスト」
主が人の子らを、意味もなく、苦しめ悩ませることはない。(哀歌3:33)

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2025/03/10

ヘブル3章1-6節「神の家を治めるキリスト」

 *** 3/9(日)主日礼拝 説教概略 ***

 最初に皆さんにクイズを出しましょう(羊の写真を見せる)。これは何でしょうか?羊ですね。では、こちらは何でしょうか(羊飼いの写真)。そうです羊飼いです。

 もう一つクイズです。では、羊は羊飼いになることはできるでしょうか。羊が成長したら急に二足歩行になり、杖を自在に使うようになり、人のことばを話すようになり、羊飼いになれるでしょうか。なりませんよね。



 羊はどんなに成長しても羊です。羊飼いにはならないのです

 神は全知全能でクリスマスに人となられました。しかし、人は神にはなれません。今日、みことばが語っていることです。モーセが登場します。モーセは聖書中最も偉大な信仰者、リーダーの一人。忠実で謙遜です。では、彼は神様になれるのでしょうか。彼は造り主になれるでしょうか。彼は救い主キリストになれるでしょうか。なれませんね。

 なぜなら、彼は人間だからです。私たちを決して迷わないように完璧に導けるのは、羊飼いなる神様だけです。私たちを救うことができるのは、モーセやアロンではなく、イエス・キリストだけです。牧師や宣教師は人を救えません。どこまで行っても。どんなに学んでも、どんなに訓練しても、牧師は人を救えません。救えるのはキリストだけです。だから、私たちはキリストを指し示し、キリストを証しするのです。ともに教えられましょう。

 

1.使徒、大祭司なるイエスのことを考えよう

1節 ですから、天の召しにあずかっている聖なる兄弟たち。私たちが告白する、使徒であり大祭司であるイエスのことを考えなさい。 
「ですから」とは何を指しているのでしょうか。直前では、神の子イエス様が私たちと同じ弱さを担って、私たちを助けてくださると教えられました。ですからこのイエス様を告白し、イエス様のことをいつも考えなさいと言うのです。

 その際に、「使徒」であり「大祭司」であるイエスとあります。「使徒」はメッセンジャーのことで、12使徒は、キリストによって派遣されたキリストを伝える者です。ですから、彼のことばを伝え、彼と同じような行動を取るのです。また「大祭司」でもあると言います。大祭司は人間の代表として神様にとりなし祈る存在です。そして、使徒や大祭司は確かに人間でもなることが許されました。ところが、彼らは不完全であり、彼らがその働きができる最大の理由も、神様がともにおられ、神様ご自身がなさるからです。

 しかし、イエス様はご自分が神でいらっしゃいますから、完全な意味での「使徒」、「大祭司」なのです。だからこそ、真の「仲介者」、「とりなし手」であると言えますよね。この方のゆえに、私たちは神様との交わりを回復して、いつも平安のうちに歩めるのです。この方が治めてくださるから安心で、確信を持って大胆にこの道を進めるのです!

ところが、私たちには弱さがあります。私たちの大きな欠点、弱さがこれを妨げます。それは何でしょうか。人間的なものに拠り頼んでしまうということです。イエス様がいらっしゃるのに、イエス様以外の何かに拠り頼み、勝手に不安と恐れに支配され、道を誤ってどんどん苦しくなって行きます。頼るべきお方がいらっしゃるのに、頼りにならないものに走るのです。

この手紙の読者たちがそうでした。慣れ親しんだ過去の偉人モーセや、旧約時代のありがたい感じがする祭儀に拠り頼もうとしたのです。イエス様ご自身ではなく、自分が頼りやすい人間的なものです。 それでイエス様を考えなくなってしまうのです。

 

2.モーセにまさるイエス


 そこで、著者はモーセと比較しながら、読者の目がイエス様に注がれるようにしていくのです。

2  モーセが神の家全体の中で忠実であったのと同様に、イエスはご自分を立てた方に対して忠実でした。 
3  家よりも、家を建てる人が大いなる栄誉を持つのと同じように、イエスはモーセよりも大いなる栄光を受けるにふさわしいとされました。 

 著者はモーセの素晴らしさ、忠実さを否定しないようにしながらも、イエス様に目を向けさせようとしています。モーセは確かに素晴らしい信仰者でした。偉大な者でした。しかし、主イエス様はそれよりもはるかに大いなる方であるのです。なぜならば、モーセは造られた家に仕えたのですが、イエス様はその家そのものを造られた方だからです。3節にあるように、家そのものより、家を建てた人がより大きな栄誉を持つのだからです。確かに、造った人はそれを自由に壊すことも建て替えることもできますよね。より優れた物をも造ることができます。それで4節でこう語ります。 

4  家はそれぞれだれかが建てるのですが、すべてのものを造られたのは神です。 

モーセが優れた人物であることに疑いはありませんが、モーセもまた造られた側の人間に過ぎないというのです。イエス様はお造りになったお方。当然、主イエス様はモーセと比べるまでもなく、圧倒的に偉大なお方だと言えます。そして、続く5節にあるように、モーセは、イエス様の前では「後に語られること」を証しする「しもべ」でした。後に語られることとは、キリストのことです。モーセは神様から示され、礼拝するための「幕屋」を作りました。様々な礼拝の基本的な枠組みを整えました。忠実なる尊い働きでした。しかし、これらはあくまでも、本物が現れるまでの「礼拝の写し、模型」だったのです。同じヘブル書の85節にこのようにあります。

85節 この祭司たちは、天にあるものの写しと影に仕えています。それは、モーセが幕屋を設営しようとしたときに、御告げを受けたとおりのものです。 モーセたち人間の手によって造られた幕屋が「天にあるものの写しと影」だと語られているのです。それは天にある本物を、人に見える形で示すための「模型」のようなものでした。天の真似事です。ですから、それは不完全でした。つまりモーセの時代になされたことは、やがて来るキリストを通してなされる真の礼拝の「写し」「影」「ひな型」でしたモーセは将来のキリストを指し示すだったというのです。

 この点は、バプテスマのヨハネも似ています。ヨハネはキリストを示す「荒野の声」でした。彼は言いました。自分は衰え、キリストはますます盛んになるのだと。自分にはキリストの履き物を脱がせる資格さえないと。モーセも同じなのです。すべての忠実な信仰者はみなそうです。自分が崇められて、イエス様が隠されることなど真の信仰者は望まないのです!!

 ですから、5節の後半で、モーセが「しもべとして忠実」だったと語られています。彼は「しもべ」なのです。彼はどんなに立派でも、どんなに有名でも、神の家に仕える「しもべ」でした。ここの「しもべ」ということばは「セラポーン」ということばです。「セラピスト」の語源と考えられます。それは献身的に奉仕する「執事」という意味を持ちます。モーセは神の家に忠実な「執事」であるというわけです。

3.主イエスは神の家を治める方

じゃあ、イエス様は「執事長」なのでしょうか。違いますね。そっち側じゃない。
6節にこうあります。 

6  しかしキリストは、御子として神の家を治めることに忠実でした。そして、私たちが神の家です。 

 イエス様はこの家を治めるご主人様なのです。神の御子ですから。造った方、執事に命じる側なのです。その家の持主、治め主です。あの偉大なモーセであっても「しもべ」の側です。私たちも同様です。どんなに立派でカリスマ性のあるリーダーがいたとしても、その人もイエス様とは比べることすらできない、治められる側なのです

 私たちはどこかで、人に依存していないでしょうか。牧師がいなくても、主が牧会者だから何ら問題ないとイエス様に心から信頼しているでしょうか。

 よく考えてみると、私も皆さんにとても依存していると思わされます。役員さんたち、多くの奉仕を担い、頼りになる皆さん。その皆さんが急にいなくなったら、私は一気に不安と恐れに陥るだろうと。極めつけは奥さんですね。奥さんがいないだけで、急に不安になるでしょう。イエス様だけでは不安で、イエス様+皆さんで初めて安心できるとしたら、私は一体何により頼んでいるでしょうか。もちろん、頼りになることはすばらしいことです。でも、私たち人間は、どこまでいっても人間です。頼りたい時に頼れないこともたくさんありますよね。


 ですから、人間ではなく、人間となってくださった神の御子、救い主イエス様にのみより頼むのです。牧師を通して神様とつながるのではなく、牧師抜きでも毎日の歩みの中でイエス様をより頼んで歩むのです!この方だけが、造られた側ではない。管理される家の側ではない。この家を造られた方、私たちを治める王、迷える弱い羊たちを導く羊飼いなる方です。

羊と羊飼いは決して同じ存在にはならないですよね?羊が成長しまくったら羊飼いになるでしょうか。最初にお話ししたように決してならないのです!他の羊を頼ってついて行くとどうなるのでしょうか。一緒に迷子になるのです。一緒に道を踏み外すのです。羊はみんな近眼で、方向音痴で弱いからです。羊飼いだけが正しい道を知り、狼から守り、豊かな牧草地、憩いの水際へと導けるのです。たとえ年長の羊でも所詮は羊です。毛並みが良い羊も同じ羊です。足がやや長い羊もあくまで羊です。モーセも羊、アロンも羊、アブラハムも羊です。神様だけが私たちの羊飼いです。主はアブラハムを石ころからでさえ生み出すことができるお方なのですから。

 ですから、救い主イエス様を確信を持って信じて拠り頼んでいきましょう。6節後半です。

もし確信と、希望による誇りを持ち続けさえすれば、そうなのです。 この方に牧会され導かれるために最低限、神の家の住人である必要があります。この方の牧場の羊である必要があります。そのために求められていることは何でしょうか。主イエス様が救い主であるという確信を持ち続けることです。ここで「確信」ということばには「大胆さ」という意味もあります。確信がある人は、大胆に臆病にならずに歩めます。 良い羊飼いに守られ導かれるなら、いつでも豊かな緑の牧場と憩いの水場へと絶えず導かれるのです。羊飼いは勇敢に狼や野獣を追い払い、羊を守ります。死の谷さえ恐れることはありません。クリスチャンの強みです。

自分は弱くても、羊飼いが強い。王なるイエス様が最強。それゆえに、大胆にイキイキと歩むことができるのです。人を恐れないで、未来に怯えないで、見捨てられないという確信、主がともにいて支えてくれる確信。ここに大胆さが生まれるのです。

何しろ、この神の家の主人、この家の所有者、治めておられる方なのですから!そこに「喜びに満ちた希望」があります。誰が治めておられるかが重要です。あなたの心の王座は誰が治めているでしょう。あなたの牧者は誰でしょうか。生ける神の御子キリストです!

引用元聖書
<聖書 新改訳2017
聖書 新改訳2017©2017 新日本聖書刊行会

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