以前、ユースの働きについてお話をさせていただいた時にお伝えした一つのことは「信頼なくして指導なし」という事です。
信頼関係が築かれないと、なかなか指導のことばが届かないのです。
仮にある人が全部正しいことを言ったとしても、その人に対して信頼がなければ、何を言っても受け取ってもらえないと思います。
でも、反対に深い信頼関係があるならば、先が見えない中でも、その人のことばに従って躊躇なく行動できるのではないでしょうか。
「信仰」とは、より分かりやすい言葉で言うと「信頼すること」だと言えます。
神様の存在を信じてはいても、神様を信頼していないというケースも少なくありません。
信仰の確信がない、信じているのに喜びや感動がない・・・それは「信じている」とは言いながらも、「信頼して歩めていない」という事かも知れません。
イエス様は言われました。「わたしが来たのは羊たちがいのちを得るため、それも豊かに得るためです」と。豊かに得るために来てくれたのに、豊かに得ていないのなら、もっとイエス様に信頼して豊かに得させていただきましょう!
1.すべてのキリストに等しくゆだねらている1ミナ
イエス様はあるたとえ話をされました。
12節 イエスはこう言われた。「ある身分の高い人が遠い国に行った。王位を授かって戻って来るためであった。
13節 彼はしもべを十人呼んで、彼らに十ミナを与え、『私が帰って来るまで、これで商売をしなさい』と言った。
この身分の高い人とはイエス様のことです。イエス様は遠くに行ってしまいます。それは十字架の死後、天に昇るということ。
そして「王位を授かって戻って来る」とは、世界の真の王として終わりの日に再臨されるということです。
その時まで、キリストの弟子たちに働きをゆだね、私が帰るまでしっかりと神の国のために働きなさいということです。
そんな中、14節では反対者のことにも触れられています。
14節 一方、その国の人々は彼を憎んでいたので、彼の後に使者を送り、『この人が私たちの王になるのを、私たちは望んでいません』と伝えた。
「イエス様が王となることなど、俺たちは望まないぞ!」と言う人々がいるということです。イエス様を妬ましく思っていた宗教指導者、律法学者などです。イエス様を救い主だとは認めない人々です。
ただ、認めないのは自由ですが、王に平然と逆らう者はその身を滅ぼすことも知っておかなければなりません。27節にある通りです。
さて、話は戻りますが、この主人は全員に1ミナずつを与えて旅立って行きます。ちなみに1ミナは、約100日分程度の収入です。現代で言えば日給1万円換算で100万円ほど預けられたということです。
実は、このたとえ話と似た話がマタイの福音書にもあるのですが違いがあります。マタイでは、最初にあずけられる額に違いがあり、賜物の違いを意識しています。
しかし、ここでは全員に同じ額をあずけています。すべてのキリスト者に平等に同じだけ与えられているものが、この1ミナだということです。
それが具体的に何かは書いてないのですが、キリスト者に等しく与えられていて、それを用いて豊かに増やすべきもの(増やせるもの)。
それは「救いの恵み」、「福音」ではないでしょうか?
救いの恵みは分かち合うほどに豊かにされ、救われる者が起こされ増えていき、決して減ることはないでしょう。与えられた福音は、分かち合うほどに自分も豊かになり、人々に喜びをもたらし神の国を拡大しますよね。神様から「救い、福音」を受けた者として、どう生きるかが問われているのです。
2. キリストの再臨の時に
話は進み、イエス様が王として帰って来られる時の話になります。終わりの時です。
イエス様はそれぞれのしもべ、弟子たちに様子を聞きます。私がいない間どうだったのかと。大変でしたか?辛いこともあったでしょう?そういう中でよく忍耐して頑張りましたねと労っていただけたら幸いです。
私たちにとって、これは本当に慰められる嬉しい時ですよね。
最初のしもべは、預かった1ミナを用いて10ミナに増やしました。忠実なしもべです。
17節で主人のことばをいただいています。
17節 主人は彼に言った。『よくやった。良いしもべだ。おまえはほんの小さなことにも忠実だったから、十の町を支配する者になりなさい。』
また、別のしもべも預かった1ミナを5ミナに増やしました。この人も5倍に増やしたので、5つの町を治める者になりなさいと、より大きなことを任せられます。
ただ、もう1名しもべが登場しますよね。20節です。
20節 また別のしもべが来て言った。『ご主人様、ご覧ください。あなた様の一ミナがございます。私は布に包んで、しまっておきました。
もうこれ「アカンやつや」とすぐに分かりますね。何のために任されたのか分かりません。せめて銀行に預けてお金を少しでも増やせば良かったのにと言われます。この当時はいわゆる銀行はないものの、金貸し業はありました。何もしないよりは、金貸しに預けて少しでも増やした方がマシだと言うのです。
私たちはここからどう受け止めるべきでしょうか。少なくとも最後の布に包んでおいただけの「しもべ」にはなりたくないですよね。この者は取り上げられてしまいます。
そうではなく、最初の二人のしもべのようでありたいのです。イエス様とお会いする日、「あなは本当によくやりましたね。忠実な良いしもべですね。御国ではさらに豊かなものを与えましょう」とおほめの言葉をいただきたいのです。
そんなことばをいただける程、自分は忠実ではないなと思わされます。
でも、すばらしい恵みをもらったのだから、ほんの少しでも多くの人に分かち合い、5倍10倍になるために祈り仕えたいと思うのです。
そのためにも、なぜ、この最後のしもべは、何もせず布に包んでいたのかを知ることがヒントになります。
3.主を信頼して踏み出していくこと
なぜ、この人はこんなことをしたのでしょうか?
理由が21節にあります。
21節 あなた様は預けなかったものを取り立て、蒔かなかったものを刈り取られる厳しい方ですから、怖かったのです。』
ご主人、あなたが厳しく不条理な方だから、「怖くてできませんでした」という言い分です。ようはご主人様を信頼して行動できなかったということです。
私たちには「怖くて一歩を踏み出せないこと」がしばしばあるのではないでしょうか。
私自身は「厳しい助言」を申し上げるのが苦手なんだなと思うことがあります。
中には「ウソでしょ?」と思われる方もあるかも知れませんが、本当です。
厳しいことと言うのは、もちろん聖書が語っている真理のことです。それが正しい事、良い事なのがわかっており、その人に必要なことだとわかっている。そこまで分かっていてさえ、恐れて言えないと思ってしまうことがあるのです。
相手の方が受け止められないかも知れない。これを言ったらもう教会に来ないかも知れない。もう私の話に耳を貸さないかも知れない。そう思うと言えなくなります。自分がそれを言うことで、この人が神様から離れたら自分のせいではないか?1ミナを増やすどころか、マイナスにしてしまうのではないか?と「恐れる」のです。
でも、この恐れは結局、神様を信頼していないゆえに起こる「恐れ」であり、まったき愛から出ていない「恐れ」です。
その人を愛するならば、その人を大切に思うならば、言わなければいけないこと、伝えなければいけないことがあります。嫌われる勇気をもって言わなければならない時があります。とても勇気が必要で、出来るなら逃げたくなります。自分の代わりに誰かが言ってくれればいいのに。そうすれば、自分はその責任を負わないで済むのにと思います。
でも、ここで逃げる限り1ミナを包んでいるだけの人になる。私は主からそう問われています。皆さんはどうでしょうか?
信仰歴が長くなって無難な信仰生活は送れるかも知れません。でも同時に踏み出さない歩みに慣れてしまってはいないでしょうか。1ミナを包んでいるだけの歩みになってはいないでしょうか?
私たちは主を信頼して、このリスクの中に一歩踏み出す必要があります。リスクのない投資はないと言われるように、豊かになるためにはリスクは当然あるものです。
しかし、もう一つ当然にあるものを忘れてはいけません。
そのリスクさえも益に変えることのできる主の守りも確かにあるのです。
ピンチをチャンスに変えてくださる主の恵みのわざです。
私たちの言葉の足りなさ、私たちのタイミングの悪さ、私たちの配慮の欠け、そうした破れをすべて繕って、1ミナを豊かに増やしてくださるのは主ご自身なのです。
1ミナを10ミナにした人はどういう人なのでしょう。
増やさなかった人より能力があるということでしょうか?優れていたのでしょうか?
イエス様が能力の話をしているはずがありません。この人は主人を信頼して踏み出した人なのです。
ゼカリヤ書にもこうあります。4:6「権力によらず、能力によらず、わたしの霊によって」と万軍の主は言われる。
権力じゃない。能力でもない。ただ主の御霊の力によってなす。
それは主に信頼して歩む人の特権ですよね。
自分の能力を超越した部分で、主の助けが働くことを信じて歩むのです。誰もが怖いのです。しかし、見えないリスクだらけの中を主が共におられるからと踏み出していくのが主を信頼して忠実に従う人の歩みではないでしょうか。
聖書には1ミナを何倍にも増やした信仰者が語られています。
行くべき場所がわからないけれど、主が行けと言われたから旅立ったアブラハムのように。王族であったのにエジプトの誉れや宝を捨てて、神の民ともに苦しむことを選んだモーセのように。強大な敵があふれかえる約束の地カナンに、主を信頼して踏み入ることを進言したヨシュアとカレブのように。
身を守ることばかり考え1ミナを布に包んでおくのはやめましょう。与えられた「救い」「良き知らせ」「真理」を大切な人にしっかり伝えましょう。恐れないで主の教会に招きましょう。終わりの日の主のことばを楽しみにして!
19章17節 主人は彼に言った。『よくやった。良いしもべだ。おまえはほんの小さなことにも忠実だったから、十の町を支配する者になりなさい。』
2020.3.22 礼拝メッセージ概略
引用元聖書
<聖書 新改訳2017>
聖書 新改訳2017©2017 新日本聖書刊行会