東村山福音自由教会 ✞ Sunrise Chapel: 毎日の聖書【10月分】

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2024/09/30

毎日の聖書【10月分】


1日 レビ記21章
 祭司たちへの教えがなされている。1-4節では、特に死人によって自分の身を汚してはならないとある。罪の影響によって「死」が人間の世界に入った。そうした背景を覚えてのことだろう。また、その死体には、もうその人のたましいはなく、主のみもとにある。必要以上に亡骸に固執することも相応しくない。特に祭司は模範を示す立場だからこそ、相応しい態度が求められた。5節では、「頭を剃ってはならない。ひげの両隅を切り落としてもいけない。からだにいかなる傷もつけてはならない」という不思議な教えがあるが、実はこれは、異教の人々が死者を悼む時になした習慣であった。ゆえに、20章で警告されていたように、異教徒の悪習慣に倣わないにせよという教えである。6節で、彼らは偽りの神に対してではなく、「自分の神に対して聖でなければならない」とある。私たちも同様だ。どこを見て歩んでいるのだろうか。世の評価であろうか。協調性という名のもと、間違った習慣に流されないようにしたい。世界の王、世界の造り主に対して聖でありたい

2日 レビ記21章
 祭司の職務については、17節以降にあるような身体的な欠陥を持つ者は、担うことができなかった。主への食物を献げようと近づくことや(21)、垂れ幕や祭壇での奉仕のためち近づくこと(23)等が禁じられていた。これらを差別だと考えることは、安易な発想であろう。神は聖なる方であり、祭司には聖なる厳粛な務めが求められていた。それゆえに、体に様々な弱さ、欠陥を持つ者が働きを任せられることで、主の求めに相応しく応じられない可能性があったであろう。本人にとっても健常な者と同じ奉仕の質を求められることは、現代風に言えばパワハラかも知れない。また、22節では「神のパンは最も聖なるものであっても食べることが許されていたことがわかる。それは主との交わりである。そこに何ら制限はない!また祭司の務めの手伝いが許されていた。主にある適材適所であろう。各人には与えられた持ち場があり、そこで忠実に主と歩むことこそ最も大切なのではないだろうか

3日 レビ記22章
 2節で、「イスラエルの子らの聖なるものは慎重に扱え」と語られている。そこをいい加減に扱う時、「わたしの聖なる名を汚して」しまうことになる(2)。現代のクリスチャンは、そこまでの「慎重さ」を求められない恵みの中に置かれている。かつては、レビ人の中から選ばれた一部の者だけが、まさに慎重にこれらの務めを担っていた。だが、キリストの十字架の恵みによって、「大胆に」神の恵みの御座に近づくことができるようにされた(ヘブル4:16、10:19-20)。この恵みは、新約聖書だけを読んでいても分からなくなってしまう。旧約聖書のこれらの教えを知るからこそ、キリストの十字架によって、大胆に恵みの御座に入れることの大きさを知る。キリストの十字架による救い、その恵みに心から感謝しよう!!

4日 レビ記22章
 3節では、「聖別した聖なるもの」に、汚れたままで近づくならば、主の前から断ち切られるとある。そして、「きよくなるまで聖なるものを食べてはならない」と語られている(4)。10節でも、「一般の者はだれも、聖なるものを食べてはならない」とある。
聖餐式を考えると理解しやすいかも知れない。聖別されたそのパンと杯は、誰でも自由に食べて良いものではない。汚れたままでそれを食べるならば、恵みを受け取れるすばらしい機会であるのに、かえって、聖なるキリストのからだと血に対して罪を犯すことになるのだ。では、どうすればいいのか。きよくなれば、聖なる食べ物を食べられるのだ。その方法は、キリストの十字架を信じること。キリストを救い主として信じ、受け入れる者は、すべての罪が赦され、きよめられる。ゆえに、聖餐式は信者のみ受けられるのである。どんなに罪がある者でも、キリストを信じるならばきよめられ、聖なるものを食すことができる!!

5日 レビ記23章
 2節にて、主はイスラエル人皆に対して「例祭」を持つように教えている。神の教えの中で行われる様々な「祭り」は、「聖なる会合」であるからだ。教会で持たれる祭り、イベント等もまた、神の臨在を覚えて行う聖なる会合であろう。世的になると、教会で持たれる意味は失われ、聖なる神を証しできなくなってしまう。私たちの交わりはどうだろうか。
 これらは、神に目を注ぎ、神のみわざを思い起こす機会であった。3節で、これらの例祭に先立って、安息日を全き休みの日とし、聖なる会合とせよとの教えがある。6日間は働き、安息日である7日目には「全き休み」とするようにと命じられている。7日目だけは、自分の働きの手を止める。その理由は、神のなさることにのみ目を注ぐためだ。毎週繰り返される安息日を大切にする姿勢は、例祭・聖なる会合のベースにある姿勢だ。「この日は、あなたがたがどこに住んでいてもの安息日である」とあるように、出張先であろうと、旅先であろうと、主を覚えるため、主の前に安息し礼拝をささげること大切にしたい。

6日 レビ記23章
 神が命じられた「祭り」の教えが続く。祭りの主要な目的は何だろうか。世界中で様々な祭りが行われてきたが、その本来の意味が失われ、ただ騒いで楽しむこと自体が目的になってしまっていることが少なくない。 4節から8節で語られているのは、「過越(すぎこし)の祭り」である。6節の「種なしパンの祭り」もその一部と考えて良いだろう。この祭りは、エジプトで奴隷であった時に、神が多くの奇跡をもって、イスラエルをエジプトから救済してくださったことの記念である。こうした感謝を失ってしまうと、人は神を侮り、自らを誇り始めてしまう。そのために祭りが定期的に持たれ、神のみわざに目を注ぐのだ。10-14節にあるように、約束の地カナンで収穫した際には、収穫の束を神の前で揺り動かし、その感謝をささげる。しかし、苦しみが過ぎて豊かになると、人は感謝や恩義を忘れてしまいやすい・・・。神を忘れてしまうならば最悪である。主を覚えるための定期的な機会は、私たちの弱さを補うため、神が定められたもので、私たちが定期的に聖餐式を行うのは、まさにそのためである。

7日 レビ記23章
 15-22節は、五旬節の祭りについて語られている。過越の奉献物の束を持って行った日から7週(49日)を数え、その翌日である50日目に新しい穀物を主に献げる(15-16)。イスラエルの民は、エジプト時代の労苦を逃れ、また荒野時代の食料の困難をから逃れ、約束の地カナンで収穫を存分に得られるようになるので、これらの祭りを通して神への収穫感謝をする。そして、新約においては、キリストによる十字架の死からの復活からちょうど50日目にキリストは救いのわざの完成として天に昇られ、約束の聖霊が与えられる記念日となった。これが「ペンテコステ(ギリシャ語で50番目)」である。ペンテコステを境に、キリストの福音が世界中に広がって行くようになった。興味深いことに、22節では、貧しい人や外国人の糧を満たすため、収穫を残しておくことが教えられている。それは、やがて来るペンテコステの時に、すべての人々に福音が広がることを示していたのではないだろうか。私たちも自分たちだけで満足せず、世界中のあらゆる人々に福音をお分かちしていこう。

8日 レビ記23章
 23-44節では、ラッパの祭り、贖いの日(宥めの日)、仮庵の祭りについて語られている。第七の月(現代の10月)に持たれる「ラッパの祭り」は、角笛を吹き鳴らして記念する聖なる会合であった(24)。これは捕囚期以後は「新年の祭り」とされている。そして、終末においては、キリストの再臨時に、このラッパが吹き鳴らされる。新天新地への序曲のようだ。26節以降で語られる「贖いの日(宥めの日)」は、大祭司によって民全体の罪の赦しのために行われ、新約においては終末における救いの完成を示す。34節以降の「仮庵の祭り」は、エジプトを脱出した神の民が、仮住まいで過ごして来た時の主の守りを感謝するもの。これは、私たちキリスト者が、天の故郷に帰るまでは、地上では仮住まいの歩みであることを忘れないためのものである。このように聖書における様々な祭りは、キリストにおける救いを覚えるために有意義なものであった。神のご計画の深さに圧倒される。

9日 レビ記24章
2 節「あなたはイスラエルの子らに命じて、ともしび用の、質の良い純粋なオリーブ油を持って来させなさい。ともしびを絶えずともしておくためである。語られている。「ともしび」とは、霊的ないのちの象徴、つまり信仰のともしびである。私たちの信仰のともしびを、消してはならないと主は言われる。しかし、そのともしびを保つために必要なのは何だろうか?ゼカリヤ書4章では、神はゼカリヤに燭台の幻を見せ『権力によらず、能力によらず、わたしの霊によって』とのことばを与えられた場面がある。人の権力、能力を燃料するのではない。神の御霊の力によって、私たちの信仰は燃え続けるのだ。ゆえに、燃え尽きない道は一つしかない。無尽蔵に与えられる主の御霊の注ぎをいつも受けること。己の力によらず、ただ主がなしてくださることに心から信頼してついて行けばいいのだ。

10日 レビ記25章
2節 「イスラエルの子らに告げよ。わたしが与えようとしている地にあなたがたが入ったとき、その地は主の安息を守らなければならない。 このみことばは、カナンの地へ入った時のための教えである。その地で「主の安息」を守られなければならないと前もって命じられていた。荒野での厳しい40年の生活が終わり、ついに豊かな約束の地カナンへと入ろうとする時のために教えられていた。それまでは「マナ」という神が与えられた糧で生かされてきたが、ついにその日々が終わるのだ。ただ、神のおかげで養われていたことを忘れてはいけない。どんなに物を所有しようと、神の恵みを忘れてしまっては、人は幸せではない。そこで、約束の地では7年ごとに「安息年」を持つことを主は定められた(3-4)。私たちの誰よりも、神ご自身が働いておられるので、私たちは地から糧を得て、生かされているのだ。

11日 レビ記25章
6節 地の安息はあなたがたに食物をもたらす。すなわち、あなたと、あなたの男奴隷と女奴隷、あなたの雇い人と、あなたのところに在住している居留者のため、7節 また、あなたの家畜と、あなたの地にいる獣のために、その地の収穫はすべて食物となる。 
 この地の7年目の安息年を過ごすことが、どのような恵みとなるのか、示されている。すべての農地は、この年に限っては地主の所有ではなくなり、神の所有となる。そして、そこで実っているものはすべての人、すべての動物に解放された。5節で「刈り入れ、収穫をしてはいけない」とある。儲けるためのいわゆる「収穫」はできないとされたが、生きるのに必要な分は誰でも自由に得ることができた。それにより土地を持たない人々みんなに土地の糧を分かち合う機会であった。男性女性の区別もなく、奴隷という立場の人、雇われている労働者、在留している者たち、さらには家畜やその地域にいる野の獣たちまでも。本来の持主である神に感謝して生きる機会であった。

12日 レビ記25章
 10節以降では「ヨベルの年」が教えられている。 10節 あなたがたは五十年目を聖別し、国中のすべての住民に解放を宣言する。これはあなたがたのヨベルの年である。あなたがたはそれぞれ自分の所有地に帰り、それぞれ自分の家族のもとに帰る。ヨベルの年は、社会的格差が是正され、リセットされる機会であった。借金のために奴隷にされた人々が解放され、借金等によって奪われた土地が持ち主に返される年である。人々はマイナスとなった財産をゼロに戻し、再出発することが許された。この教えは世界に広く用いられている。日本では戦後、GHQの働きかけでヨベルの年を背景にした「農地改革」がなされ、一部の権力者の独占を防止でき、貧富の差是正に一役買った。近年では、G8(先進国主要8か国)にて「ジュビリー2000」が行われ、アフリカ等の貧国の債務が帳消しにされている(ジュビリーとはヨベルのラテン語)。聖書の教えが、世界の格差を是正し、そのおかげで争いが減り、民主化が進んでいる。神の教えの影響力に感銘を受ける!


13日 レビ記25章
 50年に一度の「ヨベルの年」は聖なるものであった(12)。これを重んじることは、聖なる神を敬うことであり、隣人を自分自身のように愛することであるからだ。50年に一度のリセットを守ることは、持つ者にとっては悔しいが、「神のおかげで与えられている」ことを改めて確認する機会でもあった。こに、すべての土地はそもそも神のものであるという原則があるのだ。23節で、神は「土地はわたしのものである」と宣言しているのだ。こ実に、私たちが所有しているつもりになっている一切は、本来、神の所有物である。それを忘れる時、人は奪い合い、殺し合い、ねたみ、憎む。すべては神のものである!これを忘れてはならない。

14日 レビ記25章
 39-42節にて、兄弟が落ちぶれて、ある人に身売りしたとしても、奴隷としてはならず、また奴隷として売られてはならないと語られている。そして、その人を「酷使(こくし)してはならない」とも語られている(43)。その理由は、42節にあるように、「彼らは、わたしがエジプトの地から導き出した、わたしのしもべ」だからであった。イスラエル人は神が所有している「神のしもべ」、「主のもの」なのである。ゆえに、人間が勝手に神の所有権を奪ってはならなかった。神のしもべを、人が偉そうに酷使してはならなかったのである。46節でも同様に、「イスラエルの子らは、互いに酷使し合ってはならない」と教えられている。私たちもまた、神が愛しておられる神の子らを、不当に傷つけてはならないし、「酷使」などもってのほかではないだろうか。ゆえに主イエスは、「互いに愛し合いなさい」とその弟子たちに命じられたのである。互いに愛し合うようにと召された神の家族である。

15日 レビ記26章
 「あなたがたは自分のために偶像を造ってはならない」と語られている(1)。これらを造っても、拝んでもならない。では「偶像」とは何だろうか?その意味としては「むなしい価値なきもの」といった意味がある。むなしい価値のないものを、神の代わりにしてはならないのだ。そしてまた、偶像ということばには「不足、欠乏」という意味もある。全知全能の神と違って、偶像には力がなく、何かと足りてないのだ。なぜ、偶像を造ることが禁じられているかと言ったら、このように本当の神の姿を貶めて小さくし、本物の神から人を遠ざけてしまうからである。 ゆえに、1節の最後で主は言われる。「わたしがあなたがたの神、だからである」と。造り物ではなく、こうして生きて語っているわたしが、あなたがたの神、主であると言われるのだ。そして、偶像ではなく、まことの神を愛する方法の中心が、2節にあるように、安息日を守るということであった。自分のために、ではなく、主を愛する道である。

16日 レビ記26章
 新しく入るカナンの地にあって、民が神の掟に従い、神の命令を守り行うのなら(3)「時にかなってあなたがたに雨を与える」と語られている(4)。それによって、地は産物を出し、多くの実りがもたらされるというのだ。5節によれば、「安らかに自分たちの地に住む」ともある。6節では「その地に平和を与える」とあり、誰からも「脅かされるずに寝る」ともある!!あなたはどうだろうか。誰からも脅かされずに安眠できているだろうか。働いた分だけ、良き実りを受けているだろうか。世界は神のものだ。だから、神の掟に従うこと、神の命に従うことがこの幸いな日々のための最善の道だ。さらには、9節では「わたしはあなたがたを顧み、多くの子を与えてあなたがた増やし・・・」とある。家族も加えられ、新しい仲間も与えられ、豊かにされるのだ。神の教えを信じて、歩んでいこう!安眠できることは本当に幸せなことだ。

17日 レビ記26章
11節 わたしはあなたがたの間を歩み、あなたがたの神となり、あなたがたはわたしの民となる。 すばらしい励ましのみことばだ。全世界の造り主、全知全能の神が、我らの間に歩み、我らの神となり、神ご自身も我らの神となってくださるという。13節にあるように、実際、エジプトにおける最悪な奴隷生活から、神はその力強い御腕をもって、助け出し救ってくださった。それどころか、40年間の不毛な荒野での生活でさえ、必要な一切を与え続け、この民を豊潤なカナンの地まで導き、相続させてくださったのだ。もっと言うならば、この11節のことばは、イエス・キリストにおいて完全に成就されている神である方が、肉体を持って、人の間に住まわれた。まさに「人間」となってくださった。我らの重荷を担い、ともに歩み、ともに笑い、ともに泣いて、愛する民のためにいのちまで捨てられた。キリストのそのお姿こそ、人とともに歩まれる神の愛の御姿なのだ。

18日 レビ記26章
 神の声に従って生きる時、それは神の民となって祝福を受ける道であった。しかし、14-17節にあるように、神の声に聞き従わず、その契約を捨て、罪深く慈悲なき歩みをするのなら、神は病を送り、収穫を減らし、イスラエルに敵対して助けることをしないことが語られている。ただし、18節を味わるとわかるのだが、これらは一つの「警告」であって、より深刻な事態にならないようにとの懲らしめである。その時点で立ち返りたいものだ。
 そして、これらが起こってさえなお、神に立ち返らないのならば、それらの罪に対して「七倍重く懲らしめる」とある。前もっての警告であって、それを信じて受け止め、時に従えなかったとしても悔い改めて立ち返るなら、神はあわれみをもって赦してくださるはずであった。19節で、「わたしは自分の力を頼むあなたがたの思い上がりを打ち砕き」とあるように、神は人が自分を神のように誇ることを悲しまれる。人が自分を神のようにすることほど醜く、見ていられないものはない。人にも神にも感謝して、神に生きる者となろう。

19日 レビ記27章
30節 地の十分の一は、地の産物であれ木の実であれ、すべて主のものである。それは主の聖なるものである。それは主の聖なるものである。 おもしろいことに、「木の実」であれ、すべて主のものであると語られる。土地であったり、大量の農作物を神に感謝するのはわかるが、小さな木の実一つを神のものとして感謝する姿勢が、案外私たちには足りてない。ご飯を感謝するお祈りはするが、それを食べる箸を感謝する祈りはあまりしない。食器を感謝する祈りもしないだろう。だが、すべて「主のもの」なのである。献金する場合も、自分の財産を献金しているつもりだが、そもそもそれは、この世界の産物から出てきたものである。神が造られたこの世界から受けた恩恵だ主の聖なるものとして感謝して、大切に、そして良きことのために用いよう!

20日 マタイの福音書1章
 1節で、「アブラハムの子、ダビデの子、イエス・キリストの系図」と始まる。系図で始まるこの福音書は、明らかにユダヤ人を念頭においた書である。ユダヤ人にとって系図は大きな関心事であり、またあのイエスが一体何者なのか神の預言通りの救い主なのか、そこには大いなる関心があったのだ。アブラハムの子孫、ダビデの子孫として、イエス・キリストが明示されている。それは神がアブラハムになした契約(約束)と、ダビデにした契約(約束)真実であることを示す。あなたの子孫を祝福するという契約、また、あなたの王国を永遠に堅く立てるという約束、いずれもこの系図を見れば真実であったとわかる。アブラハムの子孫として、ダビデをはじめ、多くの王が生まれた。アブラハムから王国が生まれたのである。そして、その家系に生まれた子孫キリストによって、その王国は永遠のものとされ、ダビデへの神の約束も成就している。系図は神の真実を、歴史的によって証明しているのだ。歴史全体を通して真実性を示せる神の偉大さに圧倒される!

21日 マタイの福音書1章
 イエス・キリストの系図が続く。5節では「サルマがラハブによってボアズを生み、ボアズがルツによってオベデを生み・・・」と語られている。ラハブという女性はカナン人の女であ、イスラエルの神が力ある方であると知り、カナンの地に入るのを助けた女性であった。それゆえに、彼女はイスラエルの民に加えられ、まことの神を信じて歩んだのだろう。ラハブの子として生まれたボアズは、ルツ記に登場し、とても親切で紳士的な人物であるとわかる。ラハブが良い信仰を持って歩んだ証拠ではないか?そして、やはり外国人であるモアブ人の娘ルツに親切にし、彼女を妻として迎える。こうして外国人の女性であっても、まことの神を信じて従い、しかもキリストの先祖という立場にされたことは本当に興味深い。神は最初から、異邦人をも救いの対象と考え、そのような人々がキリストの系図に加わるようにされた。神の摂理である。この救いの世界的な広がりに、神の深い愛を感じる!

22日 マタイの福音書1章
 1章の18節以降は、イエス・キリストの誕生について語られている。18節では、マリアはヨセフと婚約をしていたが、一緒にならないうちに、聖霊によってみごもった。できちゃった婚など「あり得ない!」とされる時代。しかもヨセフは、身に覚えがない。男性を知らないマリアが「聖霊によってみごもった」など、人々から理解されるものではなかっただろう。19節で、「夫のヨセフは正しい人で、マリアをさらし者にしたくなかったので、ひそかに離縁しようと思った」とある。正しい真面目なヨセフだからこそ、マリアがどれほど侮辱され、傷つくだろうかと心配した。それで、ひそかに離縁しようと思ったのだ。しかし、ヨセフは夢で神の使いによるメッセージを聞いた。「恐れずにマリアをあなたの妻として迎えなさい」と。ヨセフは自分の思い、自分の正しさにこだわらず、神の語りかけを受け入れ、その通りにした。私たちもこの姿勢を大事にしたい。正しい真面目な人ほど、常識外れに思われる神のみわざを受け入れがたい。自分の考えに固執してしまうだろう。だが、主が語られることが、真の正義、本当の正しさである。

23日 マタイの福音書1章
23節「見よ、処女が身ごもっている。そして男の子を産む。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」イザヤ書の預言を引用しながら、著者マタイはイエスの誕生が約束の通りに成就するものであることを明言している。「インマヌエル」とは、「神が私たちとともにおられる」という意味であることが、23節で解き明かされている。神の御子のタイトルにそのような意味があることは、とても重要である。聖書の神が、どこか遠くにいる神ではなく、我らとともにおられる神であることがわかる!それは、このマタイの福音書の最後でも同様に言及されている。イエスの弟子に対することばとして、「見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます」(28:20)としめくくられる。我らとともにある神、イエス・キリストの降誕を心より感謝しよう!

24日 マタイの福音書2章
 求める者もいれば、拒む者もいる。キリストが生まれた際、東方の博士たちは、この方を「礼拝するために来た」と言う(2)。イスラエルではない、外国の博士たちであったが、熱心に研究し、ひと目、救い主に会いたい、会って礼拝したいと願ってはるばるやってきたのだ。神はどの国の人であっても、求める者を受け入れてくださる。一方で、ユダヤのヘロデ王は、王の誕生を聞いて恐れを抱いて戸惑った。自分の立場が危うくなると考えたのだ(3)。救い主をどのような視点から見るのか、人によって大きな違いが生まれた。その人の心にある様々な思いが現れるからだ。しかし、私たちの勝手な見方であってはならない。聖書が語るように、イエス・キリストは礼拝されるべきお方なのだ。

25日 マタイの福音書2章
 4節によれば、ヘロデは、祭司長らや律法学者らを集めて、キリストが生まれる地をつきとめようとした。5節では、「ユダヤの地ベツレヘムです」と、預言者のことばから導き出し答えが語られている。それはミカ書5章2節の預言であった。ユダの地、ベツレヘムよ、あなたはユダを治める者たちの中で、決して一番小さくはない。あなたから治める者が出て、わたしの民イスラエルを牧するからである。』とある。ベツレヘムはエルサレムとは違って、小さな町であったが、救い主がお生まれになったことによって、メジャーな町となった。キリストを輩出したというだけで、有名な町となったのだ。我々も小さな者かも知れないが、我々の中におられるキリストは大いなる方であり、キリストがおられるというだけで、我々は力ある大いなる者とされている。

26日 マタイの福音書2章
 ヘロデ王は猜疑心が強く、イエスを見つけて虐殺しようと考えていた。博士たちを呼び出して、救い主の星についても詳しく聞いた(7)。また、具体的に博士たちが御子のいる場所をつきとめたのならば、知らせて欲しいとも彼は言った。しかも、その理由は「私も行って拝むから」という偽りだ(8)。博士たちは、星に導かれるままに行くと、幼子イエスのいるところで星はとどまった(9)。10節によれば、博士たちはその星を見て、この上もなく喜んだとある。同じようにイエスについて聞いて、この上なく喜ぶ者もあれば、否定したり、敵対心を持つ者もある。11節によれば、博士たちは、贈り物をもって幼子イエスの前にひれ伏して礼拝したとわかる。「後の者が先になり、先の者が後になる」のが神の国であるとイエスは言われる。遠方にいた外国人が先にイエスのもとに行き、ユダヤの身近な環境にあった者が拒んで後になる・・・。教会生活の時間の長さや立場は関係ない。イエスの名を呼び求める者は誰でも救われる!

27日 マタイの福音書2章
 御子を礼拝した博士たちは、夢の中でヘロデのもとに戻らないよう警告を受けた(12)。また、ヨセフにも夢の中で御使いが警告し、エジプトへ逃げるように示された(13)。こうして、彼らはいずれもヘロデの暴虐から免れることができた。神の確かな守りである。神に従う者は、このようにして守られている。そして、これもまた、旧約預言の成就であったとマタイは記している(15)。神の計画は何一つ狂うことなく、確実のおことば通りに成就する神が真実(誠実)な方であるとは、そういうことである。
 一方、ヘロデは激しく怒り、ベツレヘムとその周辺の2才以下の男児を手あたり次第殺させた(16)。なんという暴虐だろうか。ただ、これもまた17-18節にあるように、神が昔から予知しておられたことであった。それにしても、なんと人の罪は恐ろしいものであろうか。自分の感情のままに、何の関係もない人々を犠牲にするのだから。私たちも怒りに支配されないようにしなければならない。感情を主に整えていただこう!

28日 マタイの福音書2章
 ヘロデの死後、御使いが夢に現れて、イスラエルの地に行くようにと示された(20)。安全を告げ知らせる神の知らせであった。ただし、イスラエルに入った際には、再度警告がなされて、ユダヤではなくガリラヤに住むように導かれていることがわかる(22)。ヨセフは、すべて、神が示された通りに従った。結果、彼らはガリラヤのナザレという町に住むことになる。それゆえに、「ナザレ人イエス」という呼び名が使われるようになる。マタイによれば、これもまた預言者たちを通して語られていたことであると言う。キリストに関する多くの旧約預言が、ことごとく成就していることをマタイは示す。どれもこれも、「状況が変わったから対応を変えた」というようなものではなく、ずっと昔からの神のご計画であったことがわかる。神はすべてご存知であり、信頼に値する神のことばであるとわかる。

29日 マタイの福音書3章
 イエスより半年前に生まれた親類、バプテスマのヨハネは、ユダヤの荒野で教えを宣べ伝えていた(1)。「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから」と(2)。キリストの公生涯が始まろうとしていた。それこそ、天の御国が近づいたということである。神の御子、約束のメシヤがこの地に来られた。いよいよ、神の救いのみわざがなる。御子を信じる者は罪赦され救われるが、御子を信じない者は罪に定められる。だから、信じない者にならないで、悔い改めて信じる者になるようにとのメッセージである。悔い改めるとは、方向転換をするという意味もある。自らの罪を認めて生きる方向を変え、神の義の道へと改めて行くことだ。なお、3節によれば、このヨハネのこともイザヤ書で預言されており、すべてが神の計画の通りになされていることが、ここでも確認されている。

30日 マタイの福音書3章
 このバプテスマのヨハネは、イザヤ書によれば「荒野で叫ぶ者の声」であった(3)。そして、彼の使命は、「主の道をまっすぐに」することであった。彼は自身が華やかである必要もなく、預言者としてただ主キリストを指し示すことに献身していた。その服装は4節にあるように、らくだの毛の衣、革の帯、食べ物はいなごや野蜜という質素ぶりであった。彼はまるで「黒子(くろこ)」のように自らを隠し、救い主が注目されるように、その備えをしてまわっていたのだ。私たちもつい自分の話をしたくなる。自分を認めて欲しいし、評価して欲しいために。だが、それがキリストを隠してしまうことがあることも覚えたい。むしろ、私たちはキリストによって輝く者でありたいと願うのだ。彼のその働きは祝福され、5-6節にあるように多くの人々が悔い改め、ヨルダン川で洗礼(バプテスマ)を受けたのであった。

31日 マタイの福音書3章
 7節で、パリサイ派の人々やサドカイ派の人々もヨハネのもとにバプテスマを受けにやってきた。彼らは自分たちの行いを正当化し、自らの非をほとんど認めず思い上がっていた。それゆえ、ヨハネは彼らには厳しい。「まむしの子孫たち」と呼んでいるが、それは、神の民とは正反対の「悪魔の子孫」という痛烈な呼び方に近い。だが、彼らもまた神から招かれていることは確かだ。「それなら、悔い改めにふさわしい実を結びなさい」とヨハネは言う(8)。彼らの正当化の根拠は9節にあるように、アブラハムの子孫(血筋)であることだった。だがヨハネはその考えも一蹴している。神は石ころからでもアブラハムの子孫を起こせるのだと語る。つまり、誰の子孫であるか、どんな血筋であるかではなく、神の前に自らの罪を認め、悔い改めをもって神の救い主キリストを受け入れることが大切なのである。



引用元聖書
<聖書 新改訳2017
聖書 新改訳2017©2017 新日本って聖書刊行会 

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