*** 11/17(日)礼拝説教 概略 ***
私の病の話で恐縮ですが、神経障害のゆえに足の周辺の筋肉が萎縮しています。土踏まずの部分が、おそらく皆さんより大きく高くなっています。医者から「ハイアーチ」と言われました。呼び名はかっこいいですね。でも、少し不便です。地面に着く面積が減っているので、物理的に少し不安定になり、関節等に衝撃が伝わりやすくなっています。それで裸足で歩くことを極力やめ、家でも底に厚みがある「ルームシューズ」のようなものを着用するようにしました。すると、やはりクッション性があり、床に着く面積が広いので安定し、だいぶ楽になります。足元が安定していることの重要性を、病を通して改めて教えられています。
私たちの信仰生活も同様ではないでしょうか。地盤がしっかりしていること、足元が安定していることが、日々の歩みでぶれずに進むために必要ですよね。硬い岩の上に家を建てよと聖書は教えています。実際、不安定な日々というのは疲れませんか?キャンプなどのゲームの「〇×クイズ」で、〇の人はこっち、×の人はこっちと移動式のものがあります。時間ギリギリまで迷う子は、あっち行ったかと思えば、「うーん、やっぱりこっち」と移動し、さらにまた迷って移動します。右に左にぶれる人生は、そんな感じではないでしょうか。移動距離が多いし、悩んでばかりで疲れるはずです。ぶれるのは、土台がしっかりしていないからです。私たちには、神のことばがあります。確かな救いがここにありますので、この上に堅く立っていきましょう。
1.押し流されないために
1節 こういうわけで、私たちは聞いたことを、ますますしっかりと心に留め、押し流されないようにしなければなりません。
「押し流される」ということばは「航海用語」でした。ここでは、「偽りの教え」や「世の惑わし」などを指して、それらに流されないようにということでしょう。「あなたはダメな人間・ダメな信仰者だ」という悪魔の声という、強い流れに負けそうになる事もあるかも知れません。悪魔は、そうした強い流れで、あなたを主のもとから引き離そうとするのです。だから、押し流されないようにしたいですよね。
では、どうしたら、押し流されないのでしょうか。ここに語られていますよね。「聞いたことを、しっかりと心に留めること」です。この「しっかりと心に留める」というのは、船の錨を降ろすという時に使われることばです。
「錨」とはどのような物でしょうか。辞書によると、「船を一定の場所に留めておくため、綱や鎖をつけて海底に沈めるおもり」であると説明されています。船を同じ場所に固定するのが錨の役割ですね。
ヘブル書の6章19節に、この「錨」について語られているとても大切な教えがあります。6章19節 私たちが持っているこの希望は、安全で確かな、たましいの錨のようなものであり、また幕の内側にまで入って行くものです。
「安全で確かなたましいの錨」とあります。みことばにある希望は、決して揺るがされることないものです。この確かなみことばの中に錨を降ろすことで、私たちをいのちの中に保つのです。そうすれば、私たちは救いの上に堅く立って、揺るがされず流されなくなります。みことばは「聞くだけでいい」とは少しも語られていません。聞き流すだけでいいのは、英語の教材だけです。みことばを聞き流すのは本当にもったいない。
しっかり、みことばに錨を降ろし、じっくりみことばに心を注ぎ、注意を向けなさいということです。私たちは、そうしているでしょうか。
感情は弱くもろいです。私たちの状態、コンディションも日々変わります。変わりやすい者なのです。かつて、私自身はぶれやすい人間でした。人の声に影響され、自分の気持ちに振り回され、浮き沈みがとてもありました。ジェットコースターのように思える時がありました。強くなりたい、揺るぎない物を築きたいと願いました。主は弱い私に「確かさ」をくださったのです。確かさは救いの中にありました。永遠に変わらない主のみことばです。決して失われることのない主イエスの愛です。ここに固く立てるのはなんと幸いでしょうか。揺るぎない物を持っている人は、安心し落ち着いて歩めますよね!人生の荒波で漂流しないよう、錨を降ろしましょう。しかし、錨をせっかく降ろしても、降ろした先がドロドロでゆるい場所なら意味がありませんよね。
2.みことばの確かさ、救いの確かさ
錨を降ろした救いのみことばが確かなものである必要があります。実は2章1節の最初に「こういうわけで」と始まっていましたよね。それは「どういうわけ」だったのか、確認したいのです。1章を根拠にしてのことばでした。イエス様は永遠に変わらない天使より優れた方だと語られていました。イエス様による万全な救いが与えられているということでした。
つまり、揺るぎないものは御子によって、既に与えられている!だから、「押し流されないように」しましょうとの話だったのです。さらに、2節以降でみことばの確かさが語られています。神の約束のことば、救いのことばは、私たちを堅く守って、天の御国まで必ず導いてくれるのです。
2節 御使いたちを通して語られたみことばに効力があり、すべての違反と不従順が当然の処罰を受けたのなら、 3節 こんなにすばらしい救いをないがしろにした場合、私たちはどうして処罰を逃れることができるでしょう。この救いは、初めに主によって語られ、それを聞いた人たちが確かなものとして私たちに示したものです。
御使いを通して語られたみことばとは、どういうことでしょうか。おもに旧約の律法のことです。ガラテヤ書3:19によれば、「それでは、律法とは何でしょうか。それは、約束を受けたこの子孫が来られるときまで、違反を示すためにつけ加えられたもので、御使いたちを通して仲介者の手で定められたものです。」とあります。御使いを通して仲介者の手で定められたのが律法だと聖書は言います。ただし、それは、あくまでも律法の完成者である「救い主」が来られるときまでの限定的な役割でした。
このヘブル2章2節によれば、御使いたちを通して与えられた律法でさえ、人を罪に定める力を持ちました。それで旧約時代の人がさばきを受けた。そうであるならば、御子イエスによって与えられた「救いの啓示」に違反するならば、もはや罪から逃れる道はないと言います。律法に反してもイエス様を信じれば赦されました。しかし、十字架の赦しを拒んだら、もうその上はないのです。
イエスによる救いは最上級なのです。この完全で最高な救いを拒絶しては、これ以上の道はありませんよね。ですから、御子をぜひ受け入れて欲しいのです。これ以上ないほど確かなこの救いのみことばなのですから!ここにしっかりと堅く立ちたいのです。
3.確かなものとして伝える
そして、確かなみことばなのですから、私たち自身もこの上に堅く立って、確信を持って伝えるものでありたいのです。3節後半でこうありますね。
この救いは、初めに主によって語られ、それを聞いた人たちが確かなものとして私たちに示したものです。
初めに、天使にまさる神の御子イエス様によって啓示された救いでした。その生涯を通して、十字架の死と復活を通して、この救いを確かなものとして与えてくださいました。弟子たちはそれを目撃し、そのことばを聞き心に留めました。そして、聞いた使徒たちも、著者を含めた「私たちに」、確かなものとして示してくれた救いだというのです。
「確かなものとして示した」これは、とても重要なことではないでしょうか。もし、私がこの場で、救いについて不安に思いながら話していたらどうでしょうか。「本当は違うかもなぁ」、「自信ないんだよなぁ」と。それは、ことばにも態度にも出てしまいますよね。皆さんも不安になるでしょう。確信があるのか、微妙に不安があるのかって、分かっちゃうのですよね。
聖書の救いの知らせは、今日のみことばにあるように、主イエス様から教えられた弟子たちが、揺るぎない確信に満ちて「確かなものとして私たちに示したもの」です。この手紙の著者が伝え聞いた際に、非常に強い確信に満ちた、確かなものとして教えられたと告白しているのです!伝える者たちが揺るぎない確信を持っていた証拠ですよね。改めて、私たちは本当に素晴らしい確かな救いをいただいているのだなと感じます。
同時に、確信を持って伝えることの大切さに気づかされるのです。
伝道する側が、不安げに自信なく伝えているのであれば、そのようにしか伝わらないのですよね。でも、確信というものは、気の持ちようで何とかなるものではないのです。もし、イエス様が復活していなかったならどうでしょう。弟子は確信をもって伝えられたでしょうか。出来ないでしょう。死んでしまった「ただの人だ」と知っていながら、目をキラキラさせて「よみがえったのです!」って言えるでしょうか。命の危険があるような迫害下で、確信なくウソをついて宣教することは、到底できませんよね。不可能です。
ですから、イエス様の復活の事実があって、復活のイエス様と出会い本当に感激して、心動かされ、さらに御霊の注ぎを体験する中でこそ、確信に満ちて宣教できたのです。だから、あっという間に世界に広がったのです。4節にこうありますよね。
4節 そのうえ神も、しるしと不思議と様々な力あるわざにより、また、みこころにしたがって聖霊が分け与えてくださる賜物によって、救いを証ししてくださいました。
誰よりも神様が証しをしてくださった。確信をもって伝えられるように、揺るぎなき確かな救いとして伝えられるように。ここにあるように、神様は様々な目に見える出来事、力ある奇跡を通して、ますます確かなものとして救いを証ししてくださったのです。聖霊が働いてくださり、その賜物を存分に用いて、救いのすばらしさを証ししてくださったのです。ただでさえ、神ご自身である御子によって成し遂げられた十字架の死と復活という救いです。元々確かなものは、何の手を加えなくても確かなはずです。しかし、主はさらにその上に、私たちのために、様々なみわざを示し、御霊による確信をも与えてくださったのです。
まだ信じられない人々がいるのは、この救いの知らせが不完全だからではないのです。聖書が信頼できないからではない。単に、人々がこれを十分に知らないからです。イエス様というお方を良く知らないからです。私たちは自信をもって知らせて行けばいいのです。クリスマスも近づいて来ました。世界中でイエス様の降誕が祝われる時です。一年で最もイエス様に世界が目を向ける時です。ぜひ、この時に一人でも多くの方に、この確かな救いを知っていただきましょう。12月は毎週、初めての方、信じておられない方向けのメッセージをしたいと思っています。ぜひ、毎週お誘いくださったらと思います。大歓迎し、確信をもってお伝えいたします。
引用元聖書
<聖書 新改訳2017>
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