東村山福音自由教会 ✞ Sunrise Chapel: ヘブル2章14-18節「あわれみ深い大祭司」

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2025/02/24

ヘブル2章14-18節「あわれみ深い大祭司」

*** 2/23(日)主日礼拝 説教概略 ***

 子育てや次世代育成において、私がお伝えすることの一つに「理解なくして指導なし」ということばがあります。これはOCCでの講演した際、キリスト新聞にも掲載していただきました。「理解なくして指導なし」とは、その人を正しく理解できていないと適切な助言もできないし、心も開かれないので、まずはその人を知り、理解することを大事にしましょうということです。私もつい正論を伝えたくなりますが、まずは話を伺い理解しなければと言い聞かせています。


 しかし、イエス様こそ弱さをよく理解してくださる方です。18節に「イエスは、自ら試みを受けて苦しまれたからこそ、試みられている者たちを助けることができる」とある通りです。人の弱さを理解してくださるので、助けることができるのです。この点も含めて、今日のみことばは、神の御子イエス様が、私たち人間のために何をしてくださったのかが語られています。3つの点から教えられていきます。

第一に、人間となってくださった。
第二に、悪魔の支配から解放してくださった。
第三に、私たちの大祭司となってくださった。

 いずれも人を救い助けるためです。イエス様のこの愛のみわざを教えられ、この方といつも一緒に歩める幸いを知りましょう。

 

1.人間となってくださった 

 この直前の13節までのところでは、神の御子イエス様は、私たちを「兄弟」と呼ぶことを恥とせず、むしろ誇りに思ってくださることが語られていました。そういうわけで、主イエスは喜んで人となってくださったのです。

14節前半 そういうわけで、子たちがみな血と肉を持っているので、イエスもまた同じように、それらのものをお持ちになりました。

 神の息子、神の娘である私たちが、例外なく血と肉を持っているので、イエス様も血と肉をお持ちになったとあります。 血肉を持つとは、やがて朽ちる肉体を持つことです。お腹も空くし、食べなければ死んでしまうのです。老朽化する体です。イエス様は33歳で人間としての生涯を終えましたが、そのまま生きていれば、間違いなく「お爺さん」にもなったということです。まさに限りある弱さを持つ人となられたのです。「人間っぽい存在」でも「超人」でもなく、私たちと同じ人間となられたのです。

 17節にもこうあります。「イエスはすべての点で兄弟たちと同じようにならなければなりませんでした。」一部だけではない。すべての点でと強調されています。神様が私たちと同じ人間になられたという圧倒的な謙遜、へりくだりです。それは、私たちがミジンコやミドリムシになるよりも遥かにへりくだることでしょう。

 昔、婚約時代、結婚式の日取り一つ譲れなかった自分を思い出します。神であることを譲られたイエス様と比べたら、恥ずかし過ぎるほど小さなことです。イエス様のへりくだりを知り、恥ずかしく思ってようやく譲れた自分を思い出します。しかし、進んで権利を放棄し、進んで弱さを引き受ける時、イエス様に一歩従えたと思えるのです(成長)。神様はそのような者をこそ高く引き上げ、祝されますよね。

 

2.悪魔の支配から解放してくださった

 栄光の輝き、永遠のお方が滅びる弱さを身にまとう謙遜。その謙遜はなんと、十字架の死にまで歩まれるものでした。イエス様がしてくださった第二のことは、「悪魔の支配から解放してくださった」ということです。血肉を持たれたのは、十字架で死ぬためでもありました。それによって、悪魔の支配のもと、死の恐怖の奴隷となっている者たちを解放するためでした。14節後半から、15節にかけてこうありますね。 

14節後半 それは、死の力を持つ者、すなわち、悪魔をご自分の死によって滅ぼし、
15 死の恐怖によって一生涯奴隷としてつながれていた人々を解放するためでした。 

 死の力を持つ悪魔という存在。彼は人を欺き、罪とその結果である滅びへと誘います。人間はこの長い歴史の中で、常に死の呪縛、死の恐怖と戦って来ました。死は絶望をもたらします。愛する人の死はとつてもない悲しみ喪失感をもたらします。生きる気力を失わせます。もし、復活がなかったのなら、もし天国での再会がなかったのならと考えると、身震いしてしまいます。復活がないなら、死んだら終わりです。もうどうやっても死んだ人と会えない。

 でも、イエス様を信じるだけで、死の間際であろうとイエス様にしがみつくならば、復活のいのちをいただきます。その瞬間、死は終わりではなくなるのです。主イエスが死を滅ぼしたからです。ゆえに、死の呪縛や恐怖から解放されるのです。もはや、死は最も恐れるべき相手ではなくなりました。それをもたらしたのが、イエス・キリストの十字架の死と復活です。

神は永遠ですから、死にません。しかし、死ぬ存在となるために、一時的であれ、神が人間となってくださったのは本当に驚くべきことです。人のためには、神様は喜んで自ら「死する存在」となられたのだと考えると、その愛の深さに圧倒されます。16節にこうありますね。 16 当然ながら、イエスは御使いたちを助け出すのではなく、アブラハムの子孫を助け出してくださるのです。 イエス様は天使を助け出すためではなく、人間を助け出すことが目的でした。ゆえに「天使」になられたのではなく、「人」となられたのです。人となられた事実によっても、天使ではなく人を救われるお方なのだと分かりますよね。

 

3.私たちの大祭司となってくださった

 イエス様が人となられたことによって、もう一つのことが可能となりました。それは「あわれみ深い大祭司」となって、私たちを助け支えてくださるということです。17節にこうあります。

17 したがって、神に関わる事柄について、あわれみ深い、忠実な大祭司となるために、イエスはすべての点で兄弟たちと同じようにならなければなりませんでした。 

 ここではまず、「大祭司」の役割に触れておく必要があるでしょう。

第一の役割は、動物の犠牲をささげ、罪のきよめの儀式をすることでした。大祭司はここにあるように、神に関わる事柄について忠実であることが求められました。罪のきよめの式には忠実さが求められたのです。イエス様は父なる神に対して忠実な大祭司でした。ご自分を罪のきよめのささげものとして犠牲にされ、罪の赦しをもたらしたのです。それで17節の最後に「それで民の罪の宥めがなされたのです」と語られています。自らを十字架にささげ、その死によってすべての人の罪をきよめました。父なる神に向かってそれを示し、罪に対する神の怒りが宥められたのです。こうして神と人の和解が成立しました。イエス様の大祭司としての務めは完璧で、完全な赦しがもたされたのです。 

第二の役割は、人間の代表として神様に「とりなす」ことでした。それは仲介してくださるということです。神と人の間に入って仲裁し、和解に導いてくださるのです。イエス様が大祭司として仲介してくださることで、私たちは父なる神様の恵みの座に、恐れず大胆に近づける者となりました。罪があるままでは、さばきが怖くて近づけないのです!

 しかし、その御腕に安心して飛び込める者となったのです。同時に、私たちが罪や誘惑から守られるよう、とりなしの祈りを絶えずしてくださいます。大祭司は人の中から選ばれる「人の代表」です。ゆえに、人の弱さや痛みを理解でき、彼らのために心を込めて祈ることができるのです。この17節で、「すべての点で兄弟たちと同じようにならなければなりませんでした」とあり、神様がそのようにお考え下さったことは、本当にあわれみですよね。私たちを助けるため、あわれみ深い大祭司となるため、すべての点で同じにならなければと主はお考え下さった!そのために私たちの罪のただ中に来られ、その現実の中で一緒に涙し、苦しみながら歩まれた。私たちには、そのような愛とあわれみはあるでしょうか?ある人の苦しみを理解するため、同じところに行って同じように苦しむ・・・容易ではない。

 18節にもこのように語られていますよね。

18 イエスは、自ら試みを受けて苦しまれたからこそ、試みられている者たちを助けることができるのです。 

 なんと嬉しい、ありがたいことでしょうか。私たちにとって、どんな理想的なアドバイスよりも、自分の苦しみや痛みを深く理解し、寄り添ってくださることがとても大きな励ましです。「それはこうすればいいのだ」との正論よりも、「本当によく頑張ったね。しんどかったでしょう」と理解され、ねぎらわれる方が力をいただけるのではないでしょうか? もし、イエス様が完全無欠すぎて、空腹の辛さも病気のしんどさも、人から非難される痛みも全く体験すらしない方であったらどうでしょう?「イエス様にはわかりませんよ。どうせあなたは完璧な神様なのだから」と思うかも知れません。従う気も起きないかも知れません。

実際は、全知全能の神様なのですから、本当は全部わかるはずです。悲しみや苦しみも。しかし、私たちのために「人になること」を喜んで引き受けられたのです。私たちのために弱さを体験した上で、弱さに同情できると言われるのです。それゆえに、「足跡Foot Prints」という詩も生まれたと言えるのではないでしょうか。

砂浜を歩く二人分の足跡は、私とイエス様。でも、所々足跡が一つしかない。「なぜ、あのとても苦しい時、私と一緒にいてくれなかったのですか」との問いに、イエス様が答えられた。「わたしがあなたを背負って歩いていたのだ」と。あなたが歩けなくなっても、あなたが衰えて動けなくなっても、「わたしはあなたを背負う」と言われる主です。ずっとずっとあわれみ深い大祭司イエス様があなたを支えるのです。

 

 ご一緒に語られて参りました。あなたを愛するゆえに、主は血と肉を持つことを喜んで引き受けられました。弱さと死を持つ存在となり、私たちと同じように苦しまれたのです。そうしなければ、私たちを助けられない、救えないと考えてくださったのです!そして、その十字架の死をもって、私たちを罪と死から救い出し、悪魔の支配から解放してくださいました。

もうあなたは悪魔のもとにも、死の束縛のもとにもいない。死を恐れなくていい。神のもの、いのちの書に名前を記されているのですから。

そして、主は「あわれみ深い大祭司」となられました。私たちの痛みや苦しみを同じように通られ、深く理解し支えてくださいます。自分のことのようにあわれみをもって祈っていてくださるのです。この方が私たちとずっとともにおられる。支えて下さる。

ですから、恐れず歩みましょう。痛みのわかるこのお方が、あなたとともに歩んでくださるのです。この恵みによって強められましょう。神の恵みの御座に大胆に近づき、恵みによって強められて歩んでいきましょう。


引用元聖書
<聖書 新改訳2017
聖書 新改訳2017©2017 新日本聖書刊行会

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