東村山福音自由教会 ✞ Sunrise Chapel: Ⅰペテロ1章3-9節「イキイキするクリスチャン」

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2025/03/31

Ⅰペテロ1章3-9節「イキイキするクリスチャン」

*** 3/30(日)主日礼拝 説教概略 ***

 2024年度、最後の礼拝です。次週から新年度です。それに先駆けて年間指標聖句の含まれた箇所から語らせていただこうと思っています(8-9節が年間聖句)。特に、総会にて牧会計画として「サンライズ・イキイキ・プロジェクト」というものをお伝えしました。もう覚えましたね。「息切れプロジェクト」ではなく「イキイキ」です!様々な試練や困難で息切れする信仰生活ではなく、そうした中でも希望を見失わず、主にある喜びを失わずに、イキイキと輝いて歩んでいきたいと願ってのことです。



 それは、決して「空元気」で頑張ろうということではありません。苦しい時はしんどいと言っていい。悲しい時は泣いていいのです。ただ、色々あっても私たちの行きつく先は天の御国です。それが奪われることはないのですたましいの救いから来る喜びは、どんな悪の力によっても奪われることはないのです。どこかの国の大統領の発言で株価が下がっても関係ありません。物価高、増税はしんどいですが、それら私たちから主への賛美を奪うこともできないし、喜びも奪えないのです。すべてのことに感謝して歩みます。

 明日が見えない、希望が見えない時代だからこそ、クリスチャンが消えない喜びを抱いて歩む姿が、どれほど人々の励ましになるでしょうか。私たちがイキイキしているなら、私たちと出会う方々、私たちを見る方々もやがてそこにイエス様を発見します。消えない喜びの源は何なのか。教えられましょう!


1.失われない資産が与えられている 

 消えない喜びの源の第一は「失わない資産が与えられている」ということです。3節にこうあります。

3  私たちの主イエス・キリストの父である神がほめたたえられますように。神は、ご自分の大きなあわれみのゆえに、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、私たちを新しく生まれさせ、生ける望みを持たせてくださいました。 

 ここにあるように、イエス様を信じた私たちは「新しく生まれた者」です!ゆえに、もう古い価値観とは「おさらば」したのです。そこには「生ける望み」があります。それはまさに、生き生きとしたいのちの輝きをもたらす希望です。神様が私たちを深い愛であわれみ、御子キリストの死からの復活を通して与えてくださった永遠のいのちの希望です!!

 そして、新生した者には、地上の預金口座や株券とは異なる新しい天の資産が加わりました!これこそが本当の新生銀行でしょう(笑) 

4  また、朽ちることも、汚れることも、消えて行くこともない資産を受け継ぐようにしてくださいました。これらは、あなたがたのために天に蓄えられています。 

「朽ちることも、汚れることも、消えていくこともない資産」を受け継いだのです。イエス様を信じた時に、天国の口座(新生銀行の口座)が開設されたのです。これは増えることはあっても、減ったり失われたりすることはない資産です。

 それに比べ、この世の財はあまりに不確かです。突然失われます。買ったばかりの新車も追突されれば一瞬で事故車です(我が家の話)。物価が上がればお金の価値はみるみる下がります。以前は1万円で10個買えたのに、今では1万円で5個しか買えない。実質お金の価値が半減。この世の富はどんなに信じてもその程度です。

 また、最近は埼玉県八潮で水道管の老朽化から、道路が陥没しましたね。お隣の所沢市でも水道管が壊れ、水が噴き出しました。この世にあるものは、どんなに丈夫な良い物でも必ず老朽化します。そう思うと、朽ちない資産、消えない資産を与えられるだけでも、イエス様を信じる価値が大いにあるのではないでしょうか。天の預金は確実に積み上げられ、失われない。なんという希望でしょうか。誰からも何の干渉も受けないのです。このように、決して失われないものを持つ人はなんと強いことでしょうか!5節にあるように、キリストに信頼する者には、神様の確実な守りがあるのです。

 

2.試練さえ益となる 

 消えない喜びの源・二つ目は「試練さえ益となる」ということです。いくら天国貯金ができても、今、この地上の日々が苦しいのだから、「喜びも希望も持てませんよ!」と考える人は少なくないでしょう。しかし、みことばにはこうあります。6-7節。

6  そういうわけで、あなたがたは大いに喜んでいます。今しばらくの間、様々な試練の中で悲しまなければならないのですが、7  試練で試されたあなたがたの信仰は、火で精錬されてもなお朽ちていく金よりも高価であり、イエス・キリストが現れるとき、称賛と栄光と誉れをもたらします。 

 まず、どんな試練であっても「今しばらくの間」という期間限定であることが語られています。試練を「今しばらくの間」と確実に言い切れるのがクリスチャンなのです。素晴らしいことです。月並みなことばですが、「明けない夜はない」のです。信じる者には「義の太陽」なる主がおられるからです。夜は必ず終わり、義の太陽が現れるのです。

 そしてクリスチャンにとっては、試練さえ喜びに変えられていきます。試練そのものは6節にあるように「悲しまなければならない」ものです。ですから、「試練でも平気です!元気です!」なんて無理しなくて大丈夫です。「しんどいから祈って下さい。話聞いて下さい。」でいいじゃないですか。一緒に涙しましょう。励まし合いましょう。しかし、試練は苦しいだけで終わらない。苦しんだ分だけ、神様は報いて下さる真実なお方なのです。7節にあるように、試練で試され鍛えられた信仰はとっても価値が上がり、より豊かな益をもたらしてくれるのです。

 神様は試練を通して私たちを育て、より豊かな恵みを受けるに相応しい者へと造り変えてくださいます。結果、以前は試練だったことが、試練ではなくなってくると実感します。大きな成長ですよね。

 私事ですが、牧師になりたての頃は、キャンプ奉仕等の外部奉仕はあまり好きではありませんでした。とても緊張するし、とても疲労するし、とても忙しくなるからです。でも、主は育てて下さいました。単なる慣れではありません。神様がどんな時も奉仕を守って下さったという真実が力になりました。また。これらのご奉仕を通して自分が確実に成長させていただくと、教会の皆さんに還元できるのが嬉しいわけです。試練を通る度に喜びも大きくなっています。

 そして、最終的にはキリストの再臨によって、すべての試練への最高の報いが待っているのです。

 

3.たましいの救いを得ている 

 消えない喜びの源・三つ目は「たましいの救いを得ている」ということです。

8  あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、今見てはいないけれども信じており、ことばに尽くせない、栄えに満ちた喜びに躍っています。
9  あなたがたが、信仰の結果であるたましいの救いを得ているからです。 

 新年度の年間聖句の箇所です。「ことばに尽くせない、栄えに満ちた喜びに躍る」というところは、とてもおもしろい。まず、「ことばに尽くせない」とは、人間の表現の限界を超えたものという意味があります。神の前に、人には表現さえも限界がある。どう言っても安っぽくなり、物足りなさがある。説明不可能な喜びがある。それほどに、神が下さっている栄えと喜びは深いのです。

 「アローマ」という牧師二人のバンドがありました(今もある?)。その曲のある歌詞で「なんとなく嬉しくて、駆け出した日曜日 Wu wu wu~♪」というフレーズがあります。「なんとなく嬉しくて」という表現は、実際は嬉しさの表現としては表現できていないですよね。嬉しさを表現せよという国語の表現問題なら10点満点中2点ぐらいでしょう。

 「なんとなく嬉しい」って、自分でもよくわからないけどなぜか嬉しいというもの。自分でもわからない。でも、周囲の人が見たら、なんか明るくなったね?イキイキしているよね?と言われる。たましいから来る喜びは説明不可能なほどです。

 さらに「躍っている」の部分は、実は「大喜びする」ということば。なので、直訳すると、「喜びで大喜びしている」と訳せます。「喜びで大喜びする」だと不自然なので、「喜びに躍っている」と訳したのでしょう。それはそうと、この「躍っている」ということばは、状況を超えた深い喜びを示します状況に左右されない喜びが、ふか~いところにどっしりと根付いているのです。それは、その喜びが神様の約束と永遠のいのちに結びついているからです。

 例えば、同じことばが、マタイ512でも使われています。

「喜びなさい。大いに喜びなさい。天においてあなたがたの報いは大きいのですから。」 

 「大いに喜びなさい」のところが、今日の「躍っている」のところです。「天の報いの大きさ」と結びついて語られています。もはや、地上の喜びではなく、天から来る天来の喜びなので、深くて大きくて消えないのです!天の喜びは、地上のわざでは消せないのです。ですから、この第一ペテロ1:8の栄えに満ちた喜びに「躍っている」というのは、状況によって奪い去られない、天からいただいた霊的なたましいの喜びです。

 ある兄弟が出張で海外に行っています。でも、「心の底から行きたくない」と嘆いていました。それで、心の底よりも深い、たましいの底からから来る喜びがある!ことをお伝えし、このみことばをLINEで送りました。それは深いところにあるので、どんな人にも、どんな状況でも奪うことはできないのです。

 事実9節にこうあります。「あなたがたが、信仰の結果であるたましいの救いを得ているからです。」と。「たましいの救い」を得ているからこその大いなる喜びなのです。それは表面的、一時的な救いではありません。私たち人間という存在の最も深いところの救いを得ているので、深い喜びに歩み続けられるのです。これは人には奪えません。

マタイ10:28 からだを殺しても、たましいを殺せない者たちを恐れてはいけません。むしろ、たましいもからだもゲヘナで滅ぼすことができる方を恐れなさい。 

 どんなに強い権力者も、どんな難病であっても、神の御手に守られた私たちのたましいを殺すことはできません。私たちが輝きを放ち続けられるとしたら、それはちょっと良いことがあったのでウキウキしているというものではないはずです。それは、たましいの深いところから神のものとされている喜び

極端なことをあえて申し上げるなら、たとえこの教会が無くなろうと、聖書を奪われようと、誰にも何によっても奪い去られない「たましいの喜び」なのです。最強のものを得たのです。

 

 これは、この世の人々の喜びとは決定的に違いますよね。私たちにはこれがある。そしてこの深い喜びは、本当に窮地の時に力を発揮します。それが私たちの生きた希望となるからです。

 これをまだ知らない人が世界中に沢山います。私たちのすぐ隣にいらっしゃいます。環境に左右されて意気消沈する人がほとんどです。環境が変わることを願っていてもずっと辛い。環境や状況はいつでも変わってしまう。だから環境など関係なくいつも深くにある喜びに私たちが歩み、それを伝えていきましょう!「環境の奴隷」なんてさっさとやめて、「キリストのしもべ」として、たましいの喜び、生ける望みを抱いて、イキイキと証ししていきましょう!

引用元聖書
<聖書 新改訳2017
聖書 新改訳2017©2017 新日本聖書刊行会

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