東村山福音自由教会 ✞ Sunrise Chapel: エステル記2章1-14節「血筋ではなく、信仰の実によって」

ページ

2025/06/12

エステル記2章1-14節「血筋ではなく、信仰の実によって」

***  6/11(水)祈祷会 説教概略 ***

 ユダヤ主義者たちが、アブラハムの子孫であることを誇りながら、イエス様を攻撃していました。それでイエス様は彼らに教えられました。「アブラハムの子どもなら、アブラハムのわざを行うはずです」と(ヨハネ8:39)。私たちは神の子とされました。ならば、神のみこころを行うことこそ、神の子の本質ではないでしょうか。エステルは、養父と血はつながっていませんでしたが、彼の教えに忠実に歩んで神のみこころをなしました。


 
1節 これらの出来事の後、クセルクセス王の憤りが収まると、王はワシュティのこと、彼女のしたこと、彼女について決められたことを思い出した。 

 1章から2章の間に、いくらかの時の隔たりがあったようです。クセルクセスはこの間にギリシヤとの戦争で敗北し、それによってクールダウンした可能性も指摘されます。そのゆえでしょうか。憤りが収まり冷静になって、「王妃ワシュティのこと、彼女の行為、また、彼女について決められたこと」を思い出したのです。

 怒りに任せて決断したことへの後悔やワシュティへの未練が伺えるように思います。
 特に、ペルシアの法典では、王が一度出した命令を取り消すことは出来ないルールでした。王命の権威、永続性を保つためでした。神なき世界ゆえの課題ではないでしょうか。しばしば王や皇帝を神のように崇拝するケースがあります。しかし、人は神には決してなれないのです。間違いを犯す者です。ですから、神でないにも関わらず、撤回や修正ができないのは重荷でしかありません。しかし、私たちは神の前に過ちを認めて悔い改め、さらにそこで新しく変えられ成長できるのですから、なんと幸いでしょうか。キリストの十字架があるので、赦しもやり直しもあるのです。むしろ、失敗やしくじりを通して育てていただける幸いを覚えます。

 私たちは主を信頼しているからこそ、失敗できるし、そこから成長できるのです。失敗を恐れず、主に信頼して善を行おうではありませんか。


 さて、家臣たちはその様子を見て、王を励まし盛り立てようとしました2-4節です。
 国中の美しい女性を王宮に集め、王妃を見つけるよう王に促しました。王も気を取り直したようです。こうして舞台は整いました。いよいよ、モルデカイとエステルが登場します。

 5節です。「スサの城に一人のユダヤ人がいて、その名をモルデカイといった。」とあります。彼はサウル王と同じベニヤミン族であったことが紹介され、架空の人物ではなく、歴史的な人物であることが明らかにされます。続いてエステルが登場します。 

7節 モルデカイはおじの娘ハダサ、すなわちエステルを養育していた。彼女には父も母もいなかったからである。この娘は姿も美しく、顔だちも良かった。モルデカイは、彼女の父と母が死んだとき、彼女を引き取って自分の娘としていた。 

 この時モルデカイは、おじの娘エステルを養育し、育ての親・養父でありました。ここにあるように、エステルは美しい女性として育っていましたが、モルデカイの愛と教育の中で人格的にもすぐれた人物へと育てられていたようです。 同時に、ここには重要なことがさらっと記されています。エステルには「父も母もいなかった」と語られているのです。いわゆる「孤児」だったのです。それを親戚のモルデカイが引き取って育てました。
 しかもペルシアにおいては異国人で、父と母がいない子です。この立場は非常に弱い立場であると推測できますよね。社会的弱者と言われる人だったのです。支えがない、後ろ盾がない立場です。特に、この時代は、現代以上に孤児が生きて行くには苛酷な環境でした。その意味で、この記録はとても重要です。人間的には、このような立場の子は、大きな役割を担うことが難しいにも関わらず、彼女は王妃となり、この民全体を助けていくのですから

 ですから、このような異国の孤児である女性がこの国で王妃となっていくというのは、神のみわざとしか言いようがありません。 

 8-9節で、エステルも王宮に強制的に連れて行かれたことがわかります。その中でも宦官ヘガイの目にかない、好意を得たことが9節でわかります。さらに、12節によれば、6か月は没薬の香油、さらにその後の6か月で香料と化粧品で準備をしなければなりませんでした。

 このような状況を見守っていたのが育ての親モルデカイです。彼は10節にあるように、彼女を守るためにあることを命じていました。

10節 エステルは自分の民族も、自分の生まれも明かさなかった。モルデカイが、明かしてはいけないと彼女に命じておいたからである。 

 ペルシアは、バビロンよりは寛大で、特に有能なユダヤ人は様々な分野に引き上げられ活躍していました。しかし、一方でペルシア人からの妬みや偏見、また意地悪もあったでしょう。まして、ユダヤ人が王妃になるなど・・・多くの反対や攻撃が起こることは明らかでした。それで、エステルに自分の出身民族・生まれを明かさないようにと、モルデカイは教えていたのでしょう。

 さらに11節では、モルデカイが毎日後宮の庭の前を行き来し、安否を知ろうと努めているのが分かります。血のつながらない娘ですが、モルデカイはエステルを自分のこと以上に心配し、親としての愛情を注いできたのだと分かります。彼女も彼を尊敬し、そのことばに忠実であったことが語られ続けています。神に忠実だったモルデカイに育てられ、彼の教えに忠実で、神とともに歩んだのです。それが祝福への道となったことは疑いないでしょう。


 そして、聖書ではしばしば、血筋よりも、その信仰や行いに倣う姿勢こそが、子である証し、子孫である証しとされます。アブラハムの子孫とは、血筋ではなく、彼の信仰と彼の生き方に倣うことであるとイエス様も説き明かしていましたね。

 さて、この時エステルは、どのように自分の人生を受け止めていたのでしょう。明確には分かりません。ただ、状況的には自分の人生を呪い、不満に思っても不思議ではありません。王命ですから、拒絶の権利はありません。しかし、彼女が自分の出自や人生を呪っている様子はありません。モルデカイの教えにも忠実でした。弱さはあったでしょうけれど、彼女なりに置かれたところでどう生きるかを考えていたのでしょう

 私たちは今、かなりの自由があります。それでも、生まれや育つ環境を選べるわけではありません。自分の生い立ちや立場、身分を憎むこともあるでしょう。しばしばそれに囚われます。カエルの子はカエルだと言い聞かせるでしょうか。しかし、私たちは、今、それ以上に「神の子」ではないでしょうか。神が愛しておられる子です。御子がいのちを犠牲にして救ってくださった、恵みを受けた神の子なのです。聖霊の力も存分にいただける立場です。

 ですから、私たちがどんなに小さく足りない者であっても、全知全能の主とともに歩む時、私たちの思いをはるかに超えた大いなるみわざが、私たちの人生に起こるのです血筋よりも、生まれよりも、今、神の子とされていること、キリストの弟子とされていることが、私たちの「アイデンティティ」なのです。 ならば、エステルが育ての親モルデカイに忠実であったように、主のみことばに忠実に生きようではありませんか。キリストの弟子として、キリストを証ししようではありませんか。神の子なのですから!



引用元聖書
聖書 新改訳2017©2017 新日本聖書刊行会

教会へのメールはこちらから

名前

メール *

メッセージ *