*** 1/4(日)新年礼拝 説教概略 ***
昨年から「サンライズ・イキイキプロジェクト」を掲げています。私たち皆がイキイキすることをともに目指します。ただ、私たち自身は太陽ではありません。太陽の光に照らされて輝く月です。ですから、義の太陽なる主から隠れないことが大切です。
また、私たちの日常生活は、必ずしも良い環境、良い人々に囲まれる日々ではありません。時に、味方が一人もいないと思える厳しい状況に置かれることもあるでしょう。屈辱的なこともあるでしょう。しかし、あなたは決して一人ではありません。私たちの前を進まれる主がおられます。一人だと思える時にもそこに主がおられます。この2026年、いつでも主なる神様を仰ぎ見て、主の光によって輝きながら、イキイキと歩んで参りましょう。
1.窮地からの主の救い
ダビデは1-3節で、危機から救ってくださった方への賛美を歌っています。特に1節では「あらゆるときに」「いつも」とのことばがあります。順調な時だけでなく、困難な時にも主を信じて賛美するのです。これこそ、私たちが一年を通じて心に覚えていたいことです。事実、この賛美は悲惨な状況の中から生まれたものでした。
本日開いている詩篇にはこのような表題があります。
ダビデによる。ダビデがアビメレクの前で、頭がおかしくなったかのようにふるまい、彼に追われて去ったときに
第一サムエル21章を背景としていますが、これだけ読んでもダビデが窮地に陥っていたことが分かります。ダビデは当時、サウル王からひどく妬まれ命を狙われてしまいます。そこでダビデは、自分の国を出て、なんと敵地であるペリシテの国に逃亡したのです。自国より敵の国の方が安全とは、なんと悲しく不条理なことでしょうか。周囲は皆、敵なのです。
では、この時ダビデに付き従っていた家臣は何人いたのでしょうか。
①300人 ②30人 ③0人。
正解はなんと③の0人
一人ぼっちだったのです(21:1参照)。なんと心細かったことでしょうか。怖かったでしょう。そういう中で彼は、屈辱を味わうことになるのです。やむなく一人でペリシテの国に逃げたダビデでしたが、ペリシテの王アビメレクの前で窮地を迎えます。ダビデは、あのペリシテ人最強の巨人ゴリアテを倒したことで有名です。しかもダビデの腰にはゴリアテの剣がありました。家来たちは、あの有名なダビデではないか?とアビメレクに伝えています。その時、ダビデは、なんと・・・頭がおかしくなったようにふるまったのです。壁を爪でひっかき、ヒゲに涎を垂らしました。生き延びるためとはいえ、まだ若い美少年であったダビデにとって、これはとても屈辱的なことだったでしょう。人間的な苦肉の策だったのかも知れません。
しかし、この姿を見た王アビメレクは、「こんな狂った者を私の前に連れて来るな!」と家来を叱り、ダビデは解放されたのでした。生きた心地もしなかったことでしょう。しかし、絶望的な状況から神様は救ってくださったのだと、彼は振り返っているのです。方法も正しくはなかったかも知れません。それでさえも、主が守り救ってくださったことを知り、感謝と賛美をささげています。
4節 私が主を求めると 主は答え
すべての恐怖から 私を救い出してくださった。
敵地でひとりぼっちだと思えた時、心細く恐怖に支配されていたのです。しかし、本当はひとりではなかったのです。主がおられました。彼は敵地で孤独でしたが、すべての恐怖から主が救ってくださったと告白しています。こうした経験から、ダビデは多くの人に主を信頼することの素晴らしさを証し、皆に一緒に主を見上げ、賛美するよう促しているのです。
5節 主を仰ぎ見ると 彼らは輝いた。 彼らの顔は辱められることがない。
ここでは主語が「私」ではなく、「彼ら」に変わっています。誰でも主を仰ぎ見るなら、彼らは確かに輝くのです。なお、「輝く」は完了形で、確実性を表現している。何よりも「辱め」は、ダビデが経験したこと。多くの人の前で、先の戦いの英雄、やがて王になる人物が、狂った人のマネをするとは、なんという屈辱でしょうか。しかし、神様はその屈辱を誉れへと変えてくださる方なのです。この新しい年において、皆さんも様々な戦いを通るでしょう。健康が試みられる時があるでしょう。深く傷つくこともあるかも知れません。あるいは、恥をかき屈辱を覚えることもあり得ます。しかし、そこから救い出し、癒しと輝きを与えてくださるのは誰でしょうか。いかなる時も見捨てずともにおられる生けるまことの神、主です!
旧約時代、過酷な荒野を旅したイスラエルの民。彼らといつもともにあり、導いてくれたのは雲の柱、火の柱でした。それは主の臨在そのものでした。激しい流れとなっていたあのヨルダン川を渡る際に、その先頭を進んだのは誰でしょうか。「契約の箱」が象徴する主ご自身でした。主が先頭を歩んでくださったのです。周囲はみんな敵と思われる状況の中でも主の最強の守りがあります。
7節 主の使いは 主を恐れる者の周りに陣を張り 彼らを助け出される。
17節にもこうあります。
17節 苦しむ者が叫ぶと 主は聞かれ
そのすべての苦難から救い出してくださる。
この方がともにおられるのです。
2.味わい、見つめよ
問題は、私たちがこの方からすぐ目を離し、浮気してしまうことです。イエス様の一番弟子のペテロは、イエス様を見つめていた時は湖の上を歩けたのです。しかし風や波に目を奪われると恐怖に支配されました。その瞬間から沈んだのです。私たちも主から目を離す時、沈んでしまいます。ですから、主を仰ぎ見ること、見つめることをやめないのです!!
8節 味わい 見つめよ。主がいつくしみ深い方であることを。幸いなことよ 主に身を避ける人は。
「味わい、見つめよ」というのはとても印象的な表現ですよね。ここでは文字通り、食べ物を「味わう」という意味のことばが使われています。クリスマスやお正月に美味しい物を沢山味わった方もいらっしゃると思いますが、それ以上に神様のいつくしみ深さを味わおうではありませんか。人はパンだけで生きれば倒れてしまうのです!神様の豊かさ、素晴らしさ、その優しさをじっくりと味わうことで、私たちは強くされます。また、ただ見るのではなく「見つめよ」と語られてもいます。こうして主である方を深く、よく知っていく一年にしていきたいのです。なぜなら、知らないことが私たちの弱さだからです。
妻とカフェに行った時のことです。なんと20%引きになりました。なぜか?JAFという運転手のための会員カードを持っていたからです。知らないままなら、20%割引を受けられなかった。私たちがいただいた天国行きのチケットは、「天国に行ける」だけのものではない。そこには、物凄く沢山の恵みの特典がついているのです。その取扱い説明書が聖書でしょう。これを知らないのは凄くもったいない。ですから、神様はご自分や聖書を熱心に調べよと言われる方です。「地球の歩き方」という旅行ガイド本がありますが、本当の「地球の歩き方」は聖書ではないでしょうか?聖書を読めば、この地球での歩み方が分かるのです。求めよ、そうすれば「わたしを見出す」と主はおっしゃるのです。
10節をご覧ください。
10節 若い獅子も乏しくなり 飢える。しかし 主を求める者は良いものに何一つ欠けることがない。
主を求めるなら、良いもので満たされる。何一つ欠けることがない。何より、主を恐れることこそ、あらゆる知識の初めであると箴言にはあります。9節、11節ではまさに「主を恐れる」ことを教えています。
9節 主を恐れよ。主の聖徒たちよ。 主を恐れる者には 乏しいことがないからだ。
11節 来なさい。子たちよ 私に聞きなさい。 主を恐れることを教えよう。
主を恐れることこそ知恵の初めです。一年の初めに、この一年のことを不安に思うなら、神様に知恵を求めましょう。これが最初です。これが始まりです。その人は、12節にあるように、いのちを喜びとする人生を歩み、幸いを求めて日々を送る人です。
3.心砕かれながら、主を求め続けよう
この年あなたが主を求めて生きるなら、主はあなたを守り、苦難から救い出して下さいます。それを信じますか。少し先に行きますが、18-20節です。
18節 主は心の打ち砕かれた者の近くにおられ 霊の砕かれた者を救われる。
19節 正しい人には苦しみが多い。しかし 主はそのすべてから救い出してくださる。
20節 主は彼の骨をことごとく守り その一つさえ
折られることはない。
とても心強い主の励ましのことばが続きます。「正しい人」とは、どんな人ですか?自らの罪に率直に向き合い涙する者です。こんな私を主よ、どうかあわれんでくださいとへりくだる者。それが18節の「心の打ち砕かれた者」であり、19節の「正しい人」なのです。神の前に正直で、いつも悔い改めながら主を求める者です。その人を聖書は神の前に正しい者とするのです。なぜなら、悔い改めるとは、自分の罪を認めてキリストの十字架の下に来る者だからです。罪のない人ではなく、十字架のキリストを味わい見つめ続ける人が、主の十字架によって赦され「正しい人」とされるのですよね。神様は、そのような者を救われるのです。
20節では「骨をことごとく守り」とあります。心も肉体も、主が守ってくださるということです。あなたのからだも必要な時には動くように、大切なことができるように守ってくださるのです。そして、そのたましいを守られる主です。
22節 主は そのしもべのたましいを贖い出される。主に身を避ける人は だれも責めを負わない。
私たちは、この新しい一年の歩みについて、様々な戦いを通ることでしょう。肉体的な危機、精神的な危機、信仰面での戦い。しかし、主に身を避ける者は安全です。その危機から救われ責めを負いません。足りないことは決してありません。恵みはあなたに十分備えられています。「アドナイ・イルエ」、主の山には備えがあるからです。
ダビデのように非常に恐ろしい目に遭い、屈辱を受けることもあるかも知れません。しかし、それがあったところには、より大きな救いより大きな祝福を主がくださるのです。なぜなら、十字架のキリストが受けたあの屈辱、辱めのところに、私たち全員の最高の救いの栄誉が生まれたからです。あなたが受けた恥の何倍も、主は祝福を返してくださいます。
引用元聖書
聖書 新改訳2017©2017 新日本聖書刊行会
