東村山福音自由教会 ✞ Sunrise Chapel: 伝道者の書8章1-8節「輝く表情、和らいだ表情へ」

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2024/06/16

伝道者の書8章1-8節「輝く表情、和らいだ表情へ」

*** 6/16(日)主日礼拝 説教概略 ***

 私たちの顔の表情というものは、時に、ことば以上に雄弁です。その人の表情に、その時の様々な心情、体調、そして信仰の状態等も現われるからです。この真理は、きっと皆さんも同意されるのではないかと思います。浮かない表情をしている人がいれば、心配になりますよね。目がキラキラしていたら、充実しているんだなと思います。そして、できるなら、いつも輝きがある者でいたいですし、優しい穏やかな表情で過ごしたいのではないでしょうか


 でも、それは表情の作り方を学んでも難しいですよね。鏡とにらめっこして笑ってみても引きつってしまうのです。それは内側から来るものだからです。神様がそのように造られたのですよね。

 ですから、造り主の声に聞き、内側から変えられていきましょう。今日のみことばは教えています。神様を恐れ、神様にゆだねることができる人こそ、その表情が輝き、優しく和らいでいくのだということです。心から笑えるために、また輝けるために、主なる神様に教えていただきましょう。

1節をご覧ください。
1 知恵のある者とされるにふさわしいのはだれか。物事の解釈を知っているのはだれか。 人の知恵は、その人の顔を輝かせ、その顔の固さを和らげる。 

今日のタイトルはここから取りました。この箇所は7章と8章をつなぐ「蝶番」のような役割を担っています。7章後半では、著者であるソロモン王が、知恵ある者になりたいと必死に求めたことをお話しました。しかし、実は、自分の無知を知ることこそ、真の知恵なのだということでした。その知識の限界を神様の前に謙虚に認め、神に求める人こそが賢者だったのです。

さて、この1節では二つの質問があります。「知恵のある者とされるにふさわしいのはだれか」、そして「物事の解釈を知っているのは誰か」という質問です。物事の意味や解釈を知る知恵ある者とは、誰なのか。3択クイズです。神様と答えれば正解なのですが、人間で考えた場合はどうでしょうか。①聖書を丸暗記している人 ②人に教えるのが得意な人 ③自分の無知を認めて、神様に拠り頼んで生きる人。 

正解は③ですよね。

世界で起こっている様々な出来事の意味を完全に解き明かせるのは神様しかおられません。ですから、真に知恵ある人とは、③自分の無知を認めて、神様に撚り頼んで生きる人なのです。この神様を知る者こそ真の賢者です。それゆえに、「その人の顔を輝かせ、その顔の固さを和らげる」のです。しかしながら、しばしば、神様に拠り頼むことをせず、青筋を立てて必死にもがき、眉間にしわを寄せて歩んでいる私たちではないでしょうか。かた~い表情でストレスをため込んでいないでしょうか。

最近ある方に教えていただいたことがあります。共依存等で苦しむ方々のためのキリスト教系の自助グループについてです。いつもミーティングでこのような指導があるそうです。「自分で解決できる事と、できない事とを見分ける事ができるよう神様に祈りましょう。そして、どうしようもないことは神様にお願いしましょう。」という指導です。自分で解決できることと、出来ないことを見分けること。しかも、その知恵を神様に祈り求めることが勧められています。

皆さんは、「私のせいではないか」と背負い過ぎることはないでしょうか。

「私がしないとダメになってしまう」との思い込みはないでしょうか。

それは、私が出来ると勘違いしているということではないでしょうか。

その考えのどこに、神様がいらっしゃるでしょうか

神様を知るほどに気づかされるのは、自分にはできないことが沢山ある事が本当に大切だということです。

自分でしたと思う事でさえ、実は神様がすべてを守り導き、必要な物を備えていておられるのです。神様がなして下さっていたのではないでしょうか。

自分と神様との間に正しい境界線を引く事です。そして、線を引いてみると、自分の出来る範囲は思っていた以上に小さいと気づかされるのです。これを境界線(バウンダリー)とも言います。いかに神様の領域を、「我が物顔」で侵略していたかに気づかされるのです。へりくだらなければなりません。

 

 2-4節では、王の権威、権力について語ることで、地上の王よりも偉大な神様に従うことの大切さを説き明かしています。

2 私は言う。王の命令を守れ。神への誓約があるから。 

「王である私が言う」との表現で始まっています。著者であるソロモン自身が王であり、非常に権威がありました。そして「神への誓約があるから」と、最強の根拠を付け加えています。イスラエルの王は「神の選び」によって立てられていたのです。民は神が選んだ王に従い、全力で支えることを神の前に誓ったことでしょう。神様が王に権威を与えているということです。それゆえ、3-4節で王様に具体的に従うことを教えています。

3 王の前から慌てて出て行くな。悪事に荷担するな。王は自分の望むままを行うから。

4 王のことばには権威がある。だれが、王に「何をするのか」と言えるだろうか。

 「王の前から慌てて出て行く」とは、王に対する不満を表す態度です。王様を軽んじて、敵対するようなことをしてはならないと教えます。それ自体が悪事であると言えるでしょう。また、王には力があるので、逆らうべきではないとも言えます王ほど、自分の望んだままを実行できる権力、財力を持つ存在はそういないでしょう。ですから、王に逆らい、反逆することは自分の身を亡ぼすことになると言うわけです。王に従うことは必然だと言えます。そして、5節にはこうあります。

5 命令を守る者はわざわいを知らない。知恵ある者の心は時とさばきを知っている。 

 生殺与奪の権威を持つ王という立場に従うことは、王のさばきから守られる道でしょう。特に、神様はKing of Kings(王の中の王)です。このお方に敵対するなど、愚の骨頂です。この世の王に逆らうことでさえ恐ろしいことなのですから、王の中の王に逆らうことは滅びを招くことです。人は、あれこれ屁理屈を述べようとも、やはり世界を造られた神様を無視して幸せになることなどできないのです。

 世界の王は一体誰なのか、私たちは知る必要があります。

 5節の後半にあるように、知恵ある者の心は、この神の時と、さばきを知っているのです。賢者は、すべてのことには神の時があると知っています。すべての行いには神のさばきがあると知っています。ゆえに、神様を求めるのです。自らの罪を認め、キリストの十字架を求めます。神のさばきの権威を知るからこそ、十字架の赦しを求めるのです。

 創世記に登場するロトという人の奥さんは、自分の財産を失うことが最大のわざわいだと考えてしましました。それら惜しんだ結果、より大切ないのちを失いました。それは王なる神様の命令を無視した結果です。神の声に信頼して、財産を失うよりも、まことのいのちを失うことが真のわざわいだと気づいたならば、滅びなかったはずです。神のさばきを知る者は、それを回避できるのです。その意味で賢いのです。

 また、クリスチャンでも試練に遭います。困難も通ります。病もケガも災害に遭うこともあるでしょう。それでも「わざわい」だと安易に決めつけないことです。神に求め、真理を知る者とならせていただきましょう。なぜなら、こうあるからです。

哀歌3:33「主が人の子らを、意味もなく、苦しめ悩ませることはない。」と。

 神様は意味のないことを決してなさいません。真の平安をもたらしたいがために、一時私たちを苦しめ悩ませることはあります。しかし、あなたを愛しておられるので、平安と将来を与えるために、一時的に試練をお与えになるのです。6-8節のみことばを続けて味わいましょう。

6節 すべての営みには時とさばきがある。人に降りかかるわざわいは多い。
7節 何が起こるかを知っている者はいない。 いつ起こるかを、だれも告げることはできない。
8節 風を支配し、風をとどめておくことのできる人はいない。死の日を支配することはできず、 この戦いから免れる者はいない。 そして、悪は悪の所有者を救い得ない。 

 ここでも、時を支配しているのは私たちではなく、神様であることを暗に示しています。7節にあるように、神様以外には、誰も、何が起こるかを知っている者などいないのです。その時がいつであるかもわかりません。神様だけがご存知なのです。

しかし、神様はキリストによって召してくださった者のために、あらゆることを働かせ、恵みを下さる方です。神のなさることは時にかなって美しいのです。昔の私は、これを知りませんでした。神の時があることや、私の考えを超えて神が大いなる良きわざをしてくださると知らなかったのです。いつも自分を責めてばかりいました。失敗をずっと引きずり、思い出しては、自分の足をこぶしで叩いていました。けれども、すべてを支配される神様を知りました。

 それによって、一人で孤独に頑張る人生から、最高に信頼できるお方に「ゆだねる」ことを学んだのです。これは本当に大きなことでした。これは私にとって良い知らせ、まさに福音でした。

つい先日、ある方にお電話したつもりが、別の方にお電話してしまっていましたお名前が一文字違いだったのです。しかも、かかってしまった相手は入院中でした。本当に失敗の多い者で、以前の私ならその失敗を悔いて、しばらく引きずったかも知れません。でも、主がおられるのです。私の失敗をいとも簡単に、良いことに変えてくださいました。

入院中ですから本来ならお電話できない相手です。でも、ちょうど良いタイミングだったようで、折り返し電話がかかってきました。病院で許可が下りたからと。退院が決まったことも教えてくださり、期せずしてお声を聴くことができ、本当に感謝でした。神の時があり、私の失敗さえも、最高のタイミングで用いてくださるということを、改めて体験させてくださったのです

 

 主は、何が起こるか、いつ起こるか分からない私たちを、すぐ隣でいつも支えてくださいます。ある時は風を抑え、必要な時に風を吹かせてくださいます。この方がおられるから、私たちは安心なのです。すべての物事の解釈を知る方、この方にゆだることを学びましょう。

 その時、主が私たちの顔を輝かせ、緊張で固くなったこの顔を穏やか和らげてくださいます。

 自分しか頼るものがない人生は本当に生きることが苦しいです。孤独です。ですが、主は生きておられます。この方と歩みましょう!あなたと絶えずともにおられます。ですから、平安があるのです。 そのような人のところに、人々は集まって来るでしょう。あの人は何かが違う!それが証しになります。焦らず、慌てず、主の時があることを期待しましょう!どんな時でも主を求め、主を知ることを大切にしましょう。



引用元聖書
<聖書 新改訳2017
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