今日のタイトルはここから取りました。この箇所は7章と8章をつなぐ「蝶番」のような役割を担っています。7章後半では、著者であるソロモン王が、知恵ある者になりたいと必死に求めたことをお話しました。しかし、実は、自分の無知を知ることこそ、真の知恵なのだということでした。その知識の限界を神様の前に謙虚に認め、神に求める人こそが賢者だったのです。
世界で起こっている様々な出来事の意味を完全に解き明かせるのは神様しかおられません。ですから、真に知恵ある人とは、③自分の無知を認めて、神様に撚り頼んで生きる人なのです。この神様を知る者こそ真の賢者です。それゆえに、「その人の顔を輝かせ、その顔の固さを和らげる」のです。しかしながら、しばしば、神様に拠り頼むことをせず、青筋を立てて必死にもがき、眉間にしわを寄せて歩んでいる私たちではないでしょうか。かた~い表情でストレスをため込んでいないでしょうか。
最近ある方に教えていただいたことがあります。共依存等で苦しむ方々のためのキリスト教系の自助グループについてです。いつもミーティングでこのような指導があるそうです。「自分で解決できる事と、できない事とを見分ける事ができるよう神様に祈りましょう。そして、どうしようもないことは神様にお願いしましょう。」という指導です。自分で解決できることと、出来ないことを見分けること。しかも、その知恵を神様に祈り求めることが勧められています。
皆さんは、「私のせいではないか」と背負い過ぎることはないでしょうか。
「私がしないとダメになってしまう」との思い込みはないでしょうか。
それは、私が出来ると勘違いしているということではないでしょうか。
その考えのどこに、神様がいらっしゃるでしょうか。
神様を知るほどに気づかされるのは、自分にはできないことが沢山ある事が本当に大切だということです。
自分でしたと思う事でさえ、実は神様がすべてを守り導き、必要な物を備えていておられるのです。神様がなして下さっていたのではないでしょうか。
自分と神様との間に正しい境界線を引く事です。そして、線を引いてみると、自分の出来る範囲は思っていた以上に小さいと気づかされるのです。これを境界線(バウンダリー)とも言います。いかに神様の領域を、「我が物顔」で侵略していたかに気づかされるのです。へりくだらなければなりません。
「王である私が言う」との表現で始まっています。著者であるソロモン自身が王であり、非常に権威がありました。そして「神への誓約があるから」と、最強の根拠を付け加えています。イスラエルの王は「神の選び」によって立てられていたのです。民は神が選んだ王に従い、全力で支えることを神の前に誓ったことでしょう。神様が王に権威を与えているということです。それゆえ、3-4節で王様に具体的に従うことを教えています。
3節 王の前から慌てて出て行くな。悪事に荷担するな。王は自分の望むままを行うから。
4節 王のことばには権威がある。だれが、王に「何をするのか」と言えるだろうか。
「王の前から慌てて出て行く」とは、王に対する不満を表す態度です。王様を軽んじて、敵対するようなことをしてはならないと教えます。それ自体が悪事であると言えるでしょう。また、王には力があるので、逆らうべきではないとも言えます。王ほど、自分の望んだままを実行できる権力、財力を持つ存在はそういないでしょう。ですから、王に逆らい、反逆することは自分の身を亡ぼすことになると言うわけです。王に従うことは必然だと言えます。そして、5節にはこうあります。
5節 命令を守る者はわざわいを知らない。知恵ある者の心は時とさばきを知っている。
生殺与奪の権威を持つ王という立場に従うことは、王のさばきから守られる道でしょう。特に、神様はKing of Kings(王の中の王)です。このお方に敵対するなど、愚の骨頂です。この世の王に逆らうことでさえ恐ろしいことなのですから、王の中の王に逆らうことは滅びを招くことです。人は、あれこれ屁理屈を述べようとも、やはり世界を造られた神様を無視して幸せになることなどできないのです。
しかし、神様はキリストによって召してくださった者のために、あらゆることを働かせ、恵みを下さる方です。神のなさることは時にかなって美しいのです。昔の私は、これを知りませんでした。神の時があることや、私の考えを超えて神が大いなる良きわざをしてくださると知らなかったのです。いつも自分を責めてばかりいました。失敗をずっと引きずり、思い出しては、自分の足をこぶしで叩いていました。けれども、すべてを支配される神様を知りました。
それによって、一人で孤独に頑張る人生から、最高に信頼できるお方に「ゆだねる」ことを学んだのです。これは本当に大きなことでした。これは私にとって良い知らせ、まさに福音でした。
つい先日、ある方にお電話したつもりが、別の方にお電話してしまっていました。お名前が一文字違いだったのです。しかも、かかってしまった相手は入院中でした。本当に失敗の多い者で、以前の私ならその失敗を悔いて、しばらく引きずったかも知れません。でも、主がおられるのです。私の失敗をいとも簡単に、良いことに変えてくださいました。
入院中ですから本来ならお電話できない相手です。でも、ちょうど良いタイミングだったようで、折り返し電話がかかってきました。病院で許可が下りたからと。退院が決まったことも教えてくださり、期せずしてお声を聴くことができ、本当に感謝でした。神の時があり、私の失敗さえも、最高のタイミングで用いてくださるということを、改めて体験させてくださったのです。
主は、何が起こるか、いつ起こるか分からない私たちを、すぐ隣でいつも支えてくださいます。ある時は風を抑え、必要な時に風を吹かせてくださいます。この方がおられるから、私たちは安心なのです。すべての物事の解釈を知る方、この方にゆだることを学びましょう。
その時、主が私たちの顔を輝かせ、緊張で固くなったこの顔を穏やか和らげてくださいます。