なぜならば、それは持たざる者にはできないことだからです。御霊を持っていない未信者の方々には、どんなに努力しても御霊に生きることはできません。マザー・テレサは言います。私たちが何かを持っているということは、それを分かち合うために与えられているということなのだと。つまり、与えられている者には、それらを用いる特権とともに、それらを用いる義務や責任もあるのだということです。
同じローマ書の15章1節ではこうあります。「私たち力のある者たちは、力のない人たちの弱さを担うべきであり、自分を喜ばせるべきではありません。」と。力を受けている者には、力のない人たちの弱さを担い、カバーする義務と責任があるという考え方です。神様はできない人に無理やりにでも「せよ」とはおっしゃいません。体が不自由なのに、飛んで跳ねて奉仕せよとは言われないでしょう。でも、力があるなら、力がなくて困っている人を助ける責任も、神様はそこに与えているということです。
先に救われた者には、まだ救われていない人々のために仕える使命があります。御霊の力を持たない彼らのために、御霊の力を持つ私たちだからできることをさせていただくのです。クリスチャンは、神様を知らないノンクリスチャンのために、何をすべきなのでしょうか。祈ることができるでしょう。愛することができるでしょう。福音を伝えるべきでしょう。あるいは、聖書の教えや道徳を伝えることも私たちの使命でしょう。実際、ミッション系の学校はその使命を帯びて歩んできたのではないでしょうか。それらは神を信じている者、御霊を持つ者にしかできないことです。
15節にあるように、御霊によって、私たちは「アバ、父」と呼ばせていただけるようになったのです。「アバ」とは、幼子が心から信頼する父親に対して「お父ちゃん」と安心して呼ぶ時の言い方です。主の御顔を見れば、一瞬で滅んでしまうような汚れた私たちでした。しかし、顔と顔とを合わせるだけでなく「お父ちゃん」と親しく呼べる交わりをいただいたことは、なんと大きな恵みでしょうか。受けるに値しない者に、ここまでの親しい関係と交わりを主はくださったのです。16節にあるように、御霊がそれを証ししてくださるのです。
16 御霊ご自身が、私たちの霊とともに、私たちが神の子どもであることを証ししてくださいます。
さらに、神様を親しく「アバ、父」と呼べるだけに留まらず、神様というあらゆる物をお持ちのお方から、相続できる資格まで受けるのです。
17 子どもであるなら、相続人でもあります。私たちはキリストと、栄光をともに受けるために苦難をともにしているのですから、神の相続人であり、キリストとともに共同相続人なのです。
キリストを信じる教会に、イエス様が天の御国の鍵を与えていると言います。その意味は、この地上でキリスト者はなすことは、天に直結しているのだということです。この地上に歩みながらも、キリスト者は天的な働きができるという特権です。とんでもない力、とんでもない権威が私たちには与えられているのです。それだけの特権があるからこそ、また、それを正しく用いる責任も与えられているのです。「相続人」となる場合、相続する権利があると同時に、相続に関連する様々な義務や責任も発生しますよね。それだけのものを受け継ぐのですから。神の国の相続人であるならば、キリストと一緒に神の国を保持、管理していく者とされているのです。
ローマ書8章に戻ります。17節では、「栄光をともに受けるために苦難をともにしているのですから」と語られていました。終わりの時には、イエス様と一緒に栄光をともに受ける私たちです。しかし、栄光を受けるためには、苦難を通る必要があることを聖書は確かに語っています。イエス様は十字架の苦しみを耐え忍ばれたので、復活の栄光をお受けになったのです。約束のものを受けるのに必要なものは「忍耐」ですとも、ヘブル書で語られています。
私たちには、神様を「アバ、父」と呼べるほど親しい親子の交わりをくださった御霊が与えられています。それは本当に幸いな特権です。それと同時に、その力を受けている以上、そこに生きる義務と責任があるとも教えられました。それを持たない人々を導く使命があると言っても良いでしょう。そこには苦難もあります。その苦難を通ることもまた、私たちへの神様からの召しなのです。しかし、その苦難の先には、神の子どもたちのために用意された栄光が約束されているのです。