東村山福音自由教会 ✞ Sunrise Chapel: 第二ヨハネ7-13節「豊かな報いに向かって」

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2024/07/22

第二ヨハネ7-13節「豊かな報いに向かって」

*** 7/21(日)主日礼拝 説教概略 ***

 暑くなり始めた時に、家のエアコンのフィルターを掃除しました。思った以上に埃が付着しておりました。エアコンのフィルターの役目は、埃をブロックし、空気の通りを良くするということですよね。実は、私たち人間の頭や心にも、フィルターがあると思います。



 特に様々な情報に関してフィルターが働いています。健全なフィルターであれば、正しい良いものを通し、悪いものをブロックするでしょう。ところが、人は自分勝手で、罪の歪みがあります。
 ですので・・・自分が好む内容だけを通し、自分が好まないものは、たとえ正しい良いものでも、ブロックしてしまうということが起こります。心当たりはないでしょうか。

 「片付けなさい!」という声は、何度言ってもなぜか届かない。でも「おやつだよ!」は、一回で届いている。

 実に、聖書を学ぶ際にも、同じことが起こっています。「自分が信じたいように信じてしまっている」ということはないでしょうか。耳の痛い話はスルー。もしくは、自分好みの内容に変換して、受け取るということです。おそらく誰もが無意識のうちに、してしまっている難しい課題です。ですから、祈りが必要です。「私の願うようにではなく、神様の願うままに教えてください。」と。

 今日開いているヨハネの手紙は、まさに「信じたいように信じる人々の惑わし」を問題としています。当時の惑わす人々、反キリストと言われていた人々に注意するようにとの内容です。彼らは、自分が受け入れがたいものは拒み、自分たちが信じたいように信じ、それを広めていました。

 「グノーシス主義」という思想で、その教えの中心は「霊肉二元論」というものでした。もしかしたら、今、グノーシス主義、霊肉二元論という、少し耳慣れないことばを聞いた瞬間に、フィルターが作動して「ああ、もうわからない」と、ブロックした方もいらっしゃるかも知れません。でも、その自動ブロックを意識的に解除しませんか。本当に知るべきことを見失わないためです。

 私たちの救いのために、神様は人の考えをはるかに超えることをなさったのです。人間の小さな理性の中に閉じ込めないで、心を開いて教えていただきましょう。

 

7  こう命じるのは、人を惑わす者たち、イエス・キリストが人となって来られたことを告白しない者たちが、大勢世に出て来たからです。こういう者は惑わす者であり、反キリストです。  

 「人を惑わす者たち」とは、キリスト者の純粋な聖書信仰を惑わそうとする人々です。彼らの一番の問題点は、神であるキリストが、人間を救うために、私たちと同じ小さな人となってくださったことを受け入れなかったことです。

 これがまさに、先程話したグノーシス主義の霊肉二元論が原因でした。それは、善は霊にだけ宿り、悪は肉体にだけ宿るという思想です。それによれば、神は霊であるから善なのであって、肉体を持ったら悪を身にまとうことになる。ゆえに、善なる神様が肉体のある人間となるなんてあり得ない!と主張するのです。

 このように、聖書の教え、イエス様のことばよりも、自分たちが納得しやすい思想だけを受け入れていく姿勢こそ、惑わす者、反キリストの姿でした。 より問題なのは、自分が受け入れないだけでなく、真面目に信じている人たちを、その仲間に引き込もうとしたことでした。それで、ヨハネは、まず「気をつけるように」と助言しています。8節です。

8  気をつけて、私たちが労して得たものを失わないように、むしろ豊かな報いを受けられるようにしなさい。 

 偽りの教えに流されて、天からの豊かな報いを失わないようにと警告しています。もちろん、イエス様を一度でも、心から信じて受け入れた人は救いを失うことはありません。しかし、神様が与えようと用意されている恵み、プレゼントを失ってしまうのは本当に残念なことです。私たちは、何をするにしても、神様のみこころに沿ってなすことができ、そうして、天に宝を積むことができるのです!与えられたタラント(賜物)を、神様の御用のために生かして、それを増やしていくことができるのです!

 ですから、ここでは、「むしろ豊かな報いを受けられるようにしなさい」と語られているのです。

 「豊かな」ということばは、「完全に」という意味を持っています。つまり、物足りない報いではなく、完全な報いを受けるように、余すところなく報いを受けるようにとの意味です。

 私たち説教者も、神の恵みを余すところなく語れるように、伝えられるようにといつも祈っています(それでも足りないのですが)。私のフィルターで、主の恵みを止めてしまったり、変えたりしてはいけないと思うからです。

 かつて、ある年配の先生に「預言者になれ」と言われたのを覚えています。聖書の「預言」とは、漢字で見ると分かりやすいのですが、予定の「予」ではなく、「預金」の「預」と書きますよね。それは、神の言(ことば)を預かるということです。神様から、大切なおことばを預かっているのです。それゆえに、私の言いたいことを言うのではなく、神様から預けられたおことばをまっすぐ伝えることが使命なのです。説教者は、神の恵みのことばを余すところなく伝え、求めて聴く人に恵みを最大限提供できるよう尽くす使命があります。

しかしそれは、説教者だけではありません。すべてのクリスチャンがそうであって欲しいのです。フィルターをかけずに、まっすぐに神様のみことばを受け取りたいのです。自分の心でブロックしたり、勝手な変換をしたりしないことです。神様のなさること、おっしゃることを、素直に感謝して受けませんか。

イエス様は、ヨハネの1010節でこう言われました。「わたしが来たのは、羊たちがいのちを得るため、それも豊かに得るためです」 信じる者が、まことのいのちをなんとかギリギリ持つのではなく、「豊かに持って欲しい」というのがイエス様の願いです。そして、そのために「わたしは来た」とおっしゃるのです。恵みは十分すぎるほどあります。感謝して、素直に受け入れる時、求めていく時、神様はもっとあなたに教えてくれます。あなたはもっと心の目が開かれるし、もっと世界が楽しくなります。神の報いが豊かにあるからです!

 

 そのために必要なことは神様に求めることです。イエス様にとどまることです。

9  だれでも、「先を行って」キリストの教えにとどまらない者は、神を持っていません。その教えにとどまる者こそ、御父も御子も持っています。 

 「先を行って」キリストの教えにとどまらない者とは、どういう人々のことでしょうか。それは、聖書を忠実に学ぶのではなく、自分たちこそ、最新の教えを得た!とずれた教えに走る人々です確かに人には、他の人より進んでいたい、他の人より上でいたいという欲があります。流行の最先端を行っていると、なんとなくいい気分でしょう。そして、他人に「え?もしかして知らないの?」と上から目線で言います。自分もつい最近知ったばかりなのに・・・。他の信者より進んだ教えを学び、持っていることにどこか優越感を持っていたのかも知れません。

しかし、先を行きすぎて、キリストの教えから離れてしまっては本末転倒です。彼らは、忠実にみことばに生きるクリスチャンを「お前たちは遅れているのだ!」と上から目線で指摘したのでしょう。ただ、神様を追い越そうとすると、神様が見えなくなり迷子になってしまいます。

あくまでも、神様が先んじてくださるのであって、私たちはその後を見失わないようについていくのです。「導かれる」とは、そういうことですよね。私たちが行きたいところに神様を導くのではない。神様が導かれるところに、私が従って行くのです。 こうしたことは、いつの時代でも起こり得る問題です。新しい神学、新しい解釈を発見した!と思えた時こそ、十分に注意が必要です。私たちは「新しいもの、珍しいもの」が好きなので、良し悪しを吟味しないままに飛びついてしまうことがあるのです。大切なことは、新しい教えではなく、神様を見つめていることです。御父と御子の交わりを持っていることです。そこに恵みがあるのです。

 そして、次の10節では、ヨハネの手紙の中でも最も厳しい命令が出てきます。

10  あなたがたのところに来る人で、この教えを携えていない者は、家に受け入れてはいけません。あいさつのことばをかけてもいけません。 

 これは、聖書から離れた間違った教えに対する断固たる態度です。もちろんヨハネは、あなたの敵をも愛しなさいとの主のことばを知っています。ですから、信仰面で対立する者への愛や礼儀を否定しているのではないでしょう。

 しかし、つまずきが起こらないようにする必要はあります。実は当時の文化、考え方では、ある教師を家に招いて一緒にご飯を食べる場合、その教えを承認したと見なされるものでした。ですから、イエス様が取税人や罪人たちと一緒にご飯を食べただけで、批判されましたよね。一緒に食事をしたということが、「彼らを受け入れた」と見なされたのです。もちろん、事実イエス様は彼らを受け入れていたのですが。

 また、「あいさつのことばをかけてもいけません。」というのは、あいさつの意味とも関係しているでしょう。当時の彼らの挨拶は「シャローム」です。こんにちはとも訳せますが、その意味は、「平安があるように!」です。偽りの教えを広めるその働きの上に、平安があるように!と挨拶することは、彼らの働きの祝福を祈るかたちになります。やはり間違った教えに対しては、毅然とした態度で断る。そして、広めることに協力してしまったかのように思われることも避ける必要があるということです。それは11節にある通りです。

 

 そして、何よりもこうした偽りの教え、惑わしから守られ、豊かに報いを受ける道は、5節にあったように「互いに愛し合う」交わりを保つことでした。ですから、最後の12節でもヨハネは愛を込めてこう語ります。

12  あなたがたにはたくさん書くべきことがありますが、紙と墨ではしたくありません。私たちの喜びが満ちあふれるために、あなたがたのところに行って、直接話したいと思います。 

本当は手紙ではなく、実際に会って交わり、語り合い、ともに歩みたいのです。「直接話したい」の部分は、原語のギリシャ語を調べると(στόμα πρς στόμα)、英語で言う「face to face」というような表現が使われています。「顔と顔とを合わせて語り合いたいのだ」という意味です。

 顔と顔とを合わせてみことばを学び、語り合うことで、心も信仰も健全に保たれます。私たちもその交わりを求め続けていきましょう。



引用元聖書
<聖書 新改訳2017
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