東村山福音自由教会 ✞ Sunrise Chapel: ローマ8章35-39節「キリストの愛から引き離されない」

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2024/07/18

ローマ8章35-39節「キリストの愛から引き離されない」

 *** 7/18(水)祈祷会 説教概略 ***

「見捨てられ不安」を抱えて苦しむ人が少なくありません。たとえば、メールやLINEの返事がすぐに来ないとイライラして、不安になってしまいます。また、一人でいることに不安があり、自分に関心を向け続けてくれる誰かを探し続けています。当然、人間にはそれは不可能なので、相手を責めたり、束縛してしたりし、関係が長続きしません。


 これは一般に、幼い頃に親や親しい人との関係の中で、安心の土台が築かれなかったことが影響していると言われます。その意味では、特に幼い時は親が時間をささげて、子どもに愛を注ぐことは本当に大切なことです。ただ、どんなに良い親でも、不完全です。24時間は無理です。ですから、真の安心の土台となりえるのは神の完全な愛だけでしょう。「見捨てられ不安」を完全に解消できるのは、キリストの愛以外にはないのです。神のことばである聖書に目を注ぐ時、そこには神様の永遠に失われることのない愛が語られています。「誰も」、そして「何も」、私たちをキリストの愛から引き離すことはできません。


 35だれが、私たちをキリストの愛から引き離すのですか。苦難ですか、苦悩ですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。 

「引き離すのですか」の部分は未来形の疑問文です。私たちの未来において、様々な試練が私たちを引き離そうとしますが、それらの力は不確かなものであり、むしろキリストの愛の確かさが私たちを守ってくれるのです。ですから、意味としては「いったいだれが、私たちをキリストの愛から引き離すことができるでしょうか。(いや、誰にもできないのです)」というニュアンスとなるでしょう。

 「キリストの愛」については、「キリストからの愛」ではなく、「キリストの愛」だとの解釈もあります。私は、両面あるのではないかと思っています。もちろん、土台となるのはキリストからの私たちへの愛です。これこそは、何があっても失われることがなく、引き離されることがないものです。一方で、パウロ自身もキリストを愛していましたし、キリストを愛することやめようなどとは一切思わなかったでしょう。これは、マルタの姉妹であったマリアが、イエス様を愛し、そのお話を静かに聞き続けている姿勢について、イエス様がこうおっしゃったことも参考になります。

ルカ10:42 しかし、必要なことは一つだけです。マリアはその良いほうを選びました。それが彼女から取り上げられることはありません。」

 「取り上げられることはありません」とあります。主を愛することは、主のみこころなので、主がそれを続けさせてくださるのです。ですから、私たちのキリストへの愛も、神様が守ってくださるゆえに、愛し続けさせてくださるとも言えるのではないでしょうか。

35節後半では、神の愛から引き離す様々な攻撃、戦いについて語られています。苦難、苦悩、迫害、飢え、裸、危険、剣とあります。少しわかりにくいのは「裸」でしょうか。「裸」というのは、おそらく着る物にさえ困る「貧しさ」「窮乏」が意図されているのだと思います。極度の貧しさが襲ってきてさえ、真のクリスチャンは、キリストについて行くことをやめたりしないでしょう。むしろ、ますます主に祈り、そして与えられるのです。最後の「剣」は暴力の象徴です。確かに暴力は恐ろしいけれども、まことの神から離れることより恐ろしいことがあるでしょうか。


そして、これらは実際にパウロが体験してきた戦いでした。ですので、パウロはある意味ではこのことばの「生き証人」なのです。このようなありとあらゆる攻撃や苦しみがあったけれども、「キリストの愛」から引き離されることはなかったのです!そして、これからもそうなのだ!という確信があります。

 

 続く36節ですが、パウロはここでも、詩篇を引用しながら語っています。

36こう書かれています。「あなたのために、私たちは休みなく殺され、屠られる羊と見なされています。」これは、詩篇4422節の引用です。

 「あなたのために」とは、もちろん、「主なる神様のために」という意味です。つまり、イスラエルの民が主である神様を信じるゆえに、主に従うゆえに、苦しめられることがあったということです。最後の「見なされています」とは、そのような「扱いを受ける」といった意味もあります。まるで自分たちが「屠られる羊」のように扱われるのです。そう思えるぐらい苦しいことがあったという証しです。

ですから、パウロがここで引用して伝えようとしていることの第一は、キリストを信じるゆえの様々な苦しみ、迫害が確かにあるということです。これはピリピ129節でも、こうあります。「あなたがたがキリストのために受けた恵みは、キリストを信じることだけでなく、キリストのために苦しむことでもあるのです。」 キリストのための苦しみをも主から賜っているということです。しかし、パウロがここで伝えようとしている第二のことは、どんなに強い攻撃や迫害、苦しみがあってもなお、キリストの愛から私たちは決して引き離されないのだということです!パウロはそれを、確信を持って伝えているのです。

37節にこうあります。

37しかし、これらすべてにおいても、私たちを愛してくださった方によって、私たちは圧倒的な勝利者です。 

苦しめられ、時に命さえ奪われることもあり得ます。しかし、それらによっても、私たちの魂を殺すことはできません。もはや、私たちは大勝利者であるという高らかな宣言です。キリストにある者は、もはや「いのちの書」から名前を消されることはないのです!その根拠は、「私たちを愛してくださった方によって」とあるように、神の圧倒的な愛であるとわかります。

私たちの信仰の強さによる勝利なら不安定でしょう。奪われる可能性があるでしょう。けれども、私たちの信仰の強さではなく、神様の深いご愛にとらえていただいているので、大丈夫なのです。決して「見捨てない」と言われる主の約束のゆえです。この愛を持っていることは、なんと幸せなことでしょうか!

逆に、どんなに立派な家や車を持とうとも、どれだけの名声を得ようとも、この愛を知らないならば、いつでも見捨てられる不安との戦いがあるでしょう。 愛を失わないよう、自分に付加価値をつけようと絶えず頑張るしかなく、周囲の人の歓心を買おうと必死です。しかし、パスカルが言うように、人の心にある空洞を埋めることができるのは神の愛だけです。神の永遠の愛の代わりになるものなどないのです。この愛に堅く立とうではありませんか。

そして、さらに、38-39節へと続きます。

38 私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いたちも、支配者たちも、今あるものも、後に来るものも、力あるものも、

39 高いところにあるものも、深いところにあるものも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。 

 ここはとても興味深いのです。このリストは決して否定的なものだけではないのですよね。ここでは「いのち」や「御使いたち(天使たち)」といった良いものも含まれています。これらは神々しいものでさえあり、使徒でさえも天使を前にしてひれ伏して礼拝しようとしました。しかし、天使自身から注意されました。これらの神々しいものですら、生ける神様との愛の交わりに比べたら、ちりに等しいものなのです。神秘的な奇跡さえも、「キリストにある神の愛」と比べたらかすんでしまうのです。そしてもちろん、人間にとっての最大の敵である「死」でさえも、どんなこの世の支配者によっても、私たちを神様の愛から引き離すことはできないのです!それほどに神のご愛はすばらしく、力強く完全で、私たちをそこから引き離す存在は何もないのです。

 

 ご一緒に語られて参りました。この確信に一緒に立とうではありませんか。引き離すものは何もないのです。私たちはキリストにあって、圧倒的な勝利者です。この完全な愛を世界中の人が必要としています。この愛を伝えて参りましょう。


引用元聖書
<聖書 新改訳2017
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