*** 2/26(水)祈祷会 説教概略 ***
私たちは、自分と異なる人を恐れます。異質な人を警戒し、あるいは批判的になりやすいのではないでしょうか。強い人は弱い人をさばきやすく、弱い人もまた強い人をさばきやすい。しかし、私たちは神を恐れる者、キリストの十字架の愛を知った者です。隔ての壁を壊され、様々な違いを超えて「神の家族」となった者たちです。
ゆえに「さばかない」で「受け入れること」を主にあって求められているのです。
その方法は主を見上げることによってです。私たちは、神様が受け入れた人々をさばく権利を持っていないのです。互いの違いをさばき合うのではなく、同じ主を見上げていることを覚えましょう。
1節 信仰の弱い人を受け入れなさい。その意見をさばいてはいけません。
まず、ここにある「信仰の弱い人」とはどのような人でしょう。それは、必ずしも信じたばかりの人や赤ちゃんクリスチャンではありません。むしろ、まじめで慎重なクリスチャンということです。この「弱い」という語は「虚弱体質」、つまり繊細な体質を指す時に使うことばです。それはまじめで傷つきやすく、繊細な信仰の人を指します。
この理解でいくと、「これをしてはダメなのでは」、「これをしていいのだろうか」と生真面目に悩むような人が、ここでの「信仰の弱い人」です。その具体的な例示として、2節から教えられています。まずは食べ物の話です。
2節 ある人は何を食べてもよいと信じていますが、弱い人は野菜しか食べません。
当時、食べ物について何ら問題を感じることなく、自由に何でも食べて良いと考えるクリスチャンがいました。その一方で、お肉を一切食べず野菜だけを食べるクリスチャンたちがいたわけです。その背景には、様々なことがあります。例えば、レビ記では食べて良い動物、食べてはいけない動物の規定が多くありました。それを守ったユダヤ人たちは、感染症等から守られ長生きしたと言われています。
また、バビロン捕囚の折には、ダニエルたち4名の若者が、バビロン王が出す豪華なご馳走(肉も含まれるであろう)を食べず、野菜ばかりを食べました。異教的な習慣で身を汚さないようにしたのです。結果、彼らもまた健康的で元気だったのです。ベジタリアンの走りですね。
そして、新約聖書の時代にも、偶像にお供え物としてささげたお肉を食べて良いかどうかという議論がありました。異教の神、偶像に献げられた物を食べることは、神様に対して罪深く、汚らわしいことだと真面目に考え悩む人がいたのです。一方で、時代が進み食の安全もより確保され、以前よりも自由に食べられる社会になっていました。そこで、偶像に供えた肉であろうが、神様に感謝して食べることこそ信仰だと、気にせず食べるクリスチャンも増えたのです。
その際に、ともすると「いつまで小さなことにこだわるのだ?」と、食べない人をさばく人がいたのです。しかし、パウロはそのような人々を受け入れなさい、その意見をさばいてはいけないと教えていたのです。ただし、パウロは逆の立場からもさばいてはならないと言います。
3節 食べる人は食べない人を見下してはいけないし、食べない人も食べる人をさばいてはいけません。神がその人を受け入れてくださったのです。
食べる人も、食べない人も、お互いを見下したり、さばいたりしてはならないと語られています。では、さばかず受け入れるべき最大の根拠は何でしょうか。この3節の最後にある通り「神がその人を受け入れてくださった」からです。そして4節にはこうあります。
4節 他人のしもべをさばくあなたは何者ですか。しもべが立つか倒れるか、それは主人次第です。しかし、しもべは立ちます。主は、彼を立たせることがおできになるからです。
私たちは全員、神の前では等しい「しもべ」です。主人である神様が受け入れるなら、しもべもお互いに受け入れるのです。主人だけが、しもべたちの言動をさばける唯一の存在なのです。この方は、信じる者が誰一人倒れることを望まないのです。ですから、主人が望まないのに、私たちが弱い信仰者をさばいて非難してはならないということです。また、別の例として、ある日を特別な日だと考える者と、どの日も同じだと考える者たちの議論もありました。5節。
5節 ある日を別の日よりも大事だと考える人もいれば、どの日も大事だと考える人もいます。それぞれ自分の心の中で確信を持ちなさい。
当時、特にユダヤ的背景のあるクリスチャンは、こうした日を重んじました。暦の上でこの日は〇〇の祭りだ、また安息日は特別大事な日なのだと考える人です。他方で、お祭りの日々や安息日を守りつつも、これらの日に限らず、毎日が主の日であり、毎日が大切な日々であると考える人もいました。皆さんはどう思われるでしょうか。おそらく様々な意見が出るでしょう。その場合に、違いに腹を立て、争ってしまうことこそ悪魔を喜ばせる道ではないでしょうか。自分こそ正しいというこだわりが、かえって神の前に正しくなくなってしまうのです。ですからパウロは、より本質的なことに目を向け、これらを理解すべきだと教えています。6節です。
6 節 特定の日を尊ぶ人は、主のために尊んでいます。食べる人は、主のために食べています。神に感謝しているからです。食べない人も主のために食べないのであって、神に感謝しているのです。
ここで一番大切なキーワードは何だと思われますか?「主のために」ということばです。どちらの側の人も主のためにしているのならば、同じ心でしていることにならないでしょうか。応答の仕方は違う。でも、動機は同じなのです。同じように「主のために」と思っているのです。主を大事にして、主を愛する心でしているのに、小さな違いで争って、さばき合うのは、なんと残念なことでしょうか。しかし、これまでも今も、キリスト教会ではこの課題があります。赦された罪人の集まりなのです。
そしてまた、ここでは「神に感謝している」ということばも2回繰り返されています。お肉を食べる時に感謝の祈りをする。しかし、野菜だって感謝して食べるのです。食べるものは違っても、神様に感謝する心において、やはり一致しているのです。
熱心に積極的に伝道する人がいます。あきらめず繰り返し誘う人もいるでしょう。しかし一方で、相手への配慮を重んじるゆえに、あまり強く伝えず、しつこく誘うことをあえて控える慎重な人もいます。どちらが正しいと言い切れるでしょうか。熱心に誘われたから来る人もいれば、あまりしつこくないから安心して来たという人もいます。この場合も実に、それぞれにその人の救いを祈り求め、この方法がより良いと考えて行動したのではないでしょうか。神様がその心、その動機をご存知なのです。
そう考える時、一致とは何でしょうか。意見が一致することではないでしょう。行動が同じになることではないでしょう。そうではなく同じ神様を愛していることではないでしょうか。同じ神様のみこころを求めていることではないでしょうか。やり方に違いはあっても、主の栄光を現そうとする点で同じ思いであることではないでしょうか。
教会もそれぞれに違います。保守的で慎重な教会もあれば、革新的で新しいことに多く取り組む教会もあります。しかし、それを批判し合い、潰し合う方がみこころから離れることになるでしょう。強調点やアプローチに違いがあっても、人の救いのために労している点は同じでしょう。主を愛してしているなら、そこにも違いはありません。信仰の弱い人も、強い人も、互いにさばき合うのではなく、主がその存在を受け入れているなら、私たちも受け入れ尊重するのです。
私たちはさばく者にならず、むしろ違いから学び合って成長し、ともに主を見上げて歩んで参りましょう。
引用元聖書
<聖書 新改訳2017>
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