東村山福音自由教会 ✞ Sunrise Chapel: エレミヤ書1章13-19節「攻めも守りも最強の神」

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2025/03/03

エレミヤ書1章13-19節「攻めも守りも最強の神」

*** 3/2(日)主日礼拝 説教概略 ***
 
 皆さんには怖いと思う人はいるでしょうか。まだ牧師になりたての若かりし頃。年配の経験豊かな牧師たちの威厳に、怖ささえ感じたのを覚えています。実際、様々な厳しい指導、お叱りも頂戴してきました。

 しかし、多くの場合、これらの先生方も若い牧師たちや教会のためを思ってしてくださっていたわけです。そして、敵対意識ではなく、それぞれの先生の懐に飛び込んで色々と教えていただけば、実に多くのことを学ばせていただけたものでした。


 地上の教師ですらそうであれば、神様というお方は、ますます敵対すべきではなく、その懐に飛び込むほどに豊かな恵みと祝福をいただけるのです。誰がどう考えても、攻めも守りも最強なのは神様です。この方だけは敵対すべきではありません。むしろ、このお方の助言に心を開き、この方の救いのことばにゆだねて参りましょう!

 立てられた預言者エレミヤに再び主からの問いかけがありました。
 「あなたは何を見ているのか。」と。

13 再び主のことばが私にあった。「あなたは何を見ているのか。」私は言った。「煮え立った釜を見ています。それは北からこちらに傾いています。」 

 エレミヤは「煮え立っている釜」を見ていました。これが現実なのか、主がお見せになった幻なのかは分かりません。ただ、その煮え立った釜は北側からこちら側に傾いていました。それは何を示していたのでしょう。

14 すると主は私に言われた。「わざわいが北から、この地の全住民の上に降りかかる。 

 これらは、北からの大きなわざわいがユダ王国に降りかかることを意味しました。わざわいと聞くだけでイヤですよね。それは具体的にどのようなことだったのでしょうか。

15 今わたしは、北のすべての王国の民に呼びかけている。──主のことば──彼らはやって来て、エルサレムの門の入り口で、周囲のすべての城壁とユダのすべての町に向かいそれぞれ王座を設ける。 

 つまり、北から国が攻めて来て、エルサレムを占領してしまうということでした。しかし、北側の脅威であったアッシリアという国は、弱体化していました。ですから、もうそれほど怖くないはずです。ところが、神様はなんと、別の脅威を呼び出していたのです。それこそが有名な「バビロン帝国」でした。アッシリアを蹴散らして、彼らがエルサレムを陥落させるのです。せっかくアッシリアが怖くなくなったのに、神様はなぜ別の強い国を呼び出すのでしょうか。理解できませんよね。

 16節にその理由が語られています。

16 わたしは、この地の全住民の悪に対してことごとくさばきを下す。彼らがわたしを捨てて、ほかの神々に犠牲を供え、自分の手で造った物を拝んだからだ。 

 神様による「さばき」だったのです。神の民ユダ王国はあまりにも罪の中に留まり過ぎました。神様を捨て偶像礼拝を続けました。邪悪で非道な罪を重ね、愛もあわれみも失われていました。それゆえの神のさばきだったのです。

 これは大変なことです。エレミヤは、このような悲惨な神のさばきを宣告しないといけないのです。これを聞いて素直に悔い改める民なら荷も軽かったでしょう。語り甲斐もあります。ところが、この民は強情で主の声に聞かないのです。結果、神様からの攻撃に真っ向から歯向かう姿勢を持ってしまうのです。そうなると、実際の敵はバビロンではなく神様です。恐ろしいことです。神様の最強の攻撃を防げるはずがありませんよね。

 ですから、主からみことばが語られたら、心を頑なにしてはならないのです。御声に聞いて、悔い改めて立ち返ることが最善ですよね。でもこの民は強情でプライド高い。彼らは自分たちが他国の支配を受けるなど、あるはずがないと奢っていたのです。こうして、神の真実なみことばを拒み、自分たちに都合の良い話をする者を求めたのです。

 すると、どうなるでしょうか。人のご機嫌を伺って、良いことしか語らない偽預言者が出て来るのです。例えば、613-14ではこうあります、「みな利得を貪り、預言者から祭司に至るまで、みな偽りを行っているからだ。彼らはわたしの民の傷をいいかげんに癒し、平安がないのに『平安だ、平安だ』と言っている。」 

 自分の利益を第一に考えるので、自分の立場が不利になることは、どんなに正しいことでも沈黙するのです。でも、良いものは良い。間違っているものは間違っているとしていかなければ、いつの時代も堕落していきますね。偽預言者というのは、みことばに従わない社会・集団によって生み出されるとも言えますよね。ですから、私たちも、まっすぐに主のみことばを求め続けたいのです。エレミヤ書はその問題も扱っているのです。

 ですから、17節で主はエレミヤに言われたのです。

17 さあ、あなたは腰に帯を締めて立ち上がり、わたしがあなたに命じるすべてのことを語れ。彼らの顔におびえるな。さもないと、わたしがあなたを彼らの顔の前でおびえさせる。 

 18節に続いて、ここでも「彼らの顔におびえるな」と語られます。実際、エレミヤが人の評価を恐れて、真実を告げなければどうなるでしょう。偽預言者のように「今のままで平安、ハッピーです。悔い改め不要です!」と語るならどうでしょう。人々から悔い改めの機会を奪うことにならないでしょうか。十字架を求めさせないことにならないでしょうか。

 神様は人を愛しています。この民を深く愛しています。だからこそ、罪をも私たちに示し、正しい良い道に戻そうとしてくださるのですよね。心底悔い改めて、新しく建て直されるためにです!そのために主はエレミヤを激励して送り出すのです。

 確かにエレミヤは若い上に、これらを語るのですから大変です。それで腰に帯をしめて立ち、彼らの顔を恐れるなと言います。主がエレミヤに敵対するようなことをしないようにと、叱咤激励するのです。しかし、主は従う者を必ず守られます。

18節にこうあるではありませんか。

18 見よ。わたしは今日、あなたを全地に対して、ユダの王たち、首長たち、祭司たち、民衆に対して要塞の町、鉄の柱、青銅の城壁とする。 

 エレミヤは確かに同胞からの抵抗・反抗を受けます。しかし、神様はエレミヤの守備力を最強にするとおっしゃったのです。「要塞の町」「鉄の柱」「青銅の城壁」、いずれも頑丈、堅固、揺るぎないものの比喩です。神の守りがいかに強固で、頑丈であるかをよく示しています。王様であろうと祭司であろうと関係ない。エレミヤを攻略することは不可能なのです。エレミヤがどんなに若く、弱かろうと関係ないのです。

ですから19節にもこうあります。 19 彼らはあなたと戦っても、あなたに勝てない。わたしがあなたとともにいて、──主のことば──あなたを救い出すからだ。」 まさに、この強力な盾、堅固な城壁なる主を味方にしていればチートです。何も恐れることはないのです。

 

私たちは、主のみことばに何を教えられ、応答するのでしょうか。

(1)神様に敵対してはならない、味方になっていただこう

私のことは嫌ってもどうってことはありません。たいして力もありませんから。しかし、神様にだけは絶対に敵対してはなりません。神様を敵にして攻められたら、私たちは瞬時に倒れます。最強の攻撃力です!私たちの肉体どころか、たましいまで滅ぼせる方なのですから。ですから、少なくとも神様に敵対してはなりません。むしろ味方になっていただきましょう。それは難しくありません。イエス様を心にお迎えするだけです。イエス様の十字架の赦しを受け取りましょう。このお方が味方ならば敵はありません。ロマ8:31  では、これらのことについて、どのように言えるでしょうか。神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。 

(2)神の救いの計画を最後まで信じよう

110節で主がおっしゃっていました。やむなく、一度は「引き抜き、引き倒し、滅ぼし、壊す」。しかし、それは神の民を建て直し、植え直すためにでした。神は決して、意味もなく私たちを苦しめることをなさいません。ですから、苦しむにしても、苦しみ方があるのです。

それは、主に敵対して苦しむのではなく、主の御手の中で苦しむことです。今日はぜひ、これを覚えてください。主に敵対して苦しむのではなく、主の御手の中で苦しむことです。 

ダビデ王の例があります。ダビデ王が罪を犯し、三つのさばきのうち一つを選べと命じられたことがありました。その時、彼はこう答えました。「主の手に陥らせてください。主のあわれみは深いからです。私が人の手には陥らないようにしてください」と(Ⅱサムエル24:14)。

人間的な方法によらず、さばきを主の御手の中で受けさせて欲しいと懇願したのです。これこそ、神様への信頼、信仰からくる決断です。神のさばきや試練さえも自分にとって最善となることを信じたのです。私も親ですから、子どもたちを厳しく叱ることは多々ありました。でも、子を思うゆえに叱り、厳しい道を通らせるのです。天の父は、人間の父親よりもずっと正しく、ずっと愛が深いお方です。私たちもこの方を心から信頼して、この方の御手の中で苦しみを乗り越えて行く者となりましょう。


引用元聖書
<聖書 新改訳2017
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