1日 マタイ18章21-22節
ペテロは主イエスに質問した。兄弟が自分に罪を犯した場合、何回赦すべきかと。なお、ペテロとしてはかなり奮発して「7回まででしょうか」との提案も含めて質問をしている(21)。ペテロとしては、完全数である「7」と言っておけば、すばらしい!と褒められると考えたのかも知れない。ただし、彼の心は何度でも際限なく赦すという意味ではなく、実際の数字7回という意図であろう。しかし、イエスの答えは彼の想定をはるかに超えていた。7回を70倍するまで赦すようにと言われたのだ(22)。490回と考えても、際限なく赦しなさいというメッセージとして受け取れるだろう。だが、完全数の「7」をさらに70倍せよというのは、まさに赦しの回数に一切制限を設けるなという意味である。その赦しの根拠は、自分自身がまさに無限に、際限なく神に赦されているからであった。そのことは23節以降で、たとえ話をもって語られていく。私たちが赦せないのは、私自身がどれほど多く赦していただいたかを忘れた時である。神の赦しを忘れてはならない。赦しにいつも感謝し、その恵みに堅く立って歩んでいこう!
2日 マタイ18章23-35節
天の御国の「赦し」のあり方について主はたとえで話された(23)。1万タラントという莫大な負債を抱える家来は、ひれ伏して王に返済猶予を懇願した(26)。王はあわれみの心を抱き、負債を免除することにしたのだ(27)。とてもつない温情、やさしさである。ところが、この家来は、それよりずっと少ない100デナリの負債を免除してやらず、貸しのある者の首を絞めて返すよう迫った(28)。その者は必死に嘆願したが、この家来は猶予の検討さえせず、無慈悲に彼を牢屋に入れてしまった(30)。このことで非常に心を痛めた仲間たちは、この始終を主君に話した。するとこの主君は呼び出し、「おまえをあわれんでやったように、おまえも自分の仲間をあわれんでやるべきではなかったのか」と語り、この家来を獄吏に引き渡した。主イエスは、弟子たちに伝えている。あなたがたも自分の兄弟を心から赦しなさいと。そうでないなら、天の父もこのようになさるのだと。自分が赦されたことを真摯に受け止め感謝しよう。赦された者は、同様に赦すことが求められているのだ。
3日 マタイ19章1-9節
ユダヤ地方に入ると群集がついて来たので、イエスは彼らを癒された。3節以降では、パリサイ人らが理由があれば妻を離縁することは律法上問題ないかと尋ねてきた。主は、創世記2章から引用し、結婚した夫婦は一体であって、神が結び合わせたものを引き離してはならないとおっしゃった。実は一部のパリサイ人らは、理由をつけては妻を平気で離縁していた。それで、彼らはモーセが「離婚状を渡して妻を離婚せよと命じた」という例を挙げる(7)。ただ、これは明らかな曲解だ。モーセは離婚せよと命じたのではない。やむを得ない状況で離婚する場合は、必ず離婚状を渡すことを命じたのである。なぜなら、離婚状は離縁された女性を保護するための書状だったからだ。マラキ2章16節でも、神は離婚を憎むともある。私たちは弱く、誓いをないがしろにしやすい。だが、神が結婚を重んじておられる。それは人の幸いのためであることを忘れないでいよう。
4日 マタイ19章10-12節
弟子たちはイエスの結婚の教えに対して不満に思った。そのため、「夫と妻の関係がそのようなものなら、結婚しないほうがましです」とまで言い出した(10)。彼らは神の定められた結婚というものを「人間のわざ」にしてしまい、結婚も離婚も自分たちの自由だという発想を持っていた。現代はまさにそういう時代だ。しかし、イエスは言われた。「独身でいる」ということばは、誰しもが言えることではないのだと(11)。それが神に許されている人だけが可能なのだと言われたのだ。12節では、様々な理由の独身があることが語られる。しかし、いずれも神の許しなしの「独身」はないということだ。結婚できないから独身だと理解するのは人間的である。神はみこころによって、結婚も独身であることも導かれるのであって、私たちはその置かれた状態を神の召しとして信じて歩むのだ!
5日 マタイ19章13-15節
13節で、「イエスに祈っていただくために、子どもたちがみもとに連れて来られた。」とある。特に幼い子どもたちは親の保護、助けがなければ多くのことができない。イエスのもとに行くにも、親が連れて行くのでなければ、幼い子が自力では行くことは難しい。その意味で、まず親や大人たちの責任を思わされるのだ。自分が面倒だから連れていかないとか、自分の勝手な判断でイエスのもとに行かせないのはどうなのだろうか?しかも、弟子たちは連れて来た人たちを叱ってしまっている。これはより深刻だ!連れて来た人たちは神の目に、とても良いことをした人であった。神が子どもたちを来させなさいと言っているのだから。しかし、それで叱られてしまうとは、なんと残念なことであろうか。そこで主イエスは、天の御国はこのような幼い子たちのものであると語られた。「邪魔してはいけない」のだ!イエスは彼らを喜び、頭の上に手を置いて祝されたことからも明白である!!主のみこころは、子どもたちをイエスのもとに連れて行き、祝福を受けさせることである!
6日 マタイ19章16-22節
一人の青年が質問をした。永遠のいのちを得るために、「どんな良いこと」をすればよいのかという問いだ(16)。つまりこの青年は、善行によって永遠のいのちを得られると考えた。だが、主イエスは言われた。「なぜ、良いこと」ついて尋ねるのか、「良いお方はおひとりです」と(17)。そもそも「良いこと」を尋ねるのではなく、「良いお方」をたずね求めるべきだということだ。だが、この青年は自分が正しいことを行っていると思っていた。だから、どの戒めを守るべきかとあえて尋ね、「自分はそれらを全部守っている!」と豪語したかったのである(20)。だが、イエスは完全さを求めるなら、持ち物も全部売って貧しい人に与えるようにと言われた。主は、行いによっては神の前に完全に正しくなれない人間の現実を、彼に気づかせたかったのであろう。何ができているかよりも、私たちは誰もが救い主を求めるべき罪人であると認めることこそ、神のみこころなのだ。
7日 マタイ19章23-26節
教えをみな守っていると豪語した青年が、お金を手放すことについては非常に難しく、去って行った姿があった(22)。それを見ていた弟子に主イエスは語られた。「金持ちが天の御国に入るのは難しいことです」と(23)。ただ、その難しさは半端ではない。なぜなら「らくだが針の穴を通るほうが易しい」と説明されたからである(24)。それで弟子たちは非常に動揺し、「それでは、だれが救われることができるでしょう。」と言った(25)。
するとイエスは、彼らをじっと見つめて言われた。人にはできないが、神にはできるのだと。これは、人間が自身の力で救われることがいかに難しいかを示す出来事であった。弟子たちはどこかで立派な人なら、自分で救いを獲得できると思っていたのであろう。だが、主イエスは「人にはできない」と言われたのである。お金持ちにも、権力者にも、偉大な能力を持つ者でも、自力で救うことはできない。神だけができるのだ!
8日 マタイ19章27-30節
「人にはできない」(26)と語られたばかりだが、ペテロはイエスに尋ねた。自分たちはすべてを捨てて従って来たが、何をいただけるのかと。私たちは神が施さなければならないほど、「神のために十分なことができた!」などと言えない者である。むしろ、自分の罪深さを知れば、あわれみをいただいてようやく生かされている者である。何かをするにしても、それをさせてくださったのも主である! だが、イエスはペテロに教えられた。主イエスが栄光の座に着く時には、その新しい世界(天の御国)で十二の座についてイスラエルの十二部族を治めることになる(28)。また、多くを捨てた者はその百倍受けるようになるのだと(29)。それらは消えないもの、無くならないものだ。幸いである。ただ、30節で一言添えらえた。それは、先の者が後になり、後の者が先になるのが天の御国であると。それもまた、ひたすらに神のあわれみが深いゆえのことだ。早い者勝ちではないのだ。自分のわざを誇るのではなく、神の恵みとあわれみの大きさに目を留め、心躍らせよう!!
9日 マタイ20章1-16節(1)
天の御国では「後の者が先になり、先の者が後になる」。これを教えるために、主は「ぶどう園の主人」のたとえ話をされた(1)。雇い主は、市場で早朝から雇われた者に1デナリで契約した(2)。しかし、9時、12時にも残っていた者を雇い入れた(3-5)。夕方5時にも市場に行ったが、誰にも雇われずに1日過ごした者がいたので、やはりぶどう園で働くように言った(6-7)。そして全員に対して等しく1デナリずつの賃金を払ったのだが(9-10)、早朝から働いていた者は不満をもらした(11)。なぜ長時間苦労した自分たちと、最後にすべり込んだ者が同じ扱いなのかと。イエスは天の御国はこのようなものであると言う。子どもの頃から信じて歩んでも、死の間際で信じても同じ恵みにあずかるということだ。古い人が偉く、新参者の立場は低いということもない。等しく主の救いの恵みにあずかるのだ。むしろ、神を知らずに生きて来た者をあわれみ、恵みを存分味わって欲しいというあわれみの心を持つ者でありたい!
10日 マタイ20章1-16節(2)
早朝から働いた者と、夕方5時から働いた者が同じ賃金では納得いかないと不満を持つ労働者に、ぶどう園の主人は「この最後の人にもあなたと同じだけ与えたい」と語る(14)。それは、雇われず、どこにも所属できずに、不安と恐れの中にいた者たちへのいたわりのことば、あわれみ深い姿勢である。神を信じないで歩む人生は不安と恐れの連続である。神のもとで苦労するなら、その苦労さえ幸いなのに・・・である。それに加えて15節で、雇い主は「わたしが気前がいいので、あなたはねたんでいるのですか」と問いかける。「気前がいい」は直訳では「Good(良い)」で、「ねたむ」の部分は「Bad、Evil(悪い、邪悪)」。これは、神があまりにも良い方なので、邪悪な目を持つあなたがたには悪く見えるのかといったニュアンスがここにあるようだ。主人は契約を少しも破っておらず、それでいて後から来た者にも大きなあわれみを示したのだ。まず、私たちの歪んだ目、そのねたむ邪悪な心を直さないといけない。
11日 マタイ20章17-19節
イエスはエルサレムに上る途中の道にて、十二弟子だけを呼んで彼らに話をされた(17)。エルサレムで主イエスがされることについて十二弟子に話されたのである。それは、祭司長たちや律法学者たちに引き渡され、死刑に定められること(18)。また、最終的に異邦人に引き渡され、死刑にされるということであった(19)。つまり、神の民ユダヤ人の指導者と異邦人の両者の手に渡され、彼らの罪深い判断と罪深い手によって、十字架にて死刑にされたのである。その際、「嘲り」と「むち打ち」が伴うことも主は伝えておられる。主イエスの十字架は、神の選びの民とそれ以外のすべての者たちのためであった。すべての者の手で十字架につけられる主イエスであった。だが、この十二人弟子たちに主は、死からの復活も明確に告げられた。三日目によみがえるという真理であった(19)。私たちは自分自身の罪が主イエスを十字架に引き渡し、磔にしたと自覚しているだろうか。自身のその罪を真摯に受け止め、本気で悲しむ者こそ、主イエスのよみがえりが大いなる喜びとなるのだ!
12日 マタイ20章20-23節
ゼベダイの息子たちの母親が、息子たちと一緒に来て主イエスの前にひれ伏して懇願した(20)。息子たちをイエスの御国で、王座の両隣に座らせて欲しいと言うのだ(21)。これに対して主イエスは、「あなたがたは自分が何を求めているのか分かっていません」と応じた。さらに彼らは、主が飲もうとしている杯を「飲める!」と言うのだ。それがどれほど苦い杯であるかもわからずに。そして、イエスの王座の隣に座ることについては、父なる神が備え、与えることであると言われた。この時、ゼベダイの息子たちと母親は、イエスのことも、神のことも考えていない。自分たちのことだけである・・・。このような「自己中心」がイエスを苦しめた張本人ではなかろうか?私たちは主の「妨げ」になるのではなく、主のお役に立つ者になろう!私の求めではなく、神の求めを知る者とならせていただこう。
13日 マタイ20章24-28節
ゼベダイの二人の子らとその母親が、御国でのイエスの両隣の座を求めたという話は、他の弟子たちにも聞こえて来た。それで他の弟子たちは腹を立てた(24)。抜け駆けだ!と思ったのであろう。イエスは彼らを呼び寄せて言われた(25)。呼び寄せていることから、主イエスは弟子たちにぜひ知って欲しいと思ったのだろう。神を信じない者たちは、人々に横柄にふるまうが、あなたがたはそうであってはならないと教えられたのだ(26)。むしろ、偉くなりたい者、先頭に立ちたい者は「皆に仕える者になりなさい」と(26-27)。実に、イエスご自身が「仕えるために」また、「ご自分のいのちを与えるために」来られたからである(28)。私たちは世の支配者たちの弟子だろうか?それとも、主イエスの弟子だろうか
?主イエスの弟子であるなら、その生き様も似て来るはずである。仕えるため、与えるために召されていることを覚えよう。
14日 マタイ20章29-34節
エリコの町を出たイエスとその一行はエルサレムに向かっていた。その途上、道端に座っていた二人の目の見えない人が、イエスが通られると聞いて必死に求めた。「主よ、ダビデの子よ。私たちをあわれんでください。」と叫び求めたのだ(30)。それを見た群集が彼らを黙らせようとたしなめた(31)。イエスのためを思ってであっても、求める者を止めるという行為を私たちがしてはならない。だが、この二人はそれで諦めなかった点がすばらしい。ますます必死に、イエスに叫んだのだ。目が見えないゆえ、どこにイエスがいるかも正確にわからないだろう。着物の裾に触る行為も彼らには難しい。だが、彼らができる方法、すなわち大声で叫ぶという方法で求めたのだ。主は彼らの求めを聞いて(33)、彼らを深くあわれんで目を癒されたのだ(34)。私たちも彼らのように必死に主を求める者でありたい。すぐに諦めてはいけない。求めよう。求め続けよう!
15日 マタイ21章1-7節
エルサレムが近づき、オリーブ山のふもとに来た時、イエスは二人の弟子をある村に遣わされた(1)。その際、ろばがつながれており、一緒に子ろばがいるので連れて来るようにと命じられた(2)。その時、誰かが何かを言ってきたなら「主がお入り用なのです」と言えば、すぐに渡していただけるのだと教えられた(3)。これはイザヤ書の預言が成就するためであった(4-5)。弟子たちは言われた通りに実行し、ろばと子ろばを連れて戻り、上着を子ろばの上にかけて主イエスを座らせた(6)。「主がお入り用なのです」とのことばには、圧倒的な力を感じる。主である方が必要だと言えば、必要なのである。それ以上の説明も本来は不要なのだ。なぜなら、この世界を造られた方であり、すべての所有者であるからだ。主はあなたにも言われている。「主がお入り用なのです」と。あなたには聞こえているだろうか?
16日 マタイ21章8-11節
エルサレムに入ると、非常に多くの群集が上着を道に敷いてイエスの入城を大歓迎した(8)。9節で、彼らはイエスを「ホサナ、ダビデの子に」と叫び、ダビデ王の継承者として期待を寄せていることがわかる。それゆえ都中が大騒ぎになり、この人は「預言者イエスだ」と騒ぎ立てた(10-11)。ただ、彼らは歪んだ期待をイエスに持っていたのである。彼こそはイスラエルの国を再興する預言者、武力でローマ支配を打ち砕く革命家なる王である!といった期待である。だからイエスは、ご自分の様々な癒しや悪霊追い出しのわざを「広めないように」と常々教えて来たのだ。それは、人が、勝手なイメージや期待を抱く誘惑から守り、正しく神の救いを見つめるためだったのだ。私たちはイエスに、自分の勝手なイメージや期待を押し付けていないだろうか。あなたのイメージではなく、主ご自身のお姿をそのまま信じる者となろう!
17日 マタイ21章12-13節
「宮きよめ」と呼ばれる出来事である。イエスが宮に入ったとき、その中で商売をしている者たちを叱り、追い出し、彼らの腰掛を倒された(12)。主イエスの行動の中で、最も大胆かつ攻撃的な印象を受ける出来事でさえある。だが、それほどにイエスは、神の宮がゆがめられ、商売道具と化していたことに胸を痛められたということだ。なぜなら、主の家は「祈りの家」と呼ばれる場であるのに、当時のユダヤ人たちは「強盗の巣」のようにしていたからである(13)。祈りとは、神のみこころを教えてくださいと、神ご自身を求めることではないか。だが、これらの商売人たちは、人々が神を求める機会と場所を、自分たちの欲のために奪っていたのだ。まさに「強盗」である。神を見えなくし、求めさせなくする・・・一番奪ってはいけないものを奪っていた。私たちは奪う者ではなく、むしろ与える者でありたい!誰よりも主を!
18日 マタイ21章14-17節
主イエスは「宮きよめ」だけでなく、体の不自由な人々の目や足を癒された(14)。宮の本来の主(あるじ)なる方が、それをしたのだが、我が物顔で宮を仕切っていた者たちからすると面白くない。それで、15節にあるように、祭司長たちや律法学者らは、イエスの驚くべきみわざを見て、さらに子どもたちが「ダビデの子にホサナ」とイエスをたたえている姿を見て、腹を立てたのだ。そのため、彼らはイエスを責めるようにして、子どもたちが何と言っているか聞いているか?とイエスを問い詰めた。「そんなことを言わせておくな!」と言いたかったのだろう。だが主イエスは、あえてそれを止めなかったのだ。なぜなら、イエスは賛美を受けるに相応しい方であったし、詩篇にあるように、神は、乳飲み子たちの口を通して誉れを打ち立てられるからである。子どもたちの賛美を主は喜ばれる。私たちも子どもたちが主を賛美するのをともに喜び、彼らとともに主を礼拝しよう。
19日 マタイ21章18-22節
早朝、エルサレムに戻る途中、主イエスは空腹を覚えられた(18)。そして、道端に一本のいちじくの木を見つけたのだが、葉だけは立派なのに実りがなかったのだ。そこでイエスが「今後いつまでも、おまえの実はならないように」と言われると、その木はたちまち枯れてしまった(19)。これは、外側だけ立派な信仰者を装っていても、実を結ばない中身なき者への神のさばきを示している。弟子たちはこれに驚き、イエスに尋ねた。イエスは彼らに、信じて疑わないなら山をも動かせるし、祈り求めるものは何でも受けられると教えられた(21-22)。この信仰は、実を結ばない見せかけだけの信仰とは正反対である。私たちも形ばかりにならず、実を結ぶ信仰生活をして参りたい。それは心から神に信頼して、疑わない信仰である!
20日 マタイ21章23-27節
祭司長や長老たちは、イエスが宮で教えているのが気に入らない。そこで意地悪く「何の権威によって」しているのかと尋ねた(23)。すると、イエスは逆に問いかけ、あなたがたが答えるならわたしも答えようと応じられた(24)。ヨハネのバプテスマはどこから来たものかという問いだ。だが、彼らは答えられず「分かりません」と答えることにした。しかし、彼らは分からなかったのではない。自分たちの立場が悪くならないために「分からない」との答えを選んだに過ぎない。「天から」と言えば、信じなかった自分たちの立場がない。一方で、「人から」と言えば、群衆の反発を招き立場が危うくなる。つまり、自分たちの立場ばかりを考えているので、本音で語ることができないのだ。なんと不幸なことだろうか・・・。私たちも「どう答えるのが無難だろうか」と、身の安全や立場を守るための応答に終始していないだろうか?
21日 マタイ21章28-32節
イエスを陥れようとした祭司長、長老たちだったが、そのやり取りを通して、かえって自分たちの不信仰な姿を露わにされている。28節でイエスは例話を用いて彼らに問いかけた。ある人に二人の息子がいた。兄息子に「ぶどう園に行って働いてくれ」と頼んだが、行きたくないと断られた。だが、彼は後になって思い直して行ったのだ(29)。反対に、弟息子は「行きます」と応答したにも関わらず行かなかった(30)。どちらが父の願ったとおりに行ったのかという問いである。祭司長、長老たちは「兄です」と答えた。それでイエスは答えられた。あなたがたがさばいている取税人や遊女たちが、あなたがたより先に神の国に入るのだと答えられた。つまり、彼らこそ、このたとえ話の兄であった。罪を犯して、神から離れていたが、後になって罪を悔い改めたのだ!だが逆に、祭司長、長老たちは神のもとにいて信じていると主張してきたが、バプテスマのヨハネの話を聞いても思い直さなかった(32)。どんなに遅くなったとしても悔い改め、立ち返る者でありたい。
22日 マタイ21章33-41節
イエスは別のたとえをされた。ぶどう園を造った主人が、農夫たちに貸して旅に出た(33)。収穫が近づき、主人は農夫のもとにしもべを派遣して収穫を受けようとしたが(34)、しもべらは殺されてしまった(35)。さらに多くのしもべを派遣したが同じであった(36)。最後に息子をも遣わしたが(37)、農夫は財産目的で息子まで殺してしまった(38-39)。世界の主である神(主人)は、甘いぶどう(イスラエルの民)がなるようにぶどう園を造られた。だが、その園を治める農夫たち(祭司、律法学者ら)は、正しく管理せず、神が遣わした多くのしもべ(預言者ら)を散々な目に遭わせた。最後に遣わされた息子(御子イエス)さえも、彼らは手にかけるのである。これは、イスラエルの指導者たちに、自分たちの罪を自覚させるたとえ話である。「私は主イエスを十字架にかけていない!」と言い切れるだろうか?教えに聞き従わず背く罪がある。私たちの罪が御子イエスを十字架につけたと言えないだろうか。私たちも問われている。罪を認めようではないか。
23日(日) マタイ21章42-46節
42節は詩篇118篇からの引用である。家を建てる際に不要と判断され捨てられた石が、最も重要な礎石となったという。それがキリストである。多くの権力者、宗教指導者、民からも見捨てられ十字架にて処刑される。だが、そのようにして捨てられたキリストが、全人類にとって必要不可欠な救いの礎となったのだ。これは主がなさったこと!人の目に不思議すぎるみわざだ!(42)だが、イエスを捨てる者たちにとっては、恐れるべきことでもある。44節にあるように石は固いのだ。その上に人が落ちれば骨まで砕けるし、上から石が降ってもその人は押しつぶされる。つまり、信じる者にとっては「救いの礎石」だが、信じない者にとっては「さばきの石」となる。信じる者の罪を赦す権威は、必然的に、信じない者を罪に定める権威となる。私たちは堅固な石の上に立つ者となるのか、これによって砕かれる者となるのか?誰もが自分で決め、選ぶ責任が問われている。あなたはどうするのか?
24日(月)マタイ22章1-7節
再び「天の御国」についてのたとえ話がなされた。王が王子の結婚披露宴を開催した話である(2)。人々を招待するためにしもべを派遣したが、人々は無関心であった(3)。それで別のしもべを派遣し、ご馳走の中身も伝え、再度招待したのだ(4)。ところが、それでも彼らは無関心で、自分の仕事に執着していた。さらに悪いことに、ある者たちは王のしもべをたちを侮辱し、殺してしまったのだ(6)。無関心な人々は多くの群衆の姿であり、神のことばよりも、自分の執着に忙しくしているのだ。それを「偶像」と呼ぶのではないか。そして、王のしもべを侮辱、殺害したのは指導者たちだ。預言者を迫害し苦しめた。ついには、キリストが十字架で処刑されることになる。その罪深い選択は、7節にあるように、自分たちの身に滅びを招くことを意味する。私たちの関心事はどこにあるだろうか?むなしく消え去る物に対してか。それとも永遠の御国に続くことに関心を向けているだろうか。
25日(火)マタイ22章8-14節
「天の御国」に関する王子の結婚披露宴のたとえである。王が人々を招待した話の続きだ。招待に見向きもせず、しもべを殺してしまう人々がいた。王はその人々を「ふさわしくなかった」と考えた(8)。ただ、それゆえに、大通りのすべての人を招待し(9)、それゆえに、良い人も悪い人も招待され、披露宴は客でいっぱいになった(10)。相応しくなかったユダヤ人たちのゆえに、異邦人たちが御国に招かれたのだ。また、招かれた者の中に王が用意した礼服を来ない者がいた(11)。それは最低限のルールだ。神のくださった「義の衣」なしには御国に入れない。キリストを信じる者がこの衣いただくのだ。これさえしない者は「ふさわしくない」のである(13)。ただ、これではっきりした。神の前の「ふさわしさ」とは、ユダヤ人か異邦人かではない。良い人か悪い人かではい。どんな罪人であろうとも、キリストを信じて義の衣を着る者となった者はふわしいのである。
26日(水)マタイ22章15-16節
パリサイ人らは、イエスを「ことばの罠」にかけようと相談していた(15)。そこで彼らは16節にあるように、自分たちの弟子だけでなくヘロデ党の人間たちを加え、一緒にイエスのもとに派遣した。ヘロデ党というのは、パリサイ派と全く反対の考えを持つ者たちであった。パリサイ派は、ローマに税金を納めるなんて「ユダヤ人としてけしからん!」と考えた人々。一方のヘロデ党は、ローマと積極的に仲良くして彼らの後ろ盾を得ようとしていた者たちだった。正反対の者同士で手を組み、イエスが彼らの質問にどう返事しようと、それによって罠にかける作戦にしたのだ。私たちも、YESと答えても、NOと答えても批判されるという場面がある。不条理な汚れた罪の社会ゆえだ。そう考える時、結局私たちは、神の守りを信じて、神の前に正しく生きるしかないのだ。罠にかけようとする者はどんな手でも使って来る。それに同じ土俵で戦うことはなんとむなしいことか。神の前に正しく歩もう。実際、イエスは神の前の誠実さをもって応じて、彼らを退かせたのだから!
27(木)マタイ22章17-22節
「税金を納めることは律法にかなっているでしょうか、いないでしょうか」とパリサイ派とヘロデ党はたずねた(17)。しかし、主イエスは、そこにある悪意を見抜いておられ、彼らを「偽善者たち」と指摘された(18)。それでも、銀貨の肖像を示したうえで、「カエサルのものはカエサルに、神のものは神に返しなさい」と言われた(21)。彼らはこれに驚嘆し、ただ帰るしかなかった(22)。カエサルの肖像のある硬貨を使用している以上、ローマ政府のサービスを利用していることになる。それならば、そこに負い目があり、税を払うのは当然である。これは、ローマ嫌いのパリサイ派であろうと、筋の通ったことだ。また、ヘロデ党としても、ローマに筋を通すイエスの答えはもっともだった。神は秩序正しい神だ。公正な正義の神。筋の通らない無責任なことを求めていない!神の前に誠実に生きることは、実に人に対しても誠実に生きることであり、決して矛盾するものではないのだ。
28日(金)マタイ22章23-30節
復活を信じないサドカイ人らも、イエスを試そうと質問をしてきた。モーセの律法によれば、兄が死んで兄嫁が未亡人になったならば、弟がその義姉を妻とし、子孫を残していくと教えている。これは「レビラート婚」という制度だ。家系を絶やさず子孫を残すためである。未亡人が働く場は多くなく、保証がない時代において必要な救済措置であった。ただ、その場合、次々と夫が死に、1人の女性が7人の兄弟と順に結婚したなら、「復活後は誰の妻なのか」という問いである。これに対し、29節でイエスは答えた。あなたがたは聖書も神の力も知らないから、思い違いをしているのだと。復活後は、結婚という地上の制度ではなく、誰もが御使いのようなのだと。特に重要なのは、聖書と神の力を知らない者は、思い違いをするということだ。「思い違いをする」とは、「迷う」「惑わされる」という意味もあることばだ。神を知り、聖書を学ぶなら、思い違いから守られる。あらゆることの解決は、神である主とそのみことばを知ることによって、与えられていくのだ。
29日(土)マタイ22章31-33節
死人の復活について、神がこう語ったのを読んでいないのかと主は言われた(31)。その内容とは、『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』という出エジプト記3章6節のみことばだ。だが、これのどこが「死人の復活」についてのみことばなのだろうか? 出エジプト記3章の時代、もう彼ら3人はとっくに死んでいるのだ。過去の人だ。それなのに神は、ご自分を、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神であると言われた。「神だった」とは言わず、「神である」と現在時制である。つまり、今も、変わらずに、彼らの神なのである。彼らの肉体こそ土に帰ったが、その霊は今も、天の神のもとで生かされ、復活の時を待っているのだ。イエスの聖書の説き明かしに驚かされる!!私たちは主イエスから、その御霊から、教えていただかなければ、復活も神ご自身のことも分からない者である。聖書の神は、復活することになっている者、すなわち「生きている者の神」であると語っているのだ。むしろ、ここに入ることにこそ心を注ぐ者でありたい。
30日(日)マタイ22章34-40節
サドカイ派の人々がイエスの返答にぐうの音も出なかったと聞いたパリサイ派が集まった(34)。そして、律法の専門家が再びイエスに質問をしている(35)。「律法の中でどの戒めが一番大事か」という問いだ。彼らの質問の動機は、真理を知るためでもなく、学んで成長するためでもない。イエスを試し、イエスを罠にはめるための問いである。毎度残念に思われることだが、パリサイ人の熱心さが、愛の動機で良いことのために向けれたなら、どれほど多くの人々が支えられただろうか。イエスは、あなたの神、主を全身全霊で愛すること、そして隣人を自身のように愛すること、この二つが重要であり、律法全体がこれを基としていることを教えられた。彼らの動機は、見事にここから外れている。私たちの質問や追及は、何のためになされているだろうか。自己主張を正当化し、他の人の主張を間違いだと証明するためにしていないだろうか?
31日(月)マタイ22章41-46節
パリサイ人が集まっていたので、イエスからも問いかけた。「あなたがたはキリストについてどう思いますか。彼はだれの子ですか。」と(42)。彼らは自分にとってどういう方かを答えず、知識で「ダビデの子」と答えた。彼らが教えられてきた常識だった。それでイエスは続けて問いかける。では、なぜ、当のダビデ自身が、自分の子孫であるキリストを指して「私の主」と呼ぶのか(43)。イエスはダビデの詩篇を引用しながら示された。子孫より先祖が偉いというのが世の常識だ。だが、御霊に導かれたダビデは常識によってではなく、御霊によって、自分の子孫を「私の主」と告白したのだ。確かに、イエスはダビデの子孫で間違いない。だが、イエスが、ただダビデの子孫であることを信じても誰も救われない。イエスが神の子、キリストであると、御霊によって自分の告白とする者が救いを得るのだ。人の常識、人間の知恵は人を救わない。神を求める者に、御霊が働いてくださり、この理解と告白を与えてくださるのだ。
引用元聖書
<聖書 新改訳2017>
聖書 新改訳2017©2017 新日本聖書刊行会