東村山福音自由教会 ✞ Sunrise Chapel: ローマ15章1-6節「隣人を建て上げるために」

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2025/03/21

ローマ15章1-6節「隣人を建て上げるために」

*** 3/19(水)祈祷会 説教概略 ***

 先日のSJC(CS)春スペシャルでは、34名の子どもたちが来てくれました(初めてのお子さんたちは9名)。しかし、実際教会の中には、もっと大勢の人で賑わっていました。おそらく全体で70名はいたのではないでしょうか。


 子どもたちの保護者もいらっしゃっていましたが、何よりも中高生の奉仕者をはじめ、大人の奉仕者がたくさんおられ、協力してこの働きがなされていたからでした。それは小さな子どもたち(隣人)の救いと成長のために奉仕した姿です。つまり、隣人の消えない喜びのために奉仕する姿勢の現れです。

 子どもたちとほぼ同数の奉仕者が協力して仕えたことは、とても尊いことであると思い、感謝しています。これを心に留めつつ、1節をご覧ください。

1節  私たち力のある者たちは、力のない人たちの弱さを担うべきであり、自分を喜ばせるべきではありません。 

 弱い人をさばいたり、軽んじたりするのではなく、その弱さを担うべきであると教えています。「~するべき」と訳されていることばは、義務があるという意味のことばです。担った方が良いというのではなく、担う義務・担う責任があるとパウロは言います。
 それぐらいの使命感を持っているのが教会ですよね。

神様が私たちに、何らかの「強さ」を与えておられるなら、それは自分を誇るためや誰かを傷つけるためでない。様々な弱さ、傷を持つ方々を責めたり、見下したりせず、互いの弱さを担い合って歩んでいくのが教会の愛の交わりです。そのような愛の歩みこそ、教会の魅力であり、人々もそこに尊敬や好意を抱くのではないでしょうか。

 1節最後には、「自分を喜ばせるべきではない」とあります。なぜなら、あなたに与えられている強さは隣人を喜ばせるために与えられているからです。2節です。

2節  私たちは一人ひとり、霊的な成長のため、益となることを図って隣人を喜ばせるべきです。 

 少し前の1419節のことばの繰り返しです。隣人が本当の意味で喜ぶこと、つまり、その人の霊的な成長に役立つことのために奉仕すべきであるということです。私たちの強さは人を建て上げるためにあるのです。このことは、Ⅰコリ127で御霊の現れとして語られています。「皆の益となるために、一人ひとりに御霊の現れが与えられているのです。」とあります。御霊が与える賜物は、自己実現や自慢のためではなく、お互いに仕えるためにあるのです。自分を喜ばせるためにではなく、お互いの益のためです。

 そして、それを実行されたのがイエス・キリストですよね。3節です。

3節  キリストもご自分を喜ばせることはなさいませんでした。むしろ、 「あなたを嘲る者たちの嘲りが、わたしに降りかかった」と書いてあるとおりです。 

 この3節にあるように、キリストはご自分を喜ばせることを一切しなかったのです。主イエス様はいつも、御父の喜びと人々の真の喜びのためにご自身をささげました。その姿勢を貫いていたので、3節後半にある通りになったのです。「あなたを嘲る者たちの嘲りが、わたしに降りかかった」。これは詩篇69:7の引用ですが、イエス様があまりにも父なる神様を喜ばせるために熱心なので、父なる神様に向けられている嘲りの声が、全部イエス様の上に降りかかったということです。イエス様には一つも罪がありませんでした。それにも関わらず、イエス様は人々からの嘲りを一心に受け、また人々の苦しみを背負われたのです。

 私たちの交わりにおいても、誰かをさばいて非難するのではなく、誰かが非難されるなら、その人を守り支える交わりを築きたいのです。隣人の弱さを自分自身の弱さだと覚えて、支え励ますのです。例えば、私たちの教会では、小さなお子さんやご年配、様々な弱さを持つ方を、周囲の兄姉が「自分の弱さ」だと受け止めることを学び続けています。これができたら、世に誇れるすばらしい交わりだと思っています。私たちは「神の家族」なのです。兄弟姉妹です。愛し合い、支え合うために召され、キリストの愛を実践において証しするために召されています。互いをさばき合う世界をさっさと脱出して、お互いを支え合うことにこそ献身したいのです。むしろ、一緒に忍耐と励ましをもって、希望を持ち続けることが大切です。4節にこうあります。 

4節  かつて書かれたものはすべて、私たちを教えるために書かれました。それは、聖書が与える忍耐と励ましによって、私たちが希望を持ち続けるためです。

ここでは、聖書で繰り返し教えられている「忍耐」と「励まし」に目を向けさせています。隣人を「さばきなさい」とは一度も教えられていない一方で、「忍耐」と「励まし」は多くの個所で繰り返し教えられているものです。さばくことや見下すことは人を倒れさせますが、忍耐と励ましは人を希望に留まらせるからです。

私はしばしば、自分の忍耐の足りなさに嘆いています。「なぜ、どうして」とイライラしてしまうのです。でも、そのイライラを他の人にぶつけたなら、その人は「希望に留まろう!」となれるでしょうか。かえって傷つき、落ち込むでしょう。忍耐が必要です。また、積極面で必要なことは「励まし」です。忍耐するだけでなく、隣人を励ますのです。これらの「忍耐」も「励まし」も、まさに「力のない人の弱さを担う」ことの具体的な方法です。口先で「弱い人を担おう」と言っても、忍耐もせず、励ましもしないようでは中身がありません。ただ、私たちのうちには忍耐も励ます力も足りていないことでしょう。

 ですから5節にこうあるのです。

5節  どうか、忍耐と励ましの神があなたがたに、キリスト・イエスにふさわしく、互いに同じ思いを抱かせてくださいますように。 

 そうです。私たちの主は、忍耐と励ましの神なのです。どちらもこの方から来るのです。この方に求めなければ不可能です。いや、私たちすべての者がすでに神様からの忍耐と励ましをいただいているから、今、生かされ、神の子として歩ませていただけているのですよね。それがなかったら、もうとっくに滅んでいるでしょう。もうとっくに倒れているでしょう。主の忍耐と励ましが、私たちの救いなのです

 日曜礼拝でも、主が私たちの若い頃の愛と従順を覚えておられ、立ち返るのを待っておられると学びました。主が忍耐してくださり、私たちを励ましながら、待っておられるのです。これが私たちにとって大いなる希望ですよね。だから立ち返れる。そして、私たちも主の忍耐と励ましを学ぶよう教えられています。5節をもう一度味わいましょう。

5節  どうか、忍耐と励ましの神があなたがたに、キリスト・イエスにふさわしく、互いに同じ思いを抱かせてくださいますように。 人をさばくためには主は力をくださいません。しかし、隣人を喜ばせるためには力を与えてくださいます。

隣人の弱さを担うために忍耐し、彼らを立ち上がらせるために励ます力。これを主がくださるのです。愛し支えるためには、主ご自身が大いに働いてお支えくださるのです。こうして6節にあるように、同じ心をもって、声を一つにして、キリストの父なる神がほめたたえられることこそ、私たちに求められている最善です。6  そうして、あなたがたが心を一つにし、声を合わせて、私たちの主イエス・キリストの父である神をほめたたえますように。 

神の国の仲間が争っていては、神の国は成長しません。心を一つにし、声を合わせて主をたたえるのです。私たちは誰もが弱い。誰もが弱さを持つ。なのに争い分裂したら、もっと弱くなる。そんな愚かなことをしてはなりません。弱いのですから、力を合わせるのです。心を一つにするのです。声を合わせるのです。弱さを互いに似合い合うのです。

 すぐに落ち込みます。すぐに疲れます。だから、互いを喜ばせ、互いに忍耐し、互いを励ますのです。このようにして、主がそうしてくださったように、私たちも互いを建て上げましょう。互いの信仰が豊かになるよう励まし合いましょう。一緒に同じ主を見あげ、賛美して参りましょう。声を合わせ、心を合わせて!



引用元聖書
<聖書 新改訳2017
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