東村山福音自由教会 ✞ Sunrise Chapel: 毎日の聖書【7月】

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2025/07/09

毎日の聖書【7月】

1日(火)使徒4章15-22節
 ユダヤ人の指導者たちは、ペテロとヨハネによる癒しと宣教を見て脅威を感じ、対応策を話し合った(15-16)。そして、今後、イエスの名によって誰にも語ってはならないと脅迫したのだ(17-18)。私たちならば、この手の脅迫に安易に屈してしまうだろう。人は弱い・・・。だが、それに対して、ペテロとヨハネはどのように応じたのだろうか?
 19-20節「神に聞き従うよりも、あなたがたに聞き従うほうが、神の御前に正しいかどうか、判断してください。私たちは、自分たちが見たことや聞いたことを話さないわけにはいきません。」神の御前に何が正しいかは明白だ。ペテロとヨハネは、「話したい」ではなく、「話させて欲しい」でもなく、「話さないわけにはいかない」と言ったのだ。ある宣教師は言った。「主イエスのこと、聖書のことを一切話さなくなる時、それは私の死ぬ時である」と。少なくとも彼らはそのように生きたのだろう。だが、そこには神の守りもある。21節にあるように、彼らは再度脅すことはできたが、罰することはできなかった。多くの人がみわざのゆえに、神をあがめていたからである(21)。

2日(水)使徒4章23-24節
 脅迫されつつも、釈放されたペテロとヨハネは、仲間のところに行って、事の次第のすべてを残らず報告している(23)。この交わりはすばらしい。私たちはしばしば語らない。共有しない。報告をほとんどしない。それは、祈りを生まないことである。わからないことは祈りにくい、祈りようもない。しかし、この出来事の共有、困難な状況の共有は祈りを生んだのだ。24節で、これを聞いた人々が「心を一つにして、神に向かって声をあげた」とある。すべてを造り、すべてを治める神に、彼らは心を一つにして祈り始めた。みことばを思いめぐらしながら、神のみこころを求めて。日本人の美徳は配慮と遠慮であろうけれど、しばしば行き過ぎる。それゆえ、内緒にし過ぎて祈りの輪が広がらない。ともすると、神の助けを得る機会を減らしてしまわないだろうか?一人で祈ることも確かにできる。だが、二人でも三人でもイエスの名によって・・・とあるように、「ともに祈る」恵みが教えられていることを忘れないようにしよう。

3日(木)使徒4章25-29節
 迫害がなされた時に兄姉たちは、すべてが神のご計画であることを悟った。すべては聖霊によって、かつてダビデによって神が語られた通りであったと(25)。27節では、それが事実起こったのだと確認している。そして、28節で「あなたの御手とご計画によって、起こるように前をもって定められていたすべてのこと」が行われたのだと語る。つまり、すべて、主が前もって語られ、ご計画なさっていたことがその通りに進んでいるということだ。私たちは目の前の様々な出来事に、一喜一憂する。驚き戸惑う。だが、神のみことばを知れば、既に神が言われていたこと、教えておられたことであると気づかされる!みことばを知るならば、心の備えができると知らされるのだ。そうなると、冷静さを与えられ、自分の使命に心を向けられる!これらの人々の迫害、脅かしさえ、神が予知しておられ、すでに語り、備えるよう示しておられたことだ。ゆえに、彼らは脅かしに恐れず、戸惑わず、みことばを大胆に語らせてくださいと神に祈っている(29)。私たちも神のみことばによって、先に知らされておこう。備えをしよう。そして、必要な時に大胆にみこころを行えるように!!

4日(金)使徒4章30-31節
 ペテロとヨハネが逮捕され、イエスの名によって語ってはならない、つまり「宣教するな!」と脅された時、使徒たちは心を一つにして祈った。最初は恐怖心もあっただろう。誰でも恐れはあるはずだ。だが、彼らは祈る中で、神のみことばに目を向けた。恐れる時に、人間の方法で対峙すべきではない。そうではなく、神のみことばに目を留めるなら、神の守りと助けがあること、そこにも神の計画があることに気づかされる。そして、神に信頼して積極的に祈った!みことばを大胆に語らせてくださいと。そして、30節にあるように「御手を伸ばし」て、イエスの名によって癒しとしるしと不思議を行わせてくださいと。この祈りは応えられていく。31節で、祈り終えると、一同は聖霊に満たされ、神のことばを大胆に語り出したのだ。みこころにかなう祈りは応えられる。恐れる時、私たちはまず祈り、そしてみことばに目を向け、聖霊の助けをいただこう。その時、怯えた歩みではなく、「大胆に」神の栄光を語り告げる歩みへと主が導いてくださる!

5日(土)使徒4章32-37節
 この時のキリスト者の共有する交わりについて、再び語られている。脅迫され、迫害があったが、かえって使徒たちの心と思いは一つになっている(32)。彼らは迫害や困難がある時に、ますます神に拠り頼み、また、ともに祈り、強められていたようだ。それで33節にあるように、主イエスの復活を大きな力をもって証し、その分恵みも大きかったことがわかる。そして、驚くべきことがある!彼らの中には「一人も乏しい者がいなかった」のだ(34)。それは皆が所有している物を売っては使徒たちの足元に持って来て、それを分配していたからだ(35)。現代でも、世界には、すべての人が生きていく上で必要な物は十分足りていると言われる。だが、一部の者が占有するために、足りなくて死んでいく者たちが大勢いるのだ。この信じた者たちの交わりのように、互いを思い合い、分かち合うならば必要は満たされるのだ。使徒の時代のように、御霊によって分かち合う交わりが広がることを願う。

6日(日)使徒5章1-6節
 衝撃的な出来事が起こった。アナニヤとサッピラという夫婦は、土地を売ったお金を使徒たちのもとに持って来た。ただし、彼らはウソをついていた。土地を売った代金の一部は自分たちのために取っておき、一部だけを持って来て、あたかも全額であるかのように偽装したのだ。この2節の「取っておく」ということばには「着服する」という意味もある。弱さのゆえのウソではない。言い間違えたのでもない。夫婦で偽装し着服したのだ。もちろん、財産をみな献げなければいけなかったわけではない。4節にあるように、売らないままでも良かったし、売った場合でも自由にして良かったのだ。本当のことを言えば良かった。だが、彼らは神と教会を意図的に騙そうとしたのだ。だからペテロは3節で「サタンに心を奪われて聖霊を欺き」と指摘し、4節でもあなたは人を欺いたのではなく、神を欺いたのだ」と言うのだ。このことばを聞いた後、アナニヤは倒れ息が絶え、これを知った人々の間に大きな恐れが生じた(5)。私たちも背筋を伸ばされる記事だ。神や人を欺いて、名声や財を得ても、まことのいのちを失えば何になるだろう。私たちが宝を積むべきは天の御国である。

7日(月)使徒5章7-11節
 アナニヤが倒れて絶命した後、妻のサッピラが、これらの出来事を知らずに使徒たちのいるところに入って来た(7)。ペテロは彼女に、この土地をこの値段で売ったのかと質問すると、彼女はその値段だと答え、夫と同様にウソをついた(8)。それゆえ、「なぜあなたがたは、心を合わせて主の御霊を試みたのか」とペテロに指摘された(9)。彼女は神を侮ったのだ・・・。そして、夫と同じように足元に倒れ、絶命してしまったのだ。「ペンテコステ」という聖霊降臨の大いなる出来事は、聖霊の働きが劇的に明らかにされる非常に特殊で、極めて重要な時であった。聖霊の劇的なみわざを体験している最中だからこそ、その聖霊を知っていながら神と教会を欺く行為は、厳粛にさばかれたのであろう。ただ、これによって、皆が「神を恐れる」ということを学んだのだ。確かに厳しいさばきに見える。だが、その厳しさがなければ、人はなお神を侮り続ける。それほどに人は頑固で、愚かで、大きな痛みを通らないと本気で神を求めないのではないか?あなたはどうだろう。今なお、どこかで神を侮り、今日も神は見ていないと思い込んで歩んではいないだろうか。主はご覧になっている。

8日(火)使徒5章12-14節
 引き続き使徒たちによって多くのしるし、不思議がなされた。「ほかの人たちはだれもあえて彼らの仲間に加わろうとはしなかった」とある(13)。「この人々」は、まだイエスを信じられなかった者や、信じてはいるがそこまで献身的ではなかった人々の可能性がある。指導者たちの圧力を恐れて、あるいはアナニヤとサッピラの事件を聞いて恐れ、慎重になった者がいるのだろう。だが、それでも「民は彼らを尊敬していた」とある。とても胸に響くことばだ!そう簡単に信じることができない人々も確かにいる。だが、それでも、「民は彼らを尊敬していた」という点が重要だ。すぐにキリスト信仰に導かれなかったとしても、尊敬されていることは確かな証しである。それによって、時間とともに、14節にあるように、やがて主を信じる者は起こされていくのだ。いい加減な気持ちではなく、恐れの中でも、尊敬できるキリスト者を近くに見ている時、やがて人々の心は深いところから揺さぶられていく。いつの時代もキリスト者が尊敬される者であることを大事にしたい

9日(水)使徒5章15-18節
 ペテロたちの癒しの奇跡は広まり、多くの人が病を癒してもらおうと、病人を寝床のままで大通りに連れて行くようになった。そして、ペテロが通りかかる時には、彼の影の中に病人が入るようにし、癒しを願ったほどだ(15)。これは、イエスの着物の端にでも触れればと考えた人々の発想と似ている。もちろん、ペテロはイエスに成り代わりたいなんて思っていない。彼はただ、イエスの御名こそが人々に広まることを願っていたのだ。だが、実際エルサレム付近の町々からも大勢の人々が集まり、彼らは癒された(16)。もちろん、イエスの名によってだ!すると、お決まりのパターンのように、17節で宗教指導者たちの「ねたみ」が再燃し始め、彼らを逮捕し留置所へ入れてしまうのだった(18)。いつでも「ねたみ」は恐ろしく汚れたもので、神のみこころからかけ離れているものだと教えられる。ペテロたちは何も悪いことをしていないのだ。人々を癒すという良いことをしているに過ぎない。だが、中身が良いか悪いかでは判断されない。罪の世はなんとねじ曲がっていることか・・・。教会では、そしてクリスチャンは、この罠から自由な者でありたい!ただイエスの名が広められ、あがめられることを素直に喜ぶ者となろう。

10日(木)使徒5章19-26節
 牢に入れられた使徒たちだったが、夜に主の使いが彼らを救出した(19)さらっと書いてあるが、スゴイことである。ただ、牢から出されたのは、その使命のためである。宮の中でいのちのことばをすべて語るという使命であった(20)。この20節の「いのち」とは単数で、「ことば」は複数形である。唯一のいのちに関するあらゆることばを語れというのだ。つまり、「キリストにある唯一のいのちに関する、あらゆることばを余すところなく語れ」という使命だ。だから、使徒たちは、夜明け頃に宮に入ってみことばを教え始めた。一方で、宗教指導者たちは、使徒たちを牢から引き出して来ようとしたが、既に牢の中は空であった(22-23)。権力者たちは、使徒たちを拘束し、自分たちの思いのままにしようとした。だが、少しも彼らの思い通りになっていないのだ。すべては、神の思い通りになっていたからである。「いのちのことばをすべて語る」使命に立つ者を、神はあらゆる妨げから守り、語らせてくださるのだ。あなたにもこの使命が与えられている!この唯一の希望、唯一の救いについて、聖書全体から学び、聖書のあらゆることばを駆使して語り伝えよう!!

11日(金)使徒5章27-32節
 使徒たちは最高法院に立たされ、大祭司たちの尋問を受けた(27-28)。普通であれば、緊張と恐れで何も言えなくなりそうである。実際、一度は厳しくイエスの名で語るなと戒められ、その上でこうして連行されたのだから、より危険度と緊張感は増しているはずだ。だが、使徒たちは明確に答えた。「人に従うより、神に従うべきです」と(29)。このことばは、私たちもいつも肝に銘じたい。つい、目の前の人の考えに従いがちだ。だが、いつでも神に従うのが神の民、クリスチャンのアイデンティティである。それを失っては、証しができない。30節でペテロは「あなたがたが木にかけて殺したイエス」という表現をし、大祭司を前にしても全く恐れを知らない姿に驚かされる。使徒たちは聖霊に満たされ、まさにキリストの証人として、この法廷に立ったのだ。そして、彼らはこれらのことばと行動が、自分の力でないことを知っていた。神が従う者にお与えになった聖霊が証人であると彼らは明確に語ったのだ(32)。人ではなく、神に従おう!そして、神に従う者には聖霊が働いてくださる!!

12日(土)使徒5章33-38節
 使徒を尋問していた大祭司らは、人にではなく神に従うべきとの彼らの言い分を聞き、また、神がイエスを死者の中からよみがえらせたとのことばを聞いて、怒り狂い、使徒たちを殺そうとした(33)。しかし、ガマリエルというパリサイ派の教師が、冷静な判断を人々に促した(35)。彼は、36-37節で二つの具体的な事例を挙げ、そこにいた者たちを諭した。彼が伝えたことは、こうだ。「もしその計画や行動が人間から出たものなら、自滅するでしょう」(38)。しかし、神から出たものなら、誰にも滅ぼせないのだと(39)。だから、「放っておけばよい」とのことだ。これこそ、「神に従うべき」という判断だ。神のなさることはいつでも正しい。ことごとく正しい。何も分からない私たちが早まって判断すべきではない。神の声に聞こう。神の導きに目を開こう!神に従うべきなのだから!神から出たものは滅ぼせないのだから!!


引用元聖書
聖書 新改訳2017©2017 新日本聖書刊行会

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