東村山福音自由教会 ✞ Sunrise Chapel: 毎日の聖書【9月】

ページ

2025/09/19

毎日の聖書【9月】

1日(月)使徒12章18-25節
 ペテロが脱出し、牢獄は大変な騒ぎだ。ヘロデ・アグリッパ王はその番兵たちを処刑した(18)。さて、ヘロデはツロやシドンにひどく腹を立て圧力をかけていたのだろう。それゆえ、それらの人々は王を訪ね、侍従に取り入って和解を願い出た(20)。ヘロデの機嫌を損ねて食糧を失いたくなかったからである。それで、ヘロデは権力を示すため、王服を着て彼らの前で演説を行った。集まった会衆はなんと「神の声だ。人間の声ではない」と叫び続けた(22)。しかし、自分を神とするような者は、やがて神によって滅び去るものである。23節で事件が起こった。なんとヘロデは虫に食われて(刺されて?)、息絶えてしまった。その理由が23節にある。「即座に主の使いがヘロデを売った。ヘロデが神に栄光を帰さなかったからである」と。主がなさったことなのだ。しかも人の手によらず、一瞬で、それも小さな虫一匹によって絶命したのだ。人とはなんと小さくはかない存在であろうか。それに対比されるかのように、24節で「神のことばはますます盛んになり、広まっていった」と語られる。むなしく消え去る一瞬の自分の栄光を求めるのか、それとも永遠に残り、ますます盛んになる神の栄光のために生きていくのか。私たちの選ぶ道ははっきりしている。

2日(火)使徒13章1-3節
 アンティオキアで始まっていった教会には、多種多様な人々が同じ主を信じて集まっていたユダヤ人であるバルナバやサウロが集い、あるいは、ニゲルと呼ばれるシメオンもいた。この人はアフリカ出身の黒人系の人、そしておそらく主イエスの十字架を代わりに担いだクレネ人シモンではないか。また、クレネ人ルキオもまた、同じようにアフリカ出身の人物であろう。そして他には、領主ヘロデの乳兄弟マナエンもいた。説明にあるように身分の高い人物であることは言うまでもない。ユダヤ人、アフリカ人、また身分の高い人々・・・ここには多種多様な者たちがいたのだ。これぞ主の教会ではなかろうか。天の御国では、国籍や人種などでどんな差を設ける必要があろうか。同じ主にある「神の家族」というだけで十分だろう。それができたのは、2節にあるようにともに主を礼拝し、同じ御霊によって歩んでいたからである。そして、この群れからバルナバとサウロによる第一回伝道旅行が始まって行く。

3日(水)使徒13章4-12節
 バルナバとサウロは聖霊によって送り出され(4)、サラミス島全体にみことばを伝え、パポスまで行った。そこで魔術師、また偽預言者であるバルイエス(通称名エリマ)というユダヤ人に会った。彼は地方総督セルギウス・パウルスのもとで仕え、この総督は賢明な人物でバルナバとサウロから神のことばを聞きたいと願っていたのだ(7)。しかし、魔術師エリマは二人に敵対し、総督を神から遠ざけようとした(8)。それもそのはずで、総督がまことの神に従うようになれば、偽の預言者も占いも魔術も用なしになるからだ。だが、ここでサウロことパウロは、聖霊に満たされて、彼をにらみつけて厳しく糾弾した(9-11)。驚かされるのは、パウロが「聖霊に満たされて彼をにらみつけて」相手を「悪魔の子」と呼んだことだ。聖霊に満たされる時、愛や親切に生きるようになるとばかり考えがちだが、悪に対して強く対峙する勇気も与えられるのだ。クリスチャンは優しく寛容なだけで良いのだろうか。間違っていることに対して、しっかり対峙するのも信仰だ。これにより、魔術師はしばらく目が見えなくなり、総督は主の教えに驚嘆し信仰に入ったのだった(12)。

4日(木)使徒13章13-25節
 バルナバとパウロは、ピシディアのアンティオキアに来て、安息日に、会堂に入った席に着いた(14)。すると、会堂司が彼らに「何か奨励のことばがあれば、お話ください」と頼んだのだ(15)。それでパウロが立って語り始めた。それは旧約時代からの神の救いの歴史についての奨励であった。そこで何よりもパウロが伝えたかったのは、22-23節にあるように、ダビデ王の子孫として、イスラエルに救い主イエスを神が送られたことであった。さらに、24-25節では、バプテスマのヨハネについて語るが、彼は「その方は私の後から来られます」、「私には、その方の足の履き物のひもを解く値打ちもありません」と、イエスの権威を示したことを語っている。パウロは、こうしてイエス・キリストの救いを明示している。主イエスを迫害してきたパウロだが、今は誰よりもキリストの救いを伝えている。彼は「パウロ」と名乗り始めたが、その意味は「小さい」だ。彼はヨハネのように、自分を小さな者とし、キリストの救いの偉大さを伝えようとしている。私たちもそうありたい。

5日(金)使徒13章26-32節
 パウロは会堂の聴衆に語りかけた。「アブラハムの子孫である兄姉たち」、また「神を恐れる方々」と(26)。まことのアブラハムの子孫は神を恐れる者であり、救い主を歓迎する者である。しかし、エルサレムの指導者たちは、このイエスを認めず、会堂で読まれている預言者らのことばも理解せず、イエスを罪に定めて預言の成就をさせることになった(27)。こうして、彼らは死に値するような罪が全くなかったイエスを十字架にかけて殺したが(28-29)、神はイエスを死者の中から復活させたのだとパウロは語る(30)。そして、復活後のイエスは多くの者たちに、何日にも渡って現れ、それを目撃した者たちが証人として証ししていると説いた。パウロは、このように聖書の約束と、実際に起こった事実とを説き明かし、聴衆に福音を伝えた(32)。私たちが信じているものは、迷信や神話ではない。旧約時代から語られていたことであり、実際に起こった歴史であり、多くの証人が存在する事実である。私たちも何を話そうかと悩まず、聖書そのままを、キリストの生涯を、事実そのままを伝えれば良いのだ!

6日(土)使徒13章33-39節
 パウロは主イエスの復活を力強く証しし、それは旧約聖書の約束であったということを説き明かしている。これは旧約を学んできたユダヤ人にとって重要なことであった。33節では、詩篇2篇を引用し、34節ではイザヤ55章から、さらに35節では詩篇16篇を引用しながら、主イエスが神によって生まれた神の子であること、ダビデ自身は滅びるが、その子孫として生まれたイエスは、神によってよみがえり、滅びることがないことを語った(37)。イエス・キリストの復活こそ、私たちの救いの基盤である。罪のさばきをその身に受けて死に、死からよみがえり生きておられる!復活によって、律法では不可能だった完全な罪の赦し罪への勝利がもたらされた!だから、信じる者は義(神の目に無罪)と認められるのだ(39)。主イエスの十字架の死だけでなく、その復活を心から信じよう!それは最初から神が定めていた救いのみわざであり、みことばの約束は復活によって成就し、確かなものとされたのだから!

7日(日)使徒13章40-43節
 パウロは会堂での奨励の最後に、「気をつけるように」と言った(40)。それは、預言書にあるような悲しいことにならないようにであった。パウロは、ハバクク書1章5節を引用して人々に伝えた。「見よ、嘲る者たち。驚け。そして消え去れ」とある。嘲る者とは、神とそのことばを軽んじ、嘲る者たちということだ。その者たちは、驚き恐れ、そして消え去って行くしかない。なぜなら、先程のことばの後に「わたしが一つの事を、あなたがたの時代に行うからだ」と続くからだ。それは、神の警告を無視し、悔い改めないならば、神のさばきが、あなたがたの時代になされるということだ。幸いにも、この会堂の人々は心を開いて、みことばを求めた!!次の安息日にも語って欲しいと求めた!会堂を去った後も、人々が話を聞かせて欲しいと、パウロとバルナバの後について来て、語り合ったのだ。私たちも求めよう。求め続けよう。拒んだり侮ったりせず、主の救いのことばを求め続けよう。理解が十分できなくても、完璧に実行できなくても求め続けよう!主はそんなあなたを覚えていてくださる。

8日(月) 使徒13章44-46節
 次の安息日には、ほぼ町中の人々が、主のことばを聞くために集まって来た(44)。このように求める人々が起こることは、とても嬉しく感謝なことである。どの町にも求める者はいる。だから、あきらめずに種を蒔き続けることが大切なのだ。だが、これを見たユダヤ人たちはパウロが語ることに反対し、口汚くののしったのだ(45)。しかも彼らの動機は「ねたみに燃え」てであった。正しいことをしよう、神のことばをまっすぐに伝えようと思えない姿に、当時の指導者たちの堕落を見る。だが、46節を見ると、このような反対さえも、神の豊かなご計画の一部であったことに気づく。こんなにも罪深い「ねたみ」さえ、主の計画を曲げることも止めることもできず、これによってかえって異邦人宣教への力が増していくのだ。46節にあるように、彼らのこの妨げで、パウロたちは「私たちはこれから異邦人たちの方に向かいます」と決意を固めることができたのだ。私たちも様々な妨げ、反対を受けることがある。だが、それもまた主の新しい計画が動こうとしているしるしかも知れない!

9日(火)使徒13章47-48節
 パウロとバルナバは、ユダヤ人のねたみから来る攻撃に対して、これから異邦人への宣教が主のみこころだと伝えた。しかしそれは、旧約時代において既に預言されていたことだ。神は最初から、救いはユダヤ人だけのものではなく、世界中の主を求める者たちのものだと教えておられたのだ。47節で、イザヤ書49章6節を引用し「わたしはあなたを異邦人の光」とするという神のみこころを提示している。それだけでなく、そこには「地の果てにまで救いをもたらす者とする」とも語られている。この神の救いのご計画のおかげで、私たちは今、「神のもの」とされているのだ。そもそも、ユダヤ人が先に救われた理由は何だろうか?独り占めするためでもなく、偉くなるためではない。彼らが「神のしもべ」となって、福音を世界に伝えるためである!私たちも、この地で他の人より先に救われた理由を正しく理解しなければならない。私たちもこれから救われる方々のための「世の光」とされていることを忘れてはならない!

10日(水)使徒13章49-52節
 こうして、主のことばはこの地方の全域に広まって行った(49)。ところが、ユダヤ人らは多くの人を扇動して、ますます迫害が強まり、パウロたちをこの地方から追い出したのだ。彼らは粘着質で、自分たちが攻撃するだけでなく、こうやって多くの人を扇動し、巻き込み、罪を犯させた(50)。その責任は、神の前に非常に重いと言える。私たちも「ねたみ」等の理由で、他の人々の働きを決して妨げるようなことをしてはならないそれは自分に返って来てしまうからだ。さて、このような迫害があっても、それはかえって福音がより広がることだと考えた弟子たちは、いつでも喜びと聖霊に満たされていた(52)。キリスト信仰はある意味では、主にあって非常に楽観的、ポジティブで、逆境に強い。攻撃されて落ち込むよりも、そこに神の新しい計画を見出せるからである。すべてが神の見ての中にあると信じる者の強みがここにある!

11日(木)使徒14章1-7節
 パウロとバルナバはイコニオンへと移動し、二人がユダヤ人の会堂で話をすると、ユダヤ人もギリシア人も大勢の人が主イエスを信じたのだ(1)。ところが、信じようとしないユダヤ人たちは、自分たちが信じないだけでなく、異邦人たちをも扇動して、キリスト者たちに悪意を抱かせたのだ(2)。どこに行っても、いつの時代でもこうした反対者は起こる。また、反対するだけでなく、悪意まで抱かせるのだ。聖書の知らせを伝える、そして信じたい人だけが自由に信じるのだ。信じない人もその自由がある。それなのに、なぜ、信じる人を攻撃しないと気が済まないのだろうか。そこに人のねたみ、自分の考えと違う存在が増えることへの恐れ、敵意、人の罪や弱さが垣間見える。しかし、そのような中でも私たちは語ることをやめてはならない。それが真実であり、人を本当に救うのだから!事実、二人はこうした戦いがあっても長期に留まり、主によって大胆に語ったのだ。そして、主は彼らの手によってしるしと不思議を行わせ、その恵みのことばを証しされた(3)。必ず反対や敵意があるが、私たちは語ること、伝えることをやめずに、大胆に語り続けよう!主のみこころであるのだから!

12日(金)使徒14章8-18節
 リステラの町に生まれつき足の不自由な人がいた(8)。彼もパウロの話に耳を傾け、パウロは彼の中に癒されるに相応しい信仰があることを見て(9)、「自分の足でまっすぐにたちなさい」と言った(10)。すると、即座に癒され、彼は飛び上がり歩き出したのだ。しかし、問題はその後で、彼らは「神々が人間の姿をとって」私たちのところに来たと騒ぎ出した。バルナバをゼウスと呼び、パウロをヘルメスと呼んで、ギリシア神話の神々のようにまつろうとしたのだ(13)。これを聞いた使徒たちは、嘆き叫ぶようにして彼らの行為を否定した。自分たちは同じ人間だ!天地と私たちを造られた神を伝えているのだ!と。私たちはもちろん「神」と呼ばれることを良しとしない。だが、神のように崇拝され、何でも言うことを聞くようになることを心地よく思う面は否定できない。だが、使徒たちは、嘆き叫ぶようにして大否定をした。ただ神だけを証しし、自分たちは一切目立たなくてよいと考えていたのだ。この点が簡単なようでとても難しい・・・ 私たちは認められたい。評価されたい。スゴイと言われたい。だが、私たちは自分をではなく、神を伝えたいのだ。

13日(土)使徒14章19-22節
 パウロとバルナバがリステラで忍耐深く福音を伝える中、アンティオキアやイコニオンから来たユダヤ人たちが群衆を抱き込んだ。そしてパウロを石打ち刑にしたのだ(19)。石打ちはとても恐ろしい刑で、高いところから突き落とされ、人々によって死ぬまで石を投げつけられるものだ。全身の打撲と失血によって死にいたる。この時、石打ちにした者たちは、パウロが死んだと思いこんで、町の外に引きずり出している。しかし、パウロは生きていて、立ち上がると町に入って行き、翌日にはバルナバと一緒にデルベへと向かい、そこで福音を伝えたのだ(20)。それどころか、そこで多くの人が救われてからは、迫害を受けたリステラ、イコニオン、アンティオキアへ引き返し、弟子たちの心を励ました(21)。そのような恐ろしい目にあった地に引き返すなど、私たちは到底考えられないのではなかろうか・・・。誰もが苦しみは避けたい。恐ろしい。だが彼は言った。「私たちは神の国に入るために、多くの苦しみを経なければならない」と。私たちは救いとともに、キリストのゆえの苦しみも賜ったのだ。その苦しみは永遠の栄冠に続く苦しみであることを忘れないでいよう。

14日(日)使徒14章23-28節
 どの町でも反対や迫害はあり、パウロたちは弟子たちを励ましていた。ところが、パウロたちもずっとこの地に留まることはできない。まだまだ福音を届けるべき地がある。そこで彼らは、残される者たちのために「長老」と呼ばれるリーダーたちを選び、断食祈祷をし、信じている主にゆだねたのだ(23)。
 私たちには愛する人々の生涯を守ってあげることはできない。病気の親が心配でも、弱さを抱える子どもが心配でも、24時間ずっと見守ることはできないのだ。でも、私たちには恵みの主がおられる。様々な不安がある中でも、信頼している恵みの主に私たちの愛する人を「ゆだねる」ことができる。なんと幸いなことだろうか。そもそも、26節によれば、パウロとバルナバ自身が「神の恵みにゆだねられて送り出された」と語られている。私たちは誰も最後まで見届けることはできない。それが人間だ。だから、神の恵みにゆだねるという姿勢をいつでも持とうではないか

15日(月)使徒15章1-5節
 パウロとバルナバがアンティオキアに滞在中、ある激しい論争が起こった。ある人々が「割礼を受けなければ救われない」と教え、パウロたちは反対したからである。そこで、パウロとバルナバと何人かの者たちは、この問題について使徒や長老と話し合うために、エルサレムに上ることになった。ただ、彼らはエルサレムに行く途中でさえも、人々に恵みをもたらすことを続けていた。フェニキアやサマリアを通ったが、その道々、異邦人の回心について詳しく伝えたので、すべての兄弟たちに大きな喜びがもたらされたのだ(3)。エルサレムに着いた際にも、彼らは神が行われたことをすべて報告している(4)。ところが、パリサイ派の者で信者になった人々が、異邦人に割礼を受けさせ、モーセの律法を守らせるべきだと主張した。律法主義は悩みと対立をもたらし、神のみわざの証しは人を悩みから解放し、恵みをもたらしてはいないだろうか?どちらを神は喜ばれるのだろうか。

16日(火)使徒15章6-9節
 エルサレムで異邦人の救いについて協議がされ、多くの論争があったが、大きな影響を与えたのはパウロによる、信仰から出た発言であった。神は、ユダヤ人が福音を信じて救われるようになさったように、それと同じように異邦人にも聖霊を与えて、そこに救いが起こっていることを証しされたのだと、パウロははっきり言った(8)。神はそこに、何の差別もつけず、彼らの心を信仰によってきよめてくださったのだと(9)。信仰から出たことばには、力がある。その根にはみことばがあり、さらに、神のなさった実際のみわざがそれを証ししているからだ。私たちの語ることばも、みことばに根ざした力あるものでありたい。また、それを実際に信仰生活の中で、神のみわざとして体験すれば「鬼に金棒」である。神のことばは真実なので、その通りになる。実際、パウロのこの発言は真実であって、この後、世界中の異邦人がキリスト教界を導いていくことになるのだから!

17日(水)使徒15章10-11節
 パウロは律法主義的なユダヤ人たちに尋ねた。「なぜ、あなたがたは、自分たちも先祖たちも負い切れなかったものを、異邦人たちには負わせようとするのか」と(10)。そうして、神を試みるのはなぜなのかと。自分たちが出来ないものを、他の人に負わせようとする時、そこに矛盾が生じ、神もまたそれを誠実だとは見なされない。よく親が偉そうに子どもに指導するが、「お父さん、お母さんも出来てないじゃないか!」と、子どもたちは矛盾を覚え、そこに怒りと反発を抱いてしまう。 律法主義は、守れる理由や仕組みを作って「守っていることにしてしまう」ご都合主義とも言える。それは神の望まれたことではない。だから、パウロは言う。「私たちは、主イエスの恵みによって救われると信じていますが、あの人たちも同様なのです」と。私たちが完璧でないのと同じように、他の人も完璧ではない。汚れた私と同じように、あの人々も汚れている。私たちに主イエスの十字架が必要なように、あの人たちも必要不可欠なのだ。

18日(木)使徒15章12-21節
 パウロの信仰から出たことばを聞いて、全会衆は静かになった。耳を傾けたのだ。そして、ヤコブはそれに応答して整理し、提案をした。第一に、神が既に異邦人を顧みられたという事実について(14)第二に、それらが旧約預言のことばと一致していることについて。これは聖書的な根拠があるということだ(15-18)第三に、だからこそ、異邦人の間で神に立ち返る者たちを「悩ませてはいけない」という点だ
 自分たちの固定観念やこだわり、勝手な正義感が、新しく信じる者を悩ませてしまうことがある。私たちもかつては悩み、苦しんだのに、その苦悩を同じように負わせようとしてしまう。私たちは失敗から学び、新しく信じる若いキリスト者に、不要な重荷を負わせないようにしたい信仰の成長とともに徐々に背負えるようになることも多いのだから。人の救いのために、私たちは不要なこだわりをどれだけ脇に置けるだろうか。

19日(金)使徒15章22-29節
 エルサレムでの会議の結論がアンティオキア等にいる異邦人たちに伝えられることになった(22)。それは、一部の強硬なユダヤ人たちの言動によって、異邦人たちを混乱させてしまったことについての決定だ(24)。それは「神のみこころから離れた人間的な言動」であったからである。そこで、彼らは話し合った結果、、「聖霊と私たちは」次のことを決めたのだと伝えている(28)。それは、律法上、どうしても守るべき幾つかのこと(偶像関連、性的不品行)以外には、それ以上の重荷を負わせないことにしたという内容だった。「聖霊と私たちは」という主語にしている点は、彼らが神に心から祈り求め、聖霊の助けのうちに決断したことを表わす。それは非常に重要なことだ。私たちは、「よく話し合って決めた」と言うべきでない。「主のみこころを祈り求めて話し合い、みこころを示されて決断した」と言うべきではないだろうか。

20日(土)使徒15章30-35節
 いつの時代でも励ましが必要だ。アンティオキアの教会で、会議のこの結果を記した手紙が渡された。人々はそれを読んで、その励ましのことばに喜んだ(31)。さらに、パウロたちと一緒に行ったユダもシラスも、預言者として多くのことばをもって兄弟たちを励まし、力づけたのだ(32)。私たちキリスト者の中にも様々な違いがある。礼拝のやり方、聖書の解釈、優先順位など。時に、自分と違う人々の価値観が気に入らず、あるいは妬みのゆえに、他の人がしていることを批判したり、叩くことが起こる。だが、キリスト者が争ってばかりでは、宣教は進まない福音自由教会は枝葉末節のことで争わず、大切なところで一致して、協力して宣教する群れだと告白している。まさに、このエルサレム会議のあり方を地で行く群れだ。争うことより、信者を励ますことにエネルギーを注ごう。恵みをもたらし、勇気を与え、力づけることばをどれだけ語れる人になれるか。そんなことに関心を向けていこうではないか。

21日(日)使徒15章36-41節
 パウロとバルナバは意見が対立した。バルナバはマルコを連れていくべきと考え、パウロは途中で離脱した者は連れていくべきでないと考えたのだ。39節にあるように、この対立は激化し、二人は別々のチームを組んで、異なる地へ向かうことになった(39)。私たちは、こうした姿を見て「つまずき」を覚えるだろうか。喧嘩別れしたことにガッカリするだろうか。だが、彼らも罪ある者、神ではない存在である。いつの時代でも、どこででも起こることである。けれども、私たちには二人の弱さを超えて豊かに働かれる主がおられる期せずして、チームは二つに増えた形になったと言える。しかも、それぞれが自分の故郷へと遣わされ、「地の利」を生かした宣教が、二カ所で同時にできるようになったと言えるのではないか。パウロとバルナバ。違ったタイプのリーダーが、異なる人々から必要とされている。それをご存知の主が、彼らの弱さを用いて導かれたのだ。目の前で起こった出来事を、自分の知識や経験だけで解決してはならない。その奥にある主のご計画に、私たちの心の目をしっかりフォーカスしよう!

22日(月)使徒16章1-5節
 パウロはデルベ、そしてリステラへと向かった。そこで、パウロにとって重要な出会いが待っていた。パウロの愛弟子となっていくテモテとの出会いである。このテモテは、ユダヤ人のキリスト者を母に持ち、父はギリシア人であった。そして、2節では、テモテがキリスト者の間で評判が良い人物であったことが語られている。さらに、3節によれば、パウロはこのテモテをどうしても連れて行きたかったことがわかる。そして、テモテはこれからパウロの片腕のようになって、彼を支え、また豊かに用いられていく。テモテも加わった一行は、諸教会を励まし、教会はそれで強められて成長していったのだ(5)。実に、人材こそが教会の宝である。財力や建物ではない。だから、人を道具のように使う組織になってはならない。むしろ、人のために組織であり、一人のために皆が何をできるのかを考える交わりでありたい。

23日(火)使徒16章6-10節
 とても興味深い箇所である。パウロ一行はアジア(現在のトルコ西部付近)でのみことば宣教を、聖霊によって禁じられた。それで、より東にあるガラテヤ地域に向かった(6)。さらに、そこから北西のビティニアに向かおうとすると、イエスの御霊がそれを許さなかった(7)。それでアジアの西端にあるトロアスに下ったとき、いよいよ幻でパウロは示された。それは、マケドニアの人々の叫びであった。「私たちを助けてください」と叫んでいる幻をパウロは神から見せられた。それで「私たちはただちにマケドニアに渡ることにした」と語られる(10)。著者は医者のルカであるが、彼も一緒に行動していたことが分かる記録である。それにしても、行かない場合も、行く場合も、語る場合も、沈黙する場合も、御霊が導いたことが分かる。そして、それにより、本当に行くべきところ、「助けてください」と叫ぶ者たちのところに遣わされたのだ。私たちも神の導きに耳を傾けよう。時間は限られている。その中で何をすべきなのか、どこに向かうべきか、何を語るべきなのか。御声に従おう。

24日(水)使徒16章11-15節
 パウロたちは聖霊の導きに従ってトロアスから船出して、マケドニア地方に向かった。そこで、マケドニアの主要都市であるピリピの町に行き、安息日に「祈りの場」に集まっていた女性たちと話をした(13)。そこには「リディア」という紫布の商人がおり、神を敬う人物であったが、主が彼女の心を開いてくださったので、パウロのことばが心に留まった(14)。こうして、彼女とその家族がバプテスマを受け(15)、ピリピの教会が始まっていく。ここで重要なのは、「主の導き」ということだ。そもそもパウロたちの行動のすべては、聖霊の導きによるものだった。ピリピに導いたのは明らかにキリストの御霊だったのだ。そして、ここでもリディアの心を開いてくださったのは主で、彼女とその家族を主が救ってくださったのだ。もちろん、15節にあるように彼女も熱心なのがよく分かる。パウロたちに懇願して家に泊ってもらい、福音をさらに深く学んだのだ。私たちが必死に求めるなら、主は応えてくださる。つまり、リディアの求めに応じた神は、彼女と家族のために遠方からパウロたちを呼び寄せたと見ることもできるのではないだろうか?求める者と伝える者とを、主である神が出会わせてくださるのだ!

25日(木)使徒16章16-18節
 パウロたち一行は、「占いの霊に憑(つ)かれた」若い女奴隷に出会った。単に占いをする女性ではなく、占いの霊に憑かれたと聖書は語る。その背後に悪魔や悪霊があって、彼らに支配されているので、憑かれたと言うのだ。そして、この女奴隷の占いは主人たちに利用され、金儲けの道具とされていたのだ。しかし、この女性はパウロやルカたちの後について来て、叫び続けた(17)。毎日騒がしく叫ばれ、伝道が妨げられていたのだろう(もちろんそれも、悪霊の働きであったと思われるが)。それでパウロは困り果て、悪霊に、キリストの御名によって出て行くよう命じると、ただちに悪霊は出て行った。こうしてパウロは正しいことをした、だが、金儲けをしていた者たちからはひどく恨まれ、ひどい目に遭わされてしまう。私たちは正しい良いことをしても、憎まれ恨まれることがある。だが、これによって一人の女性が、悪霊から、そして彼女を利用する者たちから解放されたのだ。私たちも、様々な戦いがあるが、それでも人の救いにつながる正しい道をいつでも選んでいきたい

26日(金)使徒16章19-25節
 占いの霊に憑かれた女奴隷を解放した時、彼女を利用して金儲けをしていた主人たちは、楽して儲ける手段を失ったのだ。それでパウロとシラスを捕らえ、役人に訴えた。ローマ人が受け入れること、行うことの許されていない風習を宣伝したという罪だ。こうして、パウロとシラスはむちで打たれ、牢屋に入れられてしまったのだ。このような不当な逮捕、暴力を受けて牢につながれ、彼らは何を思ったのだろうか? なんと、25節にあるように、彼らは牢獄の中で、真夜中に神に祈り、そして賛美の歌を歌っていたのだ。私たちは良い事があれば喜べるが、このような困難の中で喜ぶことは難しいのではないか。だが、彼らはキリストのゆえに苦しみを受ける時、自分たちがそれだけの働きをしたのだと胸を張り、喜んだのだろう。どのような時にも、神の最善があると信じて、主をほめ歌ったのだ。私たちもいつでも喜ぶ者でありたい。祈ること、賛美することをやめないで歩もう。

27日(土)使徒16章26-34節
 パウロとシラスが牢で賛美をささげていると、大きな地震が起こり、牢獄の扉が全部開き囚人の鎖も外れた。神のみわざである。その際、囚人たちが逃げてしまったと思い、看守は自害しようとした。責任を問われ、どのような処分を受けるかを恐れたのだろう。だが、パウロは大声でそれを止めた!(28)この看守は、逃げないでいるパウロたちに驚いたことだろう。パウロとシラスの姿に感銘を受けたのだろう。それで彼らを「先生」と呼び、「救われるにはどうしたらいいか」とさえ尋ねた。このような求めに対して、迷わず提示できる福音を持っている私たちは幸せである。すべての解決にはむしろ神にしかないのだから。二人は言った。「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます」(31)。こうして、看守だけでなく、家族もみな信じてバプテスマを受けた。看守は、パウロとシラスの傷の手当てをし、神を信じた恵みを家族全員で喜ぶに至ったのだ。逮捕さえ用いられ、投獄されなければ出会えない看守とその家族が救われたのだ。私たちがそれぞれ置かれた場には意味がある。そこで求める者に対して、福音を伝える準備をしておきたい。そこには、救いを求める人がいるのだから!

28日(日)使徒16章35-40節
 夜が明けると、長官たちは部下に命じて「あの者たちを釈放せよ」と言った。おそらく正当な理由も根拠もなく投獄していたことが明確になったからであろう。だからパウロはここで、長官たちが自分たちで来て説明をし、私たちを外に出すべきだと言った。というのは、パウロはローマの市民権を持っているにも関わらず、パウロたちに判決も出ていないのに、公衆の前でむちを打ち、牢に入れたという不当な扱いをしたからであった(37)。すると、長官たちが出向いて来て、二人をなだめ、町から立ち去るように頼んでいる。随分な対応の違いであった。ローマの市民権を持つことの大きさを物語っている。さて、パウロは頭にきて、ムキになってこれを言ったのだろうか?断定はできないが、おそらくこの町で救われた者たちが守られるのため、そして今後の宣教のためであろうと思う。不当なことを不当だと言う勇気も大切だ。しばしばキリスト者はお人好し過ぎる。働きを守るため、人々を守るために、賢く判断し、言わなければならないこともあるのだ。信仰をもって「No」と言える勇気も大事にしたい。


引用元聖書
聖書 新改訳2017©2017 新日本聖書刊行会

教会へのメールはこちらから

名前

メール *

メッセージ *