東村山福音自由教会 ✞ Sunrise Chapel: エステル記9章1-19節「後に残したいもの」

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2025/09/24

エステル記9章1-19節「後に残したいもの」

*** 9/24(水)祈祷会 説教概略 ***

「今さえ良ければ」という刹那的な人生は、やはり孤独でむなしいものです。聖書が示すように、いつまでも残る尊いもののために生きる時、私たちの心は真に喜び、満たされるのではないでしょうか。そして「負の遺産」ではなく「良い遺産」を将来に、次世代に残していきたいのではないでしょうか。みことばから教えられます。



1.異邦人の地で神に従う時、神の守りを体験する

 神の民ユダヤ人を根絶やしにしようとするアマレク人の企みがあった中で、神様の御手がそこに臨み、大逆転が起こりました。そして、いよいよ決着がつくのです。1節。

1節 第十二の月、すなわちアダルの月の十三日、この日に王の命令と法令が実施された。ユダヤ人の敵がユダヤ人を征服しようと望んでいたまさにその日に、逆に、ユダヤ人のほうが自分たちを憎む者たちを征服することとなった。 

 アダルの月の十三日。ペルシア王の名で出された法令が実施されました。最初に出たのは「ユダヤ人虐殺命令」でした。アマレク人ハマンの策略でしたね。しかし、まことの神を信じる王妃エステルとモルデカイの働きによって、ユダヤ人が自分たちを襲う者たちを征服できる権利もまた、法令で出されたのです。そして、1節にありますように、ユダヤ人を征服しようと望んでいた者たちが、かえって神の民に征服される結果になったのです。これは、ユダヤ人という民族に敗れたのではなく、彼らが信じる神に敗れたということです。神がすべてを導き、備えてくださったのです。平民だったエステルは見出されて王妃となり、お城の門番に過ぎなかったモルデカイも今や国のNo.2です。そして、811節の法令が、多くの民族に対する「絶大な抑止力」となったことも分かります。ユダヤ人を襲おうものなら、かえって征服される権利をもたらすからでした。それで2節にあるように、ユダヤ人への恐れが生じていたのです。それでもはや、ユダヤ人に敵対する部族は多くはありませんでした。

3節にもこうあります。

3節 諸州の首長、太守、総督、王の役人もみなユダヤ人たちを支援した。モルデカイへの恐れが彼らに下ったからである。 

 そして、4節でも、実際にモルデカイが、このユダヤ人虐殺命令執行日までに非常に勢力を拡大しており、都であるスサだけでなく、ペルシアの多くの州にその名声が届いていたとあります。主はここまで、相応しい期間を用意して、国の隅々まで準備が整うようにされたのです。

 さて、改めて皆さんに質問ですが「ここはどこでしょうか?」ここはユダヤ人の国ではありません。彼らは侵略されて国を奪われ、今いるペルシアは「囚われの地」です。捕虜として連れて来られた異国です。その国において、彼らはここまでの力を得たのです。誰のおかげでしょうか。エステルでしょうか。モルデカイでしょうか。彼らに天国でインタビューしたら、「自分ではない」と全力で否定するでしょう。代わりに、「すべては主のみわざです」と言うでしょう。神の守りはなんと力強いことでしょうか。無防備な異国の地の捕虜となってさえ、主の守りは最強です。信じて従う者を助けてくださるのです。日本もクリスチャン人口が少ない、マイノリティです。しかし、主がおられます。私たちもこの主を信じて、この地で胸を張り、証ししていきたい。謙虚に誠実に、主の御名を証しして歩むなら、主が私たちを高く引き上げ、この地で力ある者としてくださいます

 

2.後々までも残るもの 

 さて、このような中でも、ユダヤ人に殺意を燃やす者たちがいました。ほとんどがアマレク人であろうと思います。特にハマンの子どもたちは、710節で全員の名前が記され、10人の息子皆が滅んだことが記録されています。このハマンは、かつて神様がさばきによって滅ぼすことを計画しておられた、アガグという王の子孫でした(3:1参照)

 ところが、当時のユダヤ人の王サウルは、神の命令に従わなかったのです。それで、このさばき(聖絶)が実行されず、後々まで神の民を苦しめました。しかし、この時代に、ついに神の聖なるさばきが実行されたのです。さて、注目しておきたいことは、ユダヤ人たちの戦いは、無抵抗な者にはなされず、財産の略奪などもしませんでした。8章でモルデカイによって出された法令は、命令ではなく許可であったことが、ここで生きています。

 5節によれば、「彼らの敵」「自分たちを憎む者」とあります。あくまでも敵対してくる者に対する戦いでした。そもそも旧約聖書に出て来る「聖絶」とは、「罪に対する神の聖なるさばき」なので、神に従う者、神に敵対しない者に対してなされるものではないのです。あくまでも神に敵対する者への戦いであったと同時に、略奪もしなかったことが分かります。10節最後にこうあります。「しかし、略奪品には手を出さなかった」。15節、16節の最後にも全く同じことばで語られています。ユダヤ人はどの戦いでも敵対する者の財産に手を出さなかったのです。ハマンの一族は相当の財産を持っていました。王が心揺らぐほどです。ユダヤ人はそれを自由にできる権利を与えられながら、自らの意志で手をつけませんでした。

 この点も、かつてのサウル王とは反対です。サウル王は、アマレク人から奪った価値のないものは処分しましたが、価値の高いものはことごとく略奪したのです。神様はそれらを聖絶して処分せよと命じたのに、惜しんで従わなかったのです。それは罪を捨てきれず、どこかで罪を抱え込んでしまう私たちの姿と似ています。こうした過去の罪の結果は、後になって人を苦しめるのです。罪をそのままにせず、心から悔い改め、良い実を残していきたいですよね。良いものも、悪いものも、その時だけで終わらないものです。例えば、私たちが多くの人から憎まれ、恨まれたなら、子どもたちや孫たちにも影響があるでしょう。でも逆に、私たちがみこころに従って人々に愛のわざを続けていくならば、私の家族や子孫も、その恩恵を受けることになっていくのではないでしょうか。

 ですから、この神の民は、サウル王の失敗を繰り返すまいと決め、神様のみこころに従ったのです。私利私欲による報復でもなく、侵略戦争でもなく神のみこころに従った「証し」ですよね。

 特にエステルとモルデカイは、神への信頼と誠実な歩みによって戦ったのです。その歩みによって、すばらしい恩恵を子孫にもたらしていくことになりました。ペルシアという異国の地で滅ぼされかけた民です。しかし、信仰の戦いを通り、主に従い通しました。そのゆえに、主は彼らを救って良い地位を与えてくださったのです。

 それが、この次の時代、エズラ・ネヘミヤの時代の「エルサレム帰還」へと繋がっていきます。エステル記で出て来たクセルクセス王の次の王の時代です。実に、エズラ記でも、ネヘミヤ記でも、ペルシア王がとても協力的なのが分かります。エルサレムへの帰還のために、王は手紙によって関係各所への手配をしてくれました。さらには、必要な財までも豊かに与えてくれたのです。やはり、主の道にまっすぐに歩むなら、それは残っていくのですよね。たとえ私たちが天に召されても、後の世代にその恩恵が残る。私たちに出来ることは何なのか。改めて考えさせられます。私は教会の未来のために、これから生まれて来る新しい世代のために、負の遺産ではなく、恵みに満ちた良いものを残してあげたいと思います。「自分の人生の使い道」を考える時、自分のためにだけ生きるのはむなしい。後の世代の笑顔を思い浮かべながら、良きものを献げたいのです。私たちにはそれができるのです。なぜなら、それをしてくださる永遠の神がともにおられるからです。 


引用元聖書
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