しかし、彼は我に返って言った。『父のところには、パンのあり余っている雇い人が、なんと大勢いることか。それなのに、私はここで飢え死にしようとしている。(ルカ15:17)
私たちはみな、「神の目に」ではなく、自分の目に良いと思えることを大事にして生きています。しかし、実に盲目で、こうすれば幸せになれると考えるその価値観自体が歪んでいて、不完全であることになかなか気づけません。キリストのたとえ話「放蕩息子」では、弟息子は父から譲り受けた財産を持って、父から遠く離れた異国の地に行き欲のままに生きていました。ところが、散財した後訪れた大飢饉で窮乏して、豚の世話係でなんとか食いつなごうとします。豚のエサでお腹を満たしたいと願う自分、そしてそれさえも許可されないほど身を貶めてしまった自分の姿にようやく向き合うようになります。「我に返った」とは、本来の自分自身に返っていくこと。それは、客観的な自分の姿に気づき、正気に戻った時になんとみすぼらしい悲惨な自分であるかに気づくことです。そこから彼の父の愛への回帰が始まっていくのです。神を離れては、人はどんなに自分の目に良いと願うことをしても幸せにはなれません。父なる神に立ち返り、その恵みの中で輝きましょう!
(2019年4月28日 週報掲載)