聖書

すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。
わたしがあなたがたを休ませてあげます。(マタイの福音書11章28節)

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2019/04/23

心のケアと人間関係 ~悲しみに、こんにちは~



 多くの人が「悲しみ」というものを良くないもの、早く退けたいものとして考えますから、悲しみに「さようなら」と言いたいのです。クリスチャンもしばしば、誤解しています。強い信仰さえ持っていれば悲しまなくて済む。あるいは、信仰がしっかりしていれば傷つけられることばを言われても傷つかない・・・などと考えがちです。
 
 まるで悲しむことが不信仰であるかのように。
 
 いつまでもある出来事を引きずり泣いているのが信仰がない者のように。
 
 しかし、聖書は「悲しむな」と教えているのでしょうか?
 
 信仰があれば悲しみも苦しみもすぐになくなると教えているのでしょうか?
 
 Ⅰテサロニケ4:13に「悲しまないように(悲しまないために)」とあるのですが、その内容はこうです。「あなたがたが、望みのない他の人々のように悲しまないためです」 
 
 つまり言いたいことは、悲しむなという話ではなく、望みのない人のように悲しみに沈むことがないよう、聖書は真理を教えてくれているということです。ですから、むしろ危険なのは本当は悲しいはずなのに、悲しむべき時なのに、悲しみにフタをして、見てみぬフリをして頑張ってしまうことです。
 
 忙しさの中で、悲しむべき時に悲しめないままに歩んでしまうこと。そういう場合に悲しみに対して適切なケアが出来ていないのでかえって、深刻に長く引きずるということが起こります。悲しみは大なり小なり、誰もが必ず通るものです。それが自然です。ですから、悲しみに「さようなら」という発想よりも、悲しみに「こんにちは」と迎え入れる仕方をともに教えられたいのです。

 ヘンリー・ナウェンという祭司のこんな体験談があります。 彼はある時、ハリケーンと洪水で家とご主人を失った老婦人を慰めようとしました。彼女は、もう絶望していて「自分にできるのは死ぬことだけだ」と言っていました。そこでナウェンは、この老婦人に、言いました。「あなたには息子さんたちもお孫さんもいる。今も彼らはやってきて、家の修理を手伝ってくれているではないですか。それに、この地域で被害にあった人の中では、あなたの被害はまだましな方ですよ。」 
 しかし、ナウェンは、この自分のアドバイスがかえって老婦人の悲しみを深くさせてしまったと記しています。なんとなくわかりますよね。彼は彼女の悲しみそのものに寄り添えなかったのです。もう悲しむのをやめましょう!良いほうを見ましょう!という発想です。

 この祭司は、この出来事をこう省みています。結局自分がしたことは、「気持ちを楽に持ちましょうという私の言い分の方が、がっかりして絶望しているというあなたの言い分より正しい」というメッセージを伝えてしまったと。

 さらに、人の深い心の問題に気づかされます。実は、私たちが他の人の悲しみを聞くときに、自分自身がその悲しみの姿に耐えられなくなってしまうので「憂鬱な顔をしないでくれ!」という思いが生まれて来ることが多いのです。
 ですから、この老婦人ではなく、ナウェン自身が安心したいので元気な姿でいて欲しいという願望を押し付けてしまった・・・ということになるでしょうか。

 結局それは、最終的には自分の悲しみと向き合おうとしない姿そのものと言ってもいいかも知れません。また、しばしば私たちは「そんなことぐらいでくよくよするな!」と言って、話を十分に聞こうとしないことがあります。それは実は、他人の悲しみによって自分が傷つくことを恐れるところから来るのです。

 

 ですから、むしろ「悲しみに、こんにちは」と言いたい。
 
 その意味は悲しんで良いということ。
 
 自分の心が悲しんでいることを優しく受け止めてあげること
 
 ただ、やはり良い悲しみ方とそうでない悲しみ方があります。
 
 良くない悲しみ方・・・絶望して、自暴自棄になるような悲しみ方。特に罪を犯すような悲しみ方にならないように。自分が悲しみを受け入れられないゆえに人に対して攻撃的になり傷つけるようなことにならないよう。まさに、人間関係という意味ではココがポイントですよね。悲しんでいい。でも、他の人の心を打ちのめす悲しみの発散の仕方、それは神様が悲しまれるもの。自分でも後悔してしまう悲しみ方です。
 私も自分が受け入れにくい事がある時に、やはり妻に当たってしまうことがあるなぁと悔い改めさせられます。

Ⅱコリ7:10 神のみこころに添った悲しみは、後悔のない、救いに至る悔い改めを生じさせますが、世の悲しみは死をもたらします。
 
 この通りだと思います。罪を犯す悲しみ方は後悔と自己嫌悪をもたらします。結局、自分もつらくなるのです。
 

 では、神のみこころに添って悲しむとはどういうものでしょうか??

 
 一言で現わすなら
 
「神と、ともに悲しむ」
 
 ということです。
 
 イエス・キリストはあなたの悲しみに寄り添えるお方です。



 あなたの弱さ、痛みを知っておられます。
 あなたが歩けない時はおぶってくださるお方。

ヘブル4:15-16 私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯しませんでしたが、すべての点において、私たちと同じように試みにあわれたのです。ですから私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、折にかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。

それは、あなたの悲しみの中に神を招くと言ってもいいでしょう。
詩篇30:10 聞いてください主よ。私をあわれんでください主よ。私の助けとなってください。

 神様に泣き、叫び、嘆きを訴えます。
 安心してください。神様だけには獣のように自分の叫びを訴えても、本音をありのままにぶちまけても大丈夫です。あなたをお見捨てになりません。
 普通の人間関係なら壊れる事もありますが・・・。
 
 涙腺は涙を流すために神様が備えられたもの。神様が造られたその摂理に逆らって無理するのではなく、悲しむべき時には悲しみ、涙を流したらいいのです。
 
 愛する人を失ったとき、無理に作り笑いをして、これも神様のなさることですから、天国に行ったのですから感謝します。と言うことが必ずしも立派な信仰ではありません。
 
 そのあまりにも悲しい出来事も神様はご存知で私たちの悲しみをよく知っていてくださる。それを信じるならば、その悲しみを神様と共に悲しむこともまた信仰なのではないでしょうか。

 大事なことは、その苦しみ、悲しみから目をそらすのではなく、それを迎え入れること。その非常に大きな悲しみの中に神様を招きいれること。これらをグリーフワークと言って、ちゃんと悲しむ作業をすることによって、回復が早まるという理解です。

30:11 あなたは私のために嘆きを踊りに変えてくださいました。私の粗布を解き喜びをまとわせてくださいました。

悲しみを引き受けながらそこに神様を招き入れ、主の豊かな慰めと励ましの中に生かされていくことです。私たちの心が傷つかないようにすることは不可能です。もし、そんな心を求めれば、それは同時に人の痛みにも寄り添えないロボットのような人になります。
 誰より、イエス様が優しい悲しむ心をお持ちだったのですから、イエス様が深い悲しみを通られた方なのですから、この方がよく受け止め寄り添ってくださることを忘れないで歩みましょう。

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